
僕は小さい頃から比較的、本を読んできた方だと思います。でも、いつからかは分かりませんが、気がついたときには
「僕はこう考えるけど、君はどう考えてるの。」という姿勢で様々な本を読むことが多くなりました。それには、一つには自分の考えをぶつけて話し合える相手というのが、親や友達、先生を含めて、18歳ぐらいまで誰一人いなかったからという理由があるように思います。考えの一端を話しては嫌がられる、ということに怯えて、あまり話さずニコニコしている、ということの多い少年時代でした。
そのような中、本の著者は僕にとって、唯一の話し合える相手でした。しかし、それも最初はごく幼稚な形で、「この人、僕と同じ意見を持ってる!この人は有名な思想家だし、僕ってすごいかも!」というように、誰かに話しても理解してもらえないことを、本の中に見つけることで、自分を肯定してもらうために、読んでいたところがあります。(僕が古典とされる本を読むことを皆さんにお勧めしているのは、そのように周りには自分の意見に賛同する人どころか理解する人さえいなくても、自分の考えが間違っていない場合もある、ということを子供達に知ってもらいたいと思うからです。)そのトレーニングのせいか、僕は全国1位はおろか、中高と自分の所属していた学校ですら、「学年1位」というのをとったことがないまま学校生活が終わったのですが、だからといって「全国1位」や「学年1位」の子に対して、劣等感を抱いたことは一度もありませんでした。陸上の十種競技の選手が100m走でウサイン・ボルトには勝てないからといって、その選手がボルトよりも劣ったアスリートであるとは思えなかったからです。むしろ、人生は十種どころか、千種競技、万種競技、いやそれ以上であることは間違いがないわけで、画一的に100m走(としての受験勉強)に努力を絞ることの出来る同級生の愚かしさを笑うような、ひねた子供でした。(このような僕の態度が、自らが「全国1位」のような困難な目標をもったときに必ず起こりうるであろう挫折を避けるための、自己防衛本能のようなものだったという分析ももちろん、可能であるとは思います。しかし、同時に僕はそれが単なる僕の強がりや負け惜しみを超えて、僕自身の人生を規定するテーマを暗示していたようにも思います。おそらく僕は、「1位」をとるためには、生きられないのです。僕はそれを「目標」とは感じない人間なのだと思います。むしろ、「人生とは一体何種競技なのだろう!9839億3094万2398種目までは確認したが。」という関心の持ち方をしていく傾向が僕にはあるようです。もちろん今は、そのように多様な人生の中で、あえて何か一つを選んで、その中で世界一になろうと懸命にもがく大人達を、決して笑いなどしません。心から応援したいし、力になりたいと思っています。)
そのような自己肯定をもう必要としないぐらい自信がついてくると、今度は僕の読書が、「自分と同じものを感じ、自分と同じように考えているから、この人はすばらしい!」という姿勢に変わってきました。それを僕はF・二ーチェやJJルソー、太宰治、ベルクソン、ドストエフスキーに感じました。僕とは違う感性を持つ人たちの著作でも、たとえば、森有正や有島武郎、E・ゾラ、G・オーウェル、K・ポパー、K・マルクス、J・ジョイス、B・ラッセルなどの著作はどれも本当にすばらしいと思います(いつかまた、このブログでも本の紹介を書いていきたいと思います)。ただ、自分には一つの根源的な傾向があることを自覚することが大切で、そのフィルターを通して、様々な考えが価値のあるものかどうかを検証していく、という過程を踏むことが必要だと思います。どのような本も客観的には読めないものです。ですから、「自分が根本的に一番大切だと考えること」を中心に据えた上で、それとの関係によって他の考えに価値があるかどうかを吟味していくという過程がどうしても大切です。もちろん、その検証を通じて、「自分が根本的に一番大切だと考えること」自体も、それでよいのかどうかを吟味していけるのだと思います。
さて、長くなりました。読書の意味として、「孤独の中で自分の意見を信じるため」に読む時期、「自分の意見を一つのフィルターとして、価値のある考えを探していきながら、自分の意見自体を絶えずよりよいものにしていこうとする」時期があることを、僕の拙い読書遍歴の中から書きました。自分の意見や考えをさらにより精密に正しくしていくためには、最低限でも一生涯勉強を続けることが必要です。しかし、そのように読めば読むほどに、「自分がこれをみんなに伝えなければ!」と思うことは、大体誰かが書いていることに気がついていきます。それも、絶望的なくらいにしっかりと表現されていたりして、もちろんそれを現在の状況に適用するなどの「流用」には意味があるとは思いますが、様々に本を読めば読むほどに、「人類は有史以来、すでに認識され、反省までされた失敗を繰り返している」と絶望してしまったりするかもしれません。
