
東京大学理科三類合格(進学先) K・R(慶應義塾高卒)
はじめまして。私は2020年度東京大学理科3類に合格しました。
出身高校は慶應義塾高校で、合格するまでに高校卒業から5年間かかりました。
皆さん、ここまで読んでどう思いますか?
「5年もかかったのかよ。馬鹿だな。時間もったいない。ほかの大学に進学して早く医者になった方がいいんじゃないか。」と思うかもしれません、いや、思うのが当然でしょう。実際、よく言われます。しかし、僕は、この意見に対する自分なりの答えを持っています。それを自分の人生と照らし合わせて説明したいと思います。
勉強を始めたのは中学生からでした。
小学生のときは習い事を毎日のようにやっていました。ピアノ、バイオリン、空手、サッカー、野球、英語、プール、そして器械体操。この中で最も力を入れたのが器械体操でした。当時、池谷幸雄体操クラブの選手コースに在籍し、現在日本代表として活躍されている村上茉愛選手や神本雄也選手とともに週6回、平日は4時間、休日は8時間練習をしていました。遊ぶ時間もあまりなく、学校の授業はいつも爆睡。よく仮病で学校を早退しました。手はまめで血だらけ、骨折もよくしました。ついに恐怖心が体操の向上心を上回ってしまい、初出場の試合をもって体操をやめることにしました。その試合では、鉄棒で失敗してしまい、結果は全国7位。不甲斐ない結果に終わってしまいました。それでも体操から逃げたかった。そこで、逃げた言い訳にしたのが、中学受験でした。
何も勉強していない自分が中学受験など受かるはずもなく、入塾した塾では一番下のクラス。そして、13校受験して受かったのは2校。そのうち目白研心中学校の特進クラスに進学しました。僕の代から共学化し、当時1期生でした。
中学校の入学前、父親に夢を聞かれたことがありました。東大に行きたい気持ちと医者になりたい気持ちがあったので「東大に進学して、卒業したらどこか医学部に入学したい」と、父に伝えました。すると「東大の医学部にいけばいいじゃん。」と言ってきました。当時は、東大理3はきっと難しいだろうと思い込み、受かる自信が持てず、話を濁しました。
医学部にしろ、東大にしろ、受験をするためにはスタートダッシュが重要だと思い、早稲田アカデミーの東大コースに入塾しようと思いましたが、断られ、それならば東進に入塾しようとするも返事の電話が来ませんでした。世の中学歴なんだな、とロマンスカーの中で母と泣きながら帰宅したのを覚えてます。
そんなとき、父が家庭教師の先生を連れてきました。彼は「滅私奉公」の体現者で、当時12歳の私の面倒を無償で、一生懸命見てくださいました。学校に行く前にskypeで勉強を見てくださったり、毎日のようにfaxで添削してくださったり。「最初の文字は大文字で書く!!」「文の最後にはピリオドをつける!!」何度も言われました。そして彼の出身が理3。このとき、この人のようになるために理3にいきたい、と意識するようになりました。
彼のおかげで中学の入学直後の試験では、数学100点、英語100点、国語91点で学年1位をとれて、自分の名前が堂々と張り出されました。勉強を才能的なものだと思い込んでいましたが、努力でなんとかなると知りました。その後、1期生としてサッカー部を設立したり、生徒会長になったりするのですが、それはまた別の話。勉強の楽しみをおぼえた私は、中学のスローペースな勉強に飽き、SEGに入塾しました。そこで中学数学を早く終え、自分に適した環境に進みたいと思い、高校受験を決めました。
高校受験に不向きであったSEGをやめ、中学受験時に通っていた塾に入塾しました。小学生の時は一番下のクラスでしたが、最終的に、高校受験の時は一番上のクラスに進み、先生方に驚かれました。
高校受験では、第一志望の開成高校、第二志望の西高校は落ちてしまい、慶應義塾高校か慶應志木高校に進学するしかなくなりました。これも運命だと思い、慶應義塾高校に進学しました。大学付属高校なので受験勉強の環境としては最悪です。
高校では器械体操部門トランポリン部に所属し、ピョンピョン跳んでいました。器械体操の経験があったので1年の夏にインターハイに出場できたのは幸運でした。
