
気がつけば、5月も10日が過ぎているというこの恐ろしさですね。。忙しい毎日の中で何とか必死にあれこれやりくりしