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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

太陽の孤独。

こちらが必死に悩み、取り組み、もがき、練った上で放たれた言葉が生徒たちの内面を少しもかすりもせずに、何もうまくいかない、ということが続いていて、だいぶ滅入っています。と書くと、心配をされてしまうかもしれないのですが、まあ平常運転ということです。

自身を鍛えていくためには、自身がなんとなく大切にしているものを疑わなければならない状況が必ず生まれます。もちろん、それには大きなエネルギーが必要であるので、なかなか一人ではそこに立ち向かいたくない、あるいは他の可能性を徹底的に潰してからそこに向き合いたい、と一人一人の受験生は「言い訳」をします。その「言い訳」をこちらが論破して承服させていくことは簡単ではあるのですが、それでは本人にとっては、僕にやらされているだけの勉強であり、あまり力になりません。ときにその過ちに付き合い、過ちに付き合うことを僕がその受験生自身に責められながらも、「やはりここを頑張ることを避けては通れないのだ。」という事実を理解してもらわなければなりません。事実をして語らしめる、というやつですね。しかし、そのような努力をこちらが徹底的にやろうとしても、自分の乗り越えなければならない壁を乗り越えたくない子どもたちにとっては、引き続き楽な方に逃げるために「塾を変える」という選択肢をとられることも多々あるわけです。

このようなときには、端的に言えば死にたくなります。「思いをやる」ことの不可能性、楽な方へと逃げる彼ら彼女らの愚かしさ、さらにはその愚かしさに少しでも理があるかのように思ってしまう親御さんのアホさに、そして何より、結局事実から目を背け、何も頑張らずに生きていく人生へと一人一人が陥ることを、どのような手管を尽くそうとも止めることができなかったという自分の無力さに、打ちのめされるからです。

しかし、このように自分が自分の存在意義を疑わざるをえないほどに、全力を懸けては裏切られ、打ちのめされているときにこそ、「死にたい。」「どうしようもなくなってしまった。」などという相談が来ることが多いのも面白いものです。そのようなとき、こちらもそんな余裕はないのですが、それでも自分に鞭を打って何とか応えようとしても、実際に相談してくる人の力になれているかどうかはあやしいのですが、それでも何とか歯を食いしばっては必死に目の前の相談に応えようとする、という繰り返しです。

卒塾生から、恐れ多くも僕自身のことを「太陽のような存在」と言われたことがあります。それをとりあえず鵜呑みにして心を奮い立たせられるほどには僕は人間のコミュニケーションというものを信頼できてはいないのですが、それでも太陽の孤独については思いを馳せてきたところがあるので、その表現には感心させられました。それはまた、僕自身が理想としてもってきた像であるからです。

人間の「温かい」「冷たい」の感覚は自分よりも温度が高いものと接しているときにはそれを温かく感じ、自分よりも温度が低いものと接しているときにはそれを冷たく感じるということに気づいたとき、僕は何よりもまず、太陽の感じる孤独を想像し、打ちのめされました。この太陽系を温め続けている太陽は、他を温めても温めても、誰よりも「寒さ」を感じ続けるしかないのだと。(まあ今冷静に突っ込むと伝導と放射は違うのでしょうが。)人が他の人に思いをやり、何かを与えよう、伝えよう、わかってほしい、と思うとき気持ちの「温度差」が必ずあるわけですが、誰に対しても思いやりをもとうとし、誰に対してもその人のために伝えようとし続ける人は、誰よりも「寒い」思いを感じ続けざるを得ない人であるのだ、とも。自分にとってその現実は、決して直視したくない、しかし目をそらすこともできない残酷なものでした。

その残酷な現実から逃げて生きる道を諦めて、少なくとも僕からは決して見限りはしないことを決め、この仕事を始めたわけですが、しかしそれでもうまくいかないことだらけ、本当に情けない限りです。

ただ、それでも言えるのは、人との関係において必死に思いやっては裏切られたり理解されなかったりで、しんどい、辛いと追い詰められて「もうこんな人生やっていられない!」と思っているときには、誰かを温め得ているのかもしれない、ということです。もちろん、それはそれだけで「生きよう!」と思える動機になるほど、人間は強くはありません。けれども、それもまた事実である、ということには目を向けておかねばならないと思っています。それはまた、僕が生徒たちによく言っている「生きることがしんどくなってからが、君の人生の始まりなんだよ。」という言葉の意味でもあります。

もちろん、他者を自己が存在し続けるための理由にするのであれば、それは単なるエゴイズムでしかないでしょう。
しかし、自分のしんどさが自分だけのものであり、自分が消えればなくなる単なる無駄なものであるのか、それとも他を温めようとしてはエネルギーを吸い取られてしんどくなっているのかは、ぜんぜん違うことであると思います。
しんどいときにこそ、私達は「太陽の孤独」に目を向けては、それが本当に意味のないことであるのかどうかを見つめ直すことが大切だと思います。

僕も、どんなに理解をしてもらえずに打ち捨てられ続けようとも、生徒たちが自身を鍛えられる人生のために、何とかもう少しだけこちらから語りかけ続けていきたいと思います。
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