高校の特性上、勉強する人は少なく、それぞれがそれぞれの目標を作って取り組んでいました。そんな環境の中で自分は何をしたいのか、思い直したとき、憧れの人を思い出しました。困っている人に手を差し伸べられる人になるには、自分も苦労をしなければならないと思い、慶應大学の内部推薦を断り、大学受験をすることを決意しました。
その後、鉄緑会に入塾し、トランポリンはインターハイ後に退部し、周りが遊びに夢中のなか、一人で毎日のように勉強し続けました。鉄緑会の先生には君が一番勉強していたといわれるも、クラスは1度も上がらず、「中の中」のまま理3受験を迎えました。もちろん落ちました。消化不良でした。点差は約100点。絶望的でした。
現役での受験を終えたあと、父から「医者になる必要はない」と言われ、自分はどうすればいいのか見失いました。そもそも、自分がなりたいのは「困っている人に手を差し伸べられる人」。必ずしも医者じゃなくてもいい。もちろん、医者だったらそれができますが。
そこで、やりたいことをみつけるために海外の大学に留学しようと考えました。興味があったのは高校での政治経済の授業で扱った、行動経済学。従って、経済学を学びたいと思いました。Facebookで海外留学を支援しているNPO団体、「留学フェローシップ」をみつけ、その責任者に、キャンプに参加させてもらえるよう直談判しました。一方で家庭教師の先生にも相談し、MASK English Academyの塾長である、松井道夫先生を紹介していただき、そこで働く海外の方の助手として、働かせていただきました。また、SATやTOEFL の勉強をしていました。先のNPO団体の募集期日3日前に責任者から返信がきて、急いでエッセイを書き、参加試験に合格して、夏のキャンプに参加できました。そこではアメリカの大学に進んだ日本人の方々にエッセイの書き方教えてもらったり、アメリカ生活について話をうかがったり、お互いがお互いを評価しあって、自分の長所を再認識しました。
どうやら、自分の長所は「知的好奇心の強さ」だったようで、言われるまで気づきませんでした。そして同時に、自分よりもすごい人が多いということに気づけました。彼らと競い合っても敵いっこない。そう思ってしまいました。ならどうすべきか。彼らが日本でも活躍できるよう下準備をすること。当時はそう思いました。そのためには日本の大学でいいから早く進学すべきだと思い、理科2類を受験しました。
しかし、いままで理3志望だったので気が抜けてしまったことと、ブランクが大きすぎて結果は惨敗。敗因がわかっていたので、合格発表当日に本屋さんに行き、基本のキから再開しました。
2浪目は、Z-kaiを利用し、自宅浪人をしました。誰ともコンタクトをとらず、黙々と勉強する。そんな日々が続きました。勉強に疲れたら前年参加した留学フェローシップのことを考えました。本当に日本で活躍できるよう下準備だけでいいのか。やる意思があるのであれば、彼らと比肩するよう持てるすべてを用いて、よりよい社会にするために努めるべきではないか、と。自分の能力はたかが知れているので、親からもらえる環境をフル活用することを目指し、医師になる決意をしました。そして家で一年間勉強するも理3は相変わらず惨敗。70点差。さすがに限界を感じました。
3浪目は、独学では無理だと思い、駿台お茶の水校の東大理系演習コースに在籍しました。いままで受験勉強の友達が一人もいなかったので、新たに受験友達を作ったとともに、当時一番上のクラスに在籍し、通年で成績優秀者になりました。駿台に入学したからには駿台のことしかやらないと決め、東大模試でも成績が出てきて理3でもB判定が出てきました。結果的に、40名のクラスで、ほとんどが東大または医学部に進学するも、落ちたのは自分だけ。点差は40点。再び絶望しました。
4浪目は、予備校に頼っても無駄だと思ったので、またも独学でした。義兄に指導をお願いし、自分の弱さと向き合っていました。「途中計算を粗くするから計算ミスをするんだ。」「ざっとしか読まないから問題文をミスリードするんだ。」こういう感じで性格の矯正まで行っていました。
