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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

苦手なこと。

今年の卒塾生の体験記が全く集まってこないので、塾の宣伝をしようにも、宣伝が全く進みません。。このままだと「理三・阪医合格者を出しておいて倒産する」という新たな伝説を作ることになるのでしょうか!(それはそれで面白いですが)
仕方ないので、体験記の代わりに、できる限り僕がブログを書いていきたいと思います。(まあ、僕が書けば書くほど集客という観点で見たら逆効果なのでしょうが!)

さて、何が苦手といえば、この教えていた子が受験で第一志望に合格した後のことほど、苦手なことはありません。
なぜかというと、あまりそれを一緒に喜ぶことができない、という自身の欠陥が僕にはあるからです。
もちろん、様々な思いがあったとしてもそれらを見せずに徹底的に喜ぶ!という役者のような役割をまっとうする
ことが教師としては必要であるのだ、と思います。そう思って色々と努力はしているのですが、やはりまだまだぎこちないままです。

根本的には、僕は人間の喜びにはあまり興味がなく、人間の苦しみ・悲惨さに興味がある、と言えます。「興味がある」という言い方は不謹慎なだけでなく不正確で、もちろんそれを喜んだり、面白がったり、ということではありません。誰かが困っていたり、苦しんでいたりすることに対して「自分に何ができるか」を考えては行動することにしか興味がなく、その結果その難局をその人が乗り越えられたとしたら、もちろんその成功自体は僕にとっても極めて嬉しいことではあるのですが、しかし「僕の役割はとりあえず終わった。」としか思わない、ということがより正確な表現かもしれません。

そこで難局を乗り越えあった人同士が互いの親交を深める、とか、塾で言えば「一生恩師として崇め奉られる」とかには全く興味がありません。新約聖書のイエスの言葉を借りれば、それは「神のことではなく、人のことを心配している」ということでしかないのかな、と思っています。だからこそ、卒塾生に別に会いたいとも思わないし、たとえば卒塾生が「あのときのあの先生のおかげで何とかやれています!」というように挨拶に来てくれたとしても、そこにやりがいを感じたり、嬉しさを感じたり、絆を感じたり、ということよりも(もちろんそれらの感情が全くないわけではないのですが)、目の前の困っている子、あるいは卒塾生であれ、彼ら彼女らの今困っていること、苦しんでいることに対して、自分が何らかの力になることができないか、にしか意識が向かない、という傾向があります。(なので、卒塾生と世間話をする、ということはなく、卒塾生と顔を合わせるたびに彼ら彼女らの何らかの相談に乗る、ということしか僕にはありません。)

突き詰めて言えば、僕は誰かに感謝を受けるためにこの仕事をしているわけではない、という思いがあります。
もちろん、第一志望に合格すればまるで神様のように感謝され、滑り止めにも合格しなければそれこそ人でなしのように
扱われるこの仕事の中で、その相手からの毀誉褒貶をどちらも真に受けていてはならない、という思いもあります。
ただ、それ以上に僕自身があくまで探究しなければならないのは、目の前の子たちが少しでもまともな大人になれるかどうか(それは人間性のみならず学力の面でも、ですが)ただそれだけです。そこに関しては教える僕自身の自己満足的評価を
排さなければならないだけでなく、教わる生徒自身の評価すら、ときには疑い、厳密に吟味していかねばならないときも
あります。

そして、そのような吟味にとって愛着や郷愁、思い出というのはときに評価を誤らせます。
もちろん、「卒業生は皆友達だ!」的に仲良く付き合いを続けていくような関係性のすべてが
まずいわけではありません。そのような関係性だからこそ、腹を割って話せることもあるでしょう。
それがときには、このようなスタンスの僕よりも彼ら彼女らにとっては力になることができるかもしれません。

ただ、それはまた互恵的・あるいは相互に意義深くない人間関係に正当性があることを認めることになってしまうようにも思います。権威が個々人に思考停止を迫るのは、そのようなプロセスによるのではないか、と思っています。
だからこそ、僕自身は一人一人の直面している「問題」に、徹底的に取り組んでいきたいです。
その「問題」に協力して取り組むこと以外に相手との関係性を担保するものが一つも残らないように、ですね。
逆に喜びや楽しみを誰かと共有することは、この世界にとってはあまり生産的ではないと思えてしまいます。
その生産的ではないことに誰かと時間を共有する暇があれば、その時間を他の人が「問題」に取り組む苦しみを手伝うことに充てたい。そのように考えています。

人生は長く苦しいですが、しかしそのような「問題」が一人一人にずっとあるわけではありません。
大学受験を最後として、そのような取り組むべき「問題」が消失してしまったかのように振る舞い続ける
大人もたくさんいます(もちろんそれは本当に消失するわけがなく、そのように考えたり取り組んだりしてこなかったことのツケが、政治であれ社会であれ大きな問題として個々人の能力を超えた形でしっぺ返しとなってくるわけですが)。

だからこそ、僕はその「問題」を共有し、共に戦う場としての塾を大切にしていきたいと思い、あまりノスタルジーや愛着の対象にはしたくないと思っています。仮に彼ら彼女らの「問題」が、受験が終われば消失する類いのものであろうとも、
です。「合格(卒業)した後、塾に遊びに行っても柳原は冷たくなった!」とお思いの卒塾生の皆さん!どうか、ご理解をいただきたい。そして、君たちが取り組むべきものに必死に取り組み、戦っていただきたい。その上で打ちのめされたり、困ったことがあれば、いつでも力になり続けたい、と思っていますし、そのために僕自身も必死に勉強し続けたいと思っています。それが愛着に甘んじることのない、愛であるとも思っています。
(うーん。書けば書くほど「集客には逆効果」感が強いですね。。今年の卒塾生のみなさーん。早く体験記書いてくれないと、もっと僕がブログたくさん書いちゃって、本当に塾つぶれるぞー!(まさかの脅迫!))
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