
トップアスリートがよく使っていることから、大切な試合や受験など、いわゆる本番でのパフォーマンスを上げるために、「楽しみなさい!」というアドバイスはよくされるようになったと思っています。
しかし、このアドバイスはある意味無責任です。そりゃ人生の掛かった本番で「楽しむ」ことができれば、心もリラックスしてパフォーマンスも上がるでしょうが、しかしそれが簡単にできたら苦労しないわけで、「楽しんでね!」というアドバイスは人生の掛かった本番でそのようには思えない人にとっては何も役に立たないし、そのように思える人にとってのみ、よいアドバイスというだけのものであるかもしれません。
なのですが、昨日教えていて、では「楽しめない」とはどういう状態かといえば、「一つの方向や判断基準に自身を押し込めているとき」なのだ、と説明すれば良いと気づきました。人間自体が多様であり、たとえば一つの方向にむかって、それ以外のものを切り捨ててでもその一つの方向で何かを成し遂げようとしているときはどうしてもその成否だけが気になってしまうものです。しかし、そのように研ぎすませていく瞬間にも、人間の認識は必ずその目的に資するものとは別のものを
とらえてしまいます。そのとらえたものを「無駄だ!」と考えれば考えるほどにどんどん焦ってテンパっていくでしょうし、逆に「なるほど、これは面白いねえ。」とその一つの方向から外れたものを評価できるのであれば、それは段々と「楽しむ」ことに近づいている、と言えるでしょう。
つまり、「楽しむ」とは「味わう」ということです。だから、「楽しみなさい!」はもっと精密に話せば、
「人生をかけた勝負の中で、それでも自分が望む方向へと一生懸命やろうとしてもうまくいかないことは出て来るし、自分が実現したい方向性以外の方向性も出てきてしまう。しかし、それらを無駄と感じては今追求している方向性へと何とか戻そうとすればするほどに、そのような「目的」から外れた自分に対する焦りや苛立ちというまた別の「方向性」が生まれてしまい、自分がどんどん分裂してしまう。だからこそ、そのうまくいかないこと、無駄なことをじっくりとあじわいなさい。その勝負に勝つ、という目的地を忘れて、あたかもあてのない散歩をするように。最初設定した目的地への前進がうまくいっていないことも含めて、あなたの散歩であり、あなたの人生なのだから。逆に一つの方向へと自分の意識を向けようと思えば思うほどに、人間とはそのようなものではない、という根本的な拒絶感の根強い抵抗に疲れ果てては、結局集中できないままに終わることになるはずです。」
ぐらいでしょうか。長い!
なるほど、これはみんな「楽しめ!」ぐらいしか言わなくなりそうなものです。
しかし、楽しめる人は最初から楽しめるし、そうではない人はこの言葉一つだけでは難しいでしょう。
だからこそ、自分がしんどくてたまらないとき、自分がどうにもうまくいっていないと感じているときにこそ、
この「一つの方向」だけで自分を評価していないか、そこに自分の魂を押し込めては味わうことを忘れてはいないか、を
自分でチェックすることがとても大切です。
話を広げれば、自分を一つの方向へと駆り立てない、自分を一つの座標軸だけで評価しない、ということはこのように本番でのパフォーマンスを上げるだけでなく、長期的な生き方の面でもとても大切なことです。
僕も教育に携わるようになって長いですが、ほとんどの「やる気のない」子というのは、
親や教師が用意した一つの方向でしか評価されないことに倦み疲れている子であると思っています。
もちろん家の中の煙に気づいた瞬間に「火事だ!逃げろ!」と叫んだ後くらいは、一つの方向に向かっていないと死んでしまうわけです。緊急避難的に一つの方向に向かわなければいけない瞬間というのも人間には多々あります。しかし、根本的にはそれを長期間、しかも自分の意志ではなく他者の意志で行うことは人間にとっては不可能です。
その不可能なことをやらせようとして失敗しているのが、たとえば現在の教育のありようなのではないか。
大学受験がこの日本社会において「緊急時」であることは僕はそんなに間違っていないとは思いますが、では
その勉強をいつからやるか、というときに高3から?高2から?いやいや、これだけ高校受験で生徒を宿題と小テストで虐待する「自称進学校」と母集団の質の高さ以外に教育機関としての能力の低い「都立トップ校」しかない(最後の砦の豊島岡ですら高校受験を辞めます。。)のだとしたら、無理やり中学受験で入れるしかないのでは?
そうしたら、小6から?いや、小4から?