そんな夏の頃、友人に嚮心塾を紹介されました。塾長がどうやら国語と英語が得意らしいので、わらをもつかむ気持ちで入塾しました。理系科目は義兄に毎日のようにノートを添削してもらい、一方で文系科目は塾長に添削してもらいました。東大模試もB判定が基本的に出るようになりましたが、A判定は1回も出ず。ただ国語と英語の偏差値が70弱に近づきました。
この年の結果は、6点差。普通なら絶望するでしょうが、僕の場合は逆です。100点差の時もあったので「東大からあとちょっとだ、がんばれ。」って言ってもらったぞ、と意気込んでいました。今まで真っ暗闇のなかにいたのですが、かすかに光を感じました。
けれども、さすがに疲れたのは事実。ぼけーっとしていると、両親が気を利かせてくれました。母が自動車免許の学校に入れてくれたのです。自分の生活に新たな風が吹きました。
しかし、免許取得後、どうしても受験勉強に気乗りがしませんでした。そんなとき、今度は父がオンラインで大学の授業が受けられるサイトに僕を登録してくれて、受験勉強とは異なる勉強を6月までしていました。その後、受験勉強を再開しました。
夏の東大模試はA判定とB判定。初めて300点超えができました。その後は毎日のように、セットを解いて添削を受けて反省会、の繰り返し。
秋の東大模試はともにB判定。調子がよかったので、はやめに苦手なセンター試験対策を開始しました。苦戦を強いられましたが、結果はリスニング抜きで837点。そのまま2次試験を迎えました。
国語は以前塾長と議論し合った内容がでて、難なくでき、数学は難しかったですが、3完2半。初日はよくできました。
2日目は、得意の物理で失敗してしまいましたが、その分化学に時間を当て、弱点である計算ミスがありませんでした。英語も何度も塾長と相談した作戦通りにいき、自己採点すると400点弱でした。そして合格発表の3月10日。まず最低点から見ると385点。自己採点通りだったら、なんとかいけると思い、勇気を出して合格者欄を見たら自分の受験番号がありました。
その一週間後の今日、この文章を打っています。
僕も若いとき、理3合格体験記を漁り、「超人がたくさんいるんだなー」と思いました。
ここまで読んでくださった方は、僕に対しても同じことを感じますか?
おそらく感じないはず。
なぜなら、5年間の失敗があるからです。何度も絶望しました。何度も泣きました。けど、諦めなかった。信念を貫いた。僕は天才じゃない。受験勉強においては才能もない。あったのはただ、諦めの悪さだけです。
さて、最初の問題提起に対する自分なりの回答を示して終えたいと思います。
もちろん、はやく医者になれれば多くの人を救っていたかもしれない。
だけど、絶望や失敗を経験してないと、「いい人間」にはなれない。病気や苦しみのせいで、明日の希望が見えない「人間」を、どうしてそういった経験のない人間が助けられようか。弱者に対して差し伸べる手が偽善となってしまわないか。そう思ったから何度も理3受験を続けてきました。事実、こと受験勉強においては、頑張っているが結果が出ないという人と自分とを同一視してしまいます。なんとか力になってあげたい、つらさを知っているだけにそう感じます。自分の持ちうるすべてを使って助けてあげたいし、受験勉強に限らず、困っている人がいて、自分がなんとか力添えができるのであれば、誰に対しても、すべてを駆使して手伝いたい。
これを読んでいる方は基本的に受験生だと思います。そんな君たちに、この言葉を贈ります。
「浪人?上等だよ。やってやる。」
1年延びようが10年延びようが、自分の信念を諦めることに比べたらたいしたことない。
駄文ですが、いま絶望している人がすこしでも「私も、もう少しがんばってみよう」と思っていただければ幸いです。
応援しています。
はじめまして。私は2020年度東京大学理科3類に合格しました。
出身高校は慶應義塾高校で、合格するまでに高校卒業から5年間かかりました。
皆さん、ここまで読んでどう思いますか?
