
「暗記よりも理解!」「暗記はすぐに頭から抜けるけど、理解は決して頭から抜けない!」というのは塾で教えるときに繰り返し繰り返し話している鉄則です。また大まかな勉強全体の方針も、それに沿ってやっていくことで問題ないと思います。
しかし、「そうは言っても英単語は暗記だよね。」「そうは言っても漢字は暗記だよね。」と、「青チャートの解法全部覚える!」的な無意味な暗記は排除してもなお、受験において「仕方がない暗記」というものは肯定されているように思います。もちろん、僕自身も暗記すること全体を否定するつもりもありません。
しかし、実際には「暗記」とは何か、という定義は一人一人の生徒で全く違っています。また教師の側でその「暗記」の定義を押し広げ、やり方を変えていくこともできます。
そのような一人一人の定義をどのように押し広げていくか、が教育の役割でもあります。
たとえば英単語を例にとりましょう。塾では受験生に毎回英単語テストをすることが多いのですが、これは実は英単語を定着させるためにしているのではありません。もちろん、その目的は表面的な目的として、本当の狙いは
その受験生が「暗記する」という概念をどのように捉えているか、その認識の仕方をこちらが把握するためにやっていることです。
英単語を覚えるときに意味を無理やり覚えている子ほどに、英単語帳での「場所」によって覚えているため、近いところにある英単語の意味を取り違えたりします。このような子はその英単語の文字の意味をじっくりと味わうことなく、ただ場所だけで覚えることを「暗記」と定義しているがゆえにこのような誤りをおかすため、単語の接頭辞や接尾辞、語源を辞書で調べることを徹底させます。
これはまた「似たようなスペル」の単語を取り違える子にも言えることです。似たようなスペルの単語同士でも必ず違う語義の語幹があったりするわけで、その違いを辞書で調べていく、ということまで指導していきます。
そのように指導していけば、接頭辞・接尾辞・語幹の意味を増やしていくことになり、それがまた他の単語を覚えるときにも類推をききやすくしていきます。
また、英単語と関連して、英熟語の覚え方でも単純暗記なのか、単語のイメージや前置詞のイメージからその熟語の意味を引き出してこれるのか、で大きく定着度が変わってきてしまいます。英熟語を「覚えるもの」と思っている受験生は意外と多く、単語や前置詞のイメージから熟語のイメージを引き出してこれないままに英熟語の訳語だけを覚えては結局何も定着しない、ということも多いです。また、この点からも英単語の意味や前置詞のイメージが定着していない子に英熟語をやらせる指導の仕方、というのも大きく間違っているといえると思います。英単語をしっかり身につけてから、英熟語を始めていく方が効果的であるからです。
もちろん、これらのやり方は教師が教えなくてもできる子は自然にやっていることです。しかし、できる子は自分の「暗記」の仕方の中で辞書を引いたり接頭辞・接尾辞・語幹を覚えていくのが当たり前のことだと思っているので、こういった努力全体を含めて「暗記」と呼ぶ言葉遣いをしていきます。だからこそ、
できるA君:「英単語は結局暗記(ただし辞書で引くのは当たり前!)だよね!」
できないB君:「やっぱ、そうかあ(辞書に触りもしない)。。」
という誤解が生まれ、B君としてはできるA君と全く同じように勉強しているつもりであっても
全く身につかないままに終わっていくということになってしまいます。
もちろん、どのような受験生も最初からはこのような勉強法はできません。また、ある教科についてこの「暗記」の内実を解きほぐしては理解をしようとしていくことをできている受験生であっても別の教科、特に自分の苦手な教科については
なかなかそれができていない、ということもまたよくあることです。嚮心塾で殆どの受験生に単語テストをしていくのは、一人一人の生徒の頭の中での「暗記」「理解」という言葉の定義をそのように確認していき、それについて正しい方法を鍛えていき、さらにはその一つの単元についての正しい方法を他の教科にも応用しようとしていける子か、それともそうではないかを観察しては次の指導を考えていく、というその子のpersonalityへの理解を他の教科の指導に活かしていくために、単語テストをしています。そのようにして一人一人の生徒の言う「暗記」の定義を揺るがしていくことが勉強に関しては正しいアプローチであると思っています。
このように、「勉強法を言葉で伝える」というのは極めて難しいことです。なぜなら、その言葉の定義が一人一人の中で大きく違うものであるからです。だからこそ、勉強の仕方を正しい方向へと修正していくためには、まず生徒たちがどのような定義で認識をしているのかを確認していきながら話をしていく必要があります。
となると、いわゆる巷であふれる「勉強法」の本、あるいはその生徒の中での定義を確認することなくなされる全ての教師のアドバイスはいいかげん極まりないものであるのでは、と思ってしまいます。勉強のできる同級生からのアドバイス、とかなおさらです!(塾ではよく「東大に受かった同級生が『この参考書をやれば受かる!』と言ってた」的な雑なアドバイスをいちいち論破しなければならないこともあるのですが、このような雑なアドバイスが多くの場合において有害でしかないのは、今回の話からもおわかりいただければ嬉しいです!)