だから、僕は今、自分が本を読むことを通じて考える理由を、「自分の意見をより正しいものに鍛えていく」ためとともに、「過去と未来をつなぐ(by『ヒカルの碁』という漫画の台詞です。)」ためであると考えています。過去のものを未来に伝える、というのは本が「古典」として残っていればよいというものではないのです。それらの本の価値を理解する人間が一人もいなくなってしまえば、それらはただの「インクのシミのついた紙」になってしまい、じゃまなものとしていずれ処分されてしまうのです。全世界的な電子図書館をグーグルが進めるアーカイブ化によって実現したとしても、それらの本の価値を理解する人間が一定数いなければむしろそれは膨大な情報量の中に埋没し、誰も顧みることのない状況は紙媒体の本以上に、徹底的になるでしょう(「検索」を通じては、本との偶然の出会いはないからです。)。
もちろん、「過去と未来をつなぐ」ためにのみ、現在を存在させてはなりません。私たちが生きるこの瞬間瞬間は、すぐに「過去の一部」となっていくのですから、将来の人類にとって「過去」から知恵を汲む必要がないと判断させてしまうような言説や学問しか現在生み出していないのなら、やはりそれは私たちにとっての「過去」のみをいくら大切にしていようと、結果として過去を損なうことにつながってしまいます。懸命にこの瞬間瞬間を悩み苦しんで、考えていく。そのことこそが、過去と未来をつなぐための最低限の必要条件であると思います。そして、これは決して、学問や芸術だけの問題ではありません。学問や芸術という名の結晶を生み出すための土壌としての考え方や感性は、日々懸命に悩み苦しんで生きることからのみ、生まれると思うからです。
この現在の僕の読書に対する考え方が、この先どのようにまた変化していくかも、また楽しみにして、これからも勉強を続けていきたいと考えています。
2010年 6月7日 嚮心塾塾長
「僕はこう考えるけど、君はどう考えてるの。」という姿勢で様々な本を読むことが多くなりました。それには、一つには自分の考えをぶつけて話し合える相手というのが、親や友達、先生を含めて、18歳ぐらいまで誰一人いなかったからという理由があるように思います。考えの一端を話しては嫌がられる、ということに怯えて、あまり話さずニコニコしている、ということの多い少年時代でした。
そのような中、本の著者は僕にとって、唯一の話し合える相手でした。しかし、それも最初はごく幼稚な形で、「この人、僕と同じ意見を持ってる!この人は有名な思想家だし、僕ってすごいかも!」というように、誰かに話しても理解してもらえないことを、本の中に見つけることで、自分を肯定してもらうために、読んでいたところがあります。(僕が古典とされる本を読むことを皆さんにお勧めしているのは、そのように周りには自分の意見に賛同する人どころか理解する人さえいなくても、自分の考えが間違っていない場合もある、ということを子供達に知ってもらいたいと思うからです。)そのトレーニングのせいか、僕は全国1位はおろか、中高と自分の所属していた学校ですら、「学年1位」というのをとったことがないまま学校生活が終わったのですが、だからといって「全国1位」や「学年1位」の子に対して、劣等感を抱いたことは一度もありませんでした。陸上の十種競技の選手が100m走でウサイン・ボルトには勝てないからといって、その選手がボルトよりも劣ったアスリートであるとは思えなかったからです。むしろ、人生は十種どころか、千種競技、万種競技、いやそれ以上であることは間違いがないわけで、画一的に100m走(としての受験勉強)に努力を絞ることの出来る同級生の愚かしさを笑うような、ひねた子供でした。(このような僕の態度が、自らが「全国1位」のような困難な目標をもったときに必ず起こりうるであろう挫折を避けるための、自己防衛本能のようなものだったという分析ももちろん、可能であるとは思います。しかし、同時に僕はそれが単なる僕の強がりや負け惜しみを超えて、僕自身の人生を規定するテーマを暗示していたようにも思います。おそらく僕は、「1位」をとるためには、生きられないのです。僕はそれを「目標」とは感じない人間なのだと思います。むしろ、「人生とは一体何種競技なのだろう!9839億3094万2398種目までは確認したが。」という関心の持ち方をしていく傾向が僕にはあるようです。もちろん今は、そのように多様な人生の中で、あえて何か一つを選んで、その中で世界一になろうと懸命にもがく大人達を、決して笑いなどしません。心から応援したいし、力になりたいと思っています。)