「5年もかかったのかよ。馬鹿だな。時間もったいない。ほかの大学に進学して早く医者になった方がいいんじゃないか。」と思うかもしれません、いや、思うのが当然でしょう。実際、よく言われます。しかし、僕は、この意見に対する自分なりの答えを持っています。それを自分の人生と照らし合わせて説明したいと思います。
勉強を始めたのは中学生からでした。
小学生のときは習い事を毎日のようにやっていました。ピアノ、バイオリン、空手、サッカー、野球、英語、プール、そして器械体操。この中で最も力を入れたのが器械体操でした。当時、池谷幸雄体操クラブの選手コースに在籍し、現在日本代表として活躍されている村上茉愛選手や神本雄也選手とともに週6回、平日は4時間、休日は8時間練習をしていました。遊ぶ時間もあまりなく、学校の授業はいつも爆睡。よく仮病で学校を早退しました。手はまめで血だらけ、骨折もよくしました。ついに恐怖心が体操の向上心を上回ってしまい、初出場の試合をもって体操をやめることにしました。その試合では、鉄棒で失敗してしまい、結果は全国7位。不甲斐ない結果に終わってしまいました。それでも体操から逃げたかった。そこで、逃げた言い訳にしたのが、中学受験でした。
何も勉強していない自分が中学受験など受かるはずもなく、入塾した塾では一番下のクラス。そして、13校受験して受かったのは2校。そのうち目白研心中学校の特進クラスに進学しました。僕の代から共学化し、当時1期生でした。
中学校の入学前、父親に夢を聞かれたことがありました。東大に行きたい気持ちと医者になりたい気持ちがあったので「東大に進学して、卒業したらどこか医学部に入学したい」と、父に伝えました。すると「東大の医学部にいけばいいじゃん。」と言ってきました。当時は、東大理3はきっと難しいだろうと思い込み、受かる自信が持てず、話を濁しました。
医学部にしろ、東大にしろ、受験をするためにはスタートダッシュが重要だと思い、早稲田アカデミーの東大コースに入塾しようと思いましたが、断られ、それならば東進に入塾しようとするも返事の電話が来ませんでした。世の中学歴なんだな、とロマンスカーの中で母と泣きながら帰宅したのを覚えてます。
そんなとき、父が家庭教師の先生を連れてきました。彼は「滅私奉公」の体現者で、当時12歳の私の面倒を無償で、一生懸命見てくださいました。学校に行く前にskypeで勉強を見てくださったり、毎日のようにfaxで添削してくださったり。「最初の文字は大文字で書く!!」「文の最後にはピリオドをつける!!」何度も言われました。そして彼の出身が理3。このとき、この人のようになるために理3にいきたい、と意識するようになりました。
彼のおかげで中学の入学直後の試験では、数学100点、英語100点、国語91点で学年1位をとれて、自分の名前が堂々と張り出されました。勉強を才能的なものだと思い込んでいましたが、努力でなんとかなると知りました。その後、1期生としてサッカー部を設立したり、生徒会長になったりするのですが、それはまた別の話。勉強の楽しみをおぼえた私は、中学のスローペースな勉強に飽き、SEGに入塾しました。そこで中学数学を早く終え、自分に適した環境に進みたいと思い、高校受験を決めました。
高校受験に不向きであったSEGをやめ、中学受験時に通っていた塾に入塾しました。小学生の時は一番下のクラスでしたが、最終的に、高校受験の時は一番上のクラスに進み、先生方に驚かれました。
高校受験では、第一志望の開成高校、第二志望の西高校は落ちてしまい、慶應義塾高校か慶應志木高校に進学するしかなくなりました。これも運命だと思い、慶應義塾高校に進学しました。大学付属高校なので受験勉強の環境としては最悪です。
高校では器械体操部門トランポリン部に所属し、ピョンピョン跳んでいました。器械体操の経験があったので1年の夏にインターハイに出場できたのは幸運でした。