逆に言えば、受験生の中のそのような「定義」の部分から粘り強く探り、変えていくことができれば子どもたちの能力など(もちろんごく一部の天才は別として)そんなに大差がない、というのが教えている中での僕の実感です。たとえば塾からも難しい大学に合格している生徒はたくさんいますが、阪大医学部に合格した初期の生徒は、彼の高校からはおそらくこれから二度と阪大医学部への合格者は出ないであろう偏差値の高校(実はその高校からは他の子がもう一人慶応医学部に合格しているのですが、これも恐らくその高校からは二度と出ないでしょう。しかしこれも僕の教え子です!)に通っていましたが、しかし彼はその高校(正確には中学受験で入ったので中学ですが)には補欠合格で入りました。つまり、一番ビリで入って、その高校の卒業生でも歴代トップクラスの学力を身に着けた、ということです。
もちろんこれは、そのような一つ一つの勉強についての定義を粘り強く更新する、という作業を誰からもされることなく、
自分でもできないままに、多くの子の才能が日の目を見ずに終わっていっている、という悲惨な事実でもあります。そのようなことをしていけば、どのように鍛えたはずの受験生にも、あるいは「どんなに努力しても力がつかない」と嘆く受験生にも、必ず力がついていくと思っています。
そのように一人一人の生徒の認識の仕方、定義を把握しながら、押し広げていくという作業を僕ももっと瞬時にできるように、自分自身の教える力、観察する能力を鍛えていきたいと思います。
そして、何よりそれを教師からされないでも自分自身にその定義を吟味する目を向けられるような受験生をこそ、育てられるように努力と工夫をしていきたいと思っています。生徒一人一人の思考回路や定義を読んではそれを指導に充てていくこと自体は、それなりに今もできています。しかし、それを生徒たちが自分自身で自分に対してできるようにしていく、というところまではまだまだ道半ばです。しかし、それが(この卒塾生のようにあるいはこの卒塾生のように)できて初めて本当の教育であると思っています。
しかし、「そうは言っても英単語は暗記だよね。」「そうは言っても漢字は暗記だよね。」と、「青チャートの解法全部覚える!」的な無意味な暗記は排除してもなお、受験において「仕方がない暗記」というものは肯定されているように思います。もちろん、僕自身も暗記すること全体を否定するつもりもありません。
しかし、実際には「暗記」とは何か、という定義は一人一人の生徒で全く違っています。また教師の側でその「暗記」の定義を押し広げ、やり方を変えていくこともできます。
そのような一人一人の定義をどのように押し広げていくか、が教育の役割でもあります。
たとえば英単語を例にとりましょう。塾では受験生に毎回英単語テストをすることが多いのですが、これは実は英単語を定着させるためにしているのではありません。もちろん、その目的は表面的な目的として、本当の狙いは
その受験生が「暗記する」という概念をどのように捉えているか、その認識の仕方をこちらが把握するためにやっていることです。
英単語を覚えるときに意味を無理やり覚えている子ほどに、英単語帳での「場所」によって覚えているため、近いところにある英単語の意味を取り違えたりします。このような子はその英単語の文字の意味をじっくりと味わうことなく、ただ場所だけで覚えることを「暗記」と定義しているがゆえにこのような誤りをおかすため、単語の接頭辞や接尾辞、語源を辞書で調べることを徹底させます。
これはまた「似たようなスペル」の単語を取り違える子にも言えることです。似たようなスペルの単語同士でも必ず違う語義の語幹があったりするわけで、その違いを辞書で調べていく、ということまで指導していきます。
そのように指導していけば、接頭辞・接尾辞・語幹の意味を増やしていくことになり、それがまた他の単語を覚えるときにも類推をききやすくしていきます。
また、英単語と関連して、英熟語の覚え方でも単純暗記なのか、単語のイメージや前置詞のイメージからその熟語の意味を引き出してこれるのか、で大きく定着度が変わってきてしまいます。英熟語を「覚えるもの」と思っている受験生は意外と多く、単語や前置詞のイメージから熟語のイメージを引き出してこれないままに英熟語の訳語だけを覚えては結局何も定着しない、ということも多いです。また、この点からも英単語の意味や前置詞のイメージが定着していない子に英熟語をやらせる指導の仕方、というのも大きく間違っているといえると思います。英単語をしっかり身につけてから、英熟語を始めていく方が効果的であるからです。