というように、どんどん「一つの方向」へ子どもたちが努力する期間を長くさせようとしていってしまっているわけです。
ましてや、「高校のときは勉強をサボって浪人してから頑張る」ことも許されなくなるような入試改悪が進んでいる将来は、さらにそうなっていきます。
このようにしておいて、「思考力を鍛えろ」というのは他者が無理やり食べ物を口につっこむ期間を10何年も続けていながら、「よく味わえ!」というのと同じでしかありません。控えめに言って虐待、もっと率直に言えば、長い目で見た自殺であるとすら思います。
そのような中で、「学校でやる勉強をやってください!」と何も知らない親御さんからはリクエストされるものの、事実学校の勉強が何も力がつかないレベルの作業や苦行でしかない(僕らが学生の頃は高校の授業は「受験に役に立たない」ものでしたが、現在の高校の授業は宿題が多すぎて「受験勉強の足を引っ張る」ものです。学校の勉強を頑張ることと受験勉強の準備をすることは多くの高校において明確に反対の方向であると思います。)中で、なんとかそのムダを省き、「一つの方向」へと押し込められている子達の精神を少しでもリラックスさせてあげた上で、何とかその一つの方向へと自分から取り組むことができるように、闘い抜いていきたいと思っています。
しかし、このアドバイスはある意味無責任です。そりゃ人生の掛かった本番で「楽しむ」ことができれば、心もリラックスしてパフォーマンスも上がるでしょうが、しかしそれが簡単にできたら苦労しないわけで、「楽しんでね!」というアドバイスは人生の掛かった本番でそのようには思えない人にとっては何も役に立たないし、そのように思える人にとってのみ、よいアドバイスというだけのものであるかもしれません。
なのですが、昨日教えていて、では「楽しめない」とはどういう状態かといえば、「一つの方向や判断基準に自身を押し込めているとき」なのだ、と説明すれば良いと気づきました。人間自体が多様であり、たとえば一つの方向にむかって、それ以外のものを切り捨ててでもその一つの方向で何かを成し遂げようとしているときはどうしてもその成否だけが気になってしまうものです。しかし、そのように研ぎすませていく瞬間にも、人間の認識は必ずその目的に資するものとは別のものを
とらえてしまいます。そのとらえたものを「無駄だ!」と考えれば考えるほどにどんどん焦ってテンパっていくでしょうし、逆に「なるほど、これは面白いねえ。」とその一つの方向から外れたものを評価できるのであれば、それは段々と「楽しむ」ことに近づいている、と言えるでしょう。
つまり、「楽しむ」とは「味わう」ということです。だから、「楽しみなさい!」はもっと精密に話せば、
「人生をかけた勝負の中で、それでも自分が望む方向へと一生懸命やろうとしてもうまくいかないことは出て来るし、自分が実現したい方向性以外の方向性も出てきてしまう。しかし、それらを無駄と感じては今追求している方向性へと何とか戻そうとすればするほどに、そのような「目的」から外れた自分に対する焦りや苛立ちというまた別の「方向性」が生まれてしまい、自分がどんどん分裂してしまう。だからこそ、そのうまくいかないこと、無駄なことをじっくりとあじわいなさい。その勝負に勝つ、という目的地を忘れて、あたかもあてのない散歩をするように。最初設定した目的地への前進がうまくいっていないことも含めて、あなたの散歩であり、あなたの人生なのだから。逆に一つの方向へと自分の意識を向けようと思えば思うほどに、人間とはそのようなものではない、という根本的な拒絶感の根強い抵抗に疲れ果てては、結局集中できないままに終わることになるはずです。」
ぐらいでしょうか。長い!
なるほど、これはみんな「楽しめ!」ぐらいしか言わなくなりそうなものです。
しかし、楽しめる人は最初から楽しめるし、そうではない人はこの言葉一つだけでは難しいでしょう。
だからこそ、自分がしんどくてたまらないとき、自分がどうにもうまくいっていないと感じているときにこそ、
この「一つの方向」だけで自分を評価していないか、そこに自分の魂を押し込めては味わうことを忘れてはいないか、を
自分でチェックすることがとても大切です。
話を広げれば、自分を一つの方向へと駆り立てない、自分を一つの座標軸だけで評価しない、ということはこのように本番でのパフォーマンスを上げるだけでなく、長期的な生き方の面でもとても大切なことです。
僕も教育に携わるようになって長いですが、ほとんどの「やる気のない」子というのは、
親や教師が用意した一つの方向でしか評価されないことに倦み疲れている子であると思っています。
もちろん家の中の煙に気づいた瞬間に「火事だ!逃げろ!」と叫んだ後くらいは、一つの方向に向かっていないと死んでしまうわけです。緊急避難的に一つの方向に向かわなければいけない瞬間というのも人間には多々あります。しかし、根本的にはそれを長期間、しかも自分の意志ではなく他者の意志で行うことは人間にとっては不可能です。
その不可能なことをやらせようとして失敗しているのが、たとえば現在の教育のありようなのではないか。
大学受験がこの日本社会において「緊急時」であることは僕はそんなに間違っていないとは思いますが、では
その勉強をいつからやるか、というときに高3から?高2から?いやいや、これだけ高校受験で生徒を宿題と小テストで虐待する「自称進学校」と母集団の質の高さ以外に教育機関としての能力の低い「都立トップ校」しかない(最後の砦の豊島岡ですら高校受験を辞めます。。)のだとしたら、無理やり中学受験で入れるしかないのでは?
そうしたら、小6から?いや、小4から?
というように、どんどん「一つの方向」へ子どもたちが努力する期間を長くさせようとしていってしまっているわけです。
ましてや、「高校のときは勉強をサボって浪人してから頑張る」ことも許されなくなるような入試改悪が進んでいる将来は、さらにそうなっていきます。
このようにしておいて、「思考力を鍛えろ」というのは他者が無理やり食べ物を口につっこむ期間を10何年も続けていながら、「よく味わえ!」というのと同じでしかありません。控えめに言って虐待、もっと率直に言えば、長い目で見た自殺であるとすら思います。
そのような中で、「学校でやる勉強をやってください!」と何も知らない親御さんからはリクエストされるものの、事実学校の勉強が何も力がつかないレベルの作業や苦行でしかない(僕らが学生の頃は高校の授業は「受験に役に立たない」ものでしたが、現在の高校の授業は宿題が多すぎて「受験勉強の足を引っ張る」ものです。学校の勉強を頑張ることと受験勉強の準備をすることは多くの高校において明確に反対の方向であると思います。)中で、なんとかそのムダを省き、「一つの方向」へと押し込められている子達の精神を少しでもリラックスさせてあげた上で、何とかその一つの方向へと自分から取り組むことができるように、闘い抜いていきたいと思っています。
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