高校の特性上、勉強する人は少なく、それぞれがそれぞれの目標を作って取り組んでいました。そんな環境の中で自分は何をしたいのか、思い直したとき、憧れの人を思い出しました。困っている人に手を差し伸べられる人になるには、自分も苦労をしなければならないと思い、慶應大学の内部推薦を断り、大学受験をすることを決意しました。
その後、鉄緑会に入塾し、トランポリンはインターハイ後に退部し、周りが遊びに夢中のなか、一人で毎日のように勉強し続けました。鉄緑会の先生には君が一番勉強していたといわれるも、クラスは1度も上がらず、「中の中」のまま理3受験を迎えました。もちろん落ちました。消化不良でした。点差は約100点。絶望的でした。
現役での受験を終えたあと、父から「医者になる必要はない」と言われ、自分はどうすればいいのか見失いました。そもそも、自分がなりたいのは「困っている人に手を差し伸べられる人」。必ずしも医者じゃなくてもいい。もちろん、医者だったらそれができますが。
そこで、やりたいことをみつけるために海外の大学に留学しようと考えました。興味があったのは高校での政治経済の授業で扱った、行動経済学。従って、経済学を学びたいと思いました。Facebookで海外留学を支援しているNPO団体、「留学フェローシップ」をみつけ、その責任者に、キャンプに参加させてもらえるよう直談判しました。一方で家庭教師の先生にも相談し、MASK English Academyの塾長である、松井道夫先生を紹介していただき、そこで働く海外の方の助手として、働かせていただきました。また、SATやTOEFL の勉強をしていました。先のNPO団体の募集期日3日前に責任者から返信がきて、急いでエッセイを書き、参加試験に合格して、夏のキャンプに参加できました。そこではアメリカの大学に進んだ日本人の方々にエッセイの書き方教えてもらったり、アメリカ生活について話をうかがったり、お互いがお互いを評価しあって、自分の長所を再認識しました。
どうやら、自分の長所は「知的好奇心の強さ」だったようで、言われるまで気づきませんでした。そして同時に、自分よりもすごい人が多いということに気づけました。彼らと競い合っても敵いっこない。そう思ってしまいました。ならどうすべきか。彼らが日本でも活躍できるよう下準備をすること。当時はそう思いました。そのためには日本の大学でいいから早く進学すべきだと思い、理科2類を受験しました。
しかし、いままで理3志望だったので気が抜けてしまったことと、ブランクが大きすぎて結果は惨敗。敗因がわかっていたので、合格発表当日に本屋さんに行き、基本のキから再開しました。
2浪目は、Z-kaiを利用し、自宅浪人をしました。誰ともコンタクトをとらず、黙々と勉強する。そんな日々が続きました。勉強に疲れたら前年参加した留学フェローシップのことを考えました。本当に日本で活躍できるよう下準備だけでいいのか。やる意思があるのであれば、彼らと比肩するよう持てるすべてを用いて、よりよい社会にするために努めるべきではないか、と。自分の能力はたかが知れているので、親からもらえる環境をフル活用することを目指し、医師になる決意をしました。そして家で一年間勉強するも理3は相変わらず惨敗。70点差。さすがに限界を感じました。
3浪目は、独学では無理だと思い、駿台お茶の水校の東大理系演習コースに在籍しました。いままで受験勉強の友達が一人もいなかったので、新たに受験友達を作ったとともに、当時一番上のクラスに在籍し、通年で成績優秀者になりました。駿台に入学したからには駿台のことしかやらないと決め、東大模試でも成績が出てきて理3でもB判定が出てきました。結果的に、40名のクラスで、ほとんどが東大または医学部に進学するも、落ちたのは自分だけ。点差は40点。再び絶望しました。
4浪目は、予備校に頼っても無駄だと思ったので、またも独学でした。義兄に指導をお願いし、自分の弱さと向き合っていました。「途中計算を粗くするから計算ミスをするんだ。」「ざっとしか読まないから問題文をミスリードするんだ。」こういう感じで性格の矯正まで行っていました。