もちろん、これらのやり方は教師が教えなくてもできる子は自然にやっていることです。しかし、できる子は自分の「暗記」の仕方の中で辞書を引いたり接頭辞・接尾辞・語幹を覚えていくのが当たり前のことだと思っているので、こういった努力全体を含めて「暗記」と呼ぶ言葉遣いをしていきます。だからこそ、
できるA君:「英単語は結局暗記(ただし辞書で引くのは当たり前!)だよね!」
できないB君:「やっぱ、そうかあ(辞書に触りもしない)。。」
という誤解が生まれ、B君としてはできるA君と全く同じように勉強しているつもりであっても
全く身につかないままに終わっていくということになってしまいます。
もちろん、どのような受験生も最初からはこのような勉強法はできません。また、ある教科についてこの「暗記」の内実を解きほぐしては理解をしようとしていくことをできている受験生であっても別の教科、特に自分の苦手な教科については
なかなかそれができていない、ということもまたよくあることです。嚮心塾で殆どの受験生に単語テストをしていくのは、一人一人の生徒の頭の中での「暗記」「理解」という言葉の定義をそのように確認していき、それについて正しい方法を鍛えていき、さらにはその一つの単元についての正しい方法を他の教科にも応用しようとしていける子か、それともそうではないかを観察しては次の指導を考えていく、というその子のpersonalityへの理解を他の教科の指導に活かしていくために、単語テストをしています。そのようにして一人一人の生徒の言う「暗記」の定義を揺るがしていくことが勉強に関しては正しいアプローチであると思っています。
このように、「勉強法を言葉で伝える」というのは極めて難しいことです。なぜなら、その言葉の定義が一人一人の中で大きく違うものであるからです。だからこそ、勉強の仕方を正しい方向へと修正していくためには、まず生徒たちがどのような定義で認識をしているのかを確認していきながら話をしていく必要があります。
となると、いわゆる巷であふれる「勉強法」の本、あるいはその生徒の中での定義を確認することなくなされる全ての教師のアドバイスはいいかげん極まりないものであるのでは、と思ってしまいます。勉強のできる同級生からのアドバイス、とかなおさらです!(塾ではよく「東大に受かった同級生が『この参考書をやれば受かる!』と言ってた」的な雑なアドバイスをいちいち論破しなければならないこともあるのですが、このような雑なアドバイスが多くの場合において有害でしかないのは、今回の話からもおわかりいただければ嬉しいです!)
逆に言えば、受験生の中のそのような「定義」の部分から粘り強く探り、変えていくことができれば子どもたちの能力など(もちろんごく一部の天才は別として)そんなに大差がない、というのが教えている中での僕の実感です。たとえば塾からも難しい大学に合格している生徒はたくさんいますが、阪大医学部に合格した初期の生徒は、彼の高校からはおそらくこれから二度と阪大医学部への合格者は出ないであろう偏差値の高校(実はその高校からは他の子がもう一人慶応医学部に合格しているのですが、これも恐らくその高校からは二度と出ないでしょう。しかしこれも僕の教え子です!)に通っていましたが、しかし彼はその高校(正確には中学受験で入ったので中学ですが)には補欠合格で入りました。つまり、一番ビリで入って、その高校の卒業生でも歴代トップクラスの学力を身に着けた、ということです。
もちろんこれは、そのような一つ一つの勉強についての定義を粘り強く更新する、という作業を誰からもされることなく、
自分でもできないままに、多くの子の才能が日の目を見ずに終わっていっている、という悲惨な事実でもあります。そのようなことをしていけば、どのように鍛えたはずの受験生にも、あるいは「どんなに努力しても力がつかない」と嘆く受験生にも、必ず力がついていくと思っています。
そのように一人一人の生徒の認識の仕方、定義を把握しながら、押し広げていくという作業を僕ももっと瞬時にできるように、自分自身の教える力、観察する能力を鍛えていきたいと思います。
そして、何よりそれを教師からされないでも自分自身にその定義を吟味する目を向けられるような受験生をこそ、育てられるように努力と工夫をしていきたいと思っています。生徒一人一人の思考回路や定義を読んではそれを指導に充てていくこと自体は、それなりに今もできています。しかし、それを生徒たちが自分自身で自分に対してできるようにしていく、というところまではまだまだ道半ばです。しかし、それが(この卒塾生のようにあるいはこの卒塾生のように)できて初めて本当の教育であると思っています。