そのような自己肯定をもう必要としないぐらい自信がついてくると、今度は僕の読書が、「自分と同じものを感じ、自分と同じように考えているから、この人はすばらしい!」という姿勢に変わってきました。それを僕はF・二ーチェやJJルソー、太宰治、ベルクソン、ドストエフスキーに感じました。僕とは違う感性を持つ人たちの著作でも、たとえば、森有正や有島武郎、E・ゾラ、G・オーウェル、K・ポパー、K・マルクス、J・ジョイス、B・ラッセルなどの著作はどれも本当にすばらしいと思います(いつかまた、このブログでも本の紹介を書いていきたいと思います)。ただ、自分には一つの根源的な傾向があることを自覚することが大切で、そのフィルターを通して、様々な考えが価値のあるものかどうかを検証していく、という過程を踏むことが必要だと思います。どのような本も客観的には読めないものです。ですから、「自分が根本的に一番大切だと考えること」を中心に据えた上で、それとの関係によって他の考えに価値があるかどうかを吟味していくという過程がどうしても大切です。もちろん、その検証を通じて、「自分が根本的に一番大切だと考えること」自体も、それでよいのかどうかを吟味していけるのだと思います。
さて、長くなりました。読書の意味として、「孤独の中で自分の意見を信じるため」に読む時期、「自分の意見を一つのフィルターとして、価値のある考えを探していきながら、自分の意見自体を絶えずよりよいものにしていこうとする」時期があることを、僕の拙い読書遍歴の中から書きました。自分の意見や考えをさらにより精密に正しくしていくためには、最低限でも一生涯勉強を続けることが必要です。しかし、そのように読めば読むほどに、「自分がこれをみんなに伝えなければ!」と思うことは、大体誰かが書いていることに気がついていきます。それも、絶望的なくらいにしっかりと表現されていたりして、もちろんそれを現在の状況に適用するなどの「流用」には意味があるとは思いますが、様々に本を読めば読むほどに、「人類は有史以来、すでに認識され、反省までされた失敗を繰り返している」と絶望してしまったりするかもしれません。
だから、僕は今、自分が本を読むことを通じて考える理由を、「自分の意見をより正しいものに鍛えていく」ためとともに、「過去と未来をつなぐ(by『ヒカルの碁』という漫画の台詞です。)」ためであると考えています。過去のものを未来に伝える、というのは本が「古典」として残っていればよいというものではないのです。それらの本の価値を理解する人間が一人もいなくなってしまえば、それらはただの「インクのシミのついた紙」になってしまい、じゃまなものとしていずれ処分されてしまうのです。全世界的な電子図書館をグーグルが進めるアーカイブ化によって実現したとしても、それらの本の価値を理解する人間が一定数いなければむしろそれは膨大な情報量の中に埋没し、誰も顧みることのない状況は紙媒体の本以上に、徹底的になるでしょう(「検索」を通じては、本との偶然の出会いはないからです。)。
もちろん、「過去と未来をつなぐ」ためにのみ、現在を存在させてはなりません。私たちが生きるこの瞬間瞬間は、すぐに「過去の一部」となっていくのですから、将来の人類にとって「過去」から知恵を汲む必要がないと判断させてしまうような言説や学問しか現在生み出していないのなら、やはりそれは私たちにとっての「過去」のみをいくら大切にしていようと、結果として過去を損なうことにつながってしまいます。懸命にこの瞬間瞬間を悩み苦しんで、考えていく。そのことこそが、過去と未来をつなぐための最低限の必要条件であると思います。そして、これは決して、学問や芸術だけの問題ではありません。学問や芸術という名の結晶を生み出すための土壌としての考え方や感性は、日々懸命に悩み苦しんで生きることからのみ、生まれると思うからです。
この現在の僕の読書に対する考え方が、この先どのようにまた変化していくかも、また楽しみにして、これからも勉強を続けていきたいと考えています。
2010年 6月7日 嚮心塾塾長