そんな夏の頃、友人に嚮心塾を紹介されました。塾長がどうやら国語と英語が得意らしいので、わらをもつかむ気持ちで入塾しました。理系科目は義兄に毎日のようにノートを添削してもらい、一方で文系科目は塾長に添削してもらいました。東大模試もB判定が基本的に出るようになりましたが、A判定は1回も出ず。ただ国語と英語の偏差値が70弱に近づきました。
この年の結果は、6点差。普通なら絶望するでしょうが、僕の場合は逆です。100点差の時もあったので「東大からあとちょっとだ、がんばれ。」って言ってもらったぞ、と意気込んでいました。今まで真っ暗闇のなかにいたのですが、かすかに光を感じました。
けれども、さすがに疲れたのは事実。ぼけーっとしていると、両親が気を利かせてくれました。母が自動車免許の学校に入れてくれたのです。自分の生活に新たな風が吹きました。
しかし、免許取得後、どうしても受験勉強に気乗りがしませんでした。そんなとき、今度は父がオンラインで大学の授業が受けられるサイトに僕を登録してくれて、受験勉強とは異なる勉強を6月までしていました。その後、受験勉強を再開しました。
夏の東大模試はA判定とB判定。初めて300点超えができました。その後は毎日のように、セットを解いて添削を受けて反省会、の繰り返し。
秋の東大模試はともにB判定。調子がよかったので、はやめに苦手なセンター試験対策を開始しました。苦戦を強いられましたが、結果はリスニング抜きで837点。そのまま2次試験を迎えました。
国語は以前塾長と議論し合った内容がでて、難なくでき、数学は難しかったですが、3完2半。初日はよくできました。
2日目は、得意の物理で失敗してしまいましたが、その分化学に時間を当て、弱点である計算ミスがありませんでした。英語も何度も塾長と相談した作戦通りにいき、自己採点すると400点弱でした。そして合格発表の3月10日。まず最低点から見ると385点。自己採点通りだったら、なんとかいけると思い、勇気を出して合格者欄を見たら自分の受験番号がありました。
その一週間後の今日、この文章を打っています。
僕も若いとき、理3合格体験記を漁り、「超人がたくさんいるんだなー」と思いました。
ここまで読んでくださった方は、僕に対しても同じことを感じますか?
おそらく感じないはず。
なぜなら、5年間の失敗があるからです。何度も絶望しました。何度も泣きました。けど、諦めなかった。信念を貫いた。僕は天才じゃない。受験勉強においては才能もない。あったのはただ、諦めの悪さだけです。
さて、最初の問題提起に対する自分なりの回答を示して終えたいと思います。
もちろん、はやく医者になれれば多くの人を救っていたかもしれない。
だけど、絶望や失敗を経験してないと、「いい人間」にはなれない。病気や苦しみのせいで、明日の希望が見えない「人間」を、どうしてそういった経験のない人間が助けられようか。弱者に対して差し伸べる手が偽善となってしまわないか。そう思ったから何度も理3受験を続けてきました。事実、こと受験勉強においては、頑張っているが結果が出ないという人と自分とを同一視してしまいます。なんとか力になってあげたい、つらさを知っているだけにそう感じます。自分の持ちうるすべてを使って助けてあげたいし、受験勉強に限らず、困っている人がいて、自分がなんとか力添えができるのであれば、誰に対しても、すべてを駆使して手伝いたい。
これを読んでいる方は基本的に受験生だと思います。そんな君たちに、この言葉を贈ります。
「浪人?上等だよ。やってやる。」
1年延びようが10年延びようが、自分の信念を諦めることに比べたらたいしたことない。
駄文ですが、いま絶望している人がすこしでも「私も、もう少しがんばってみよう」と思っていただければ幸いです。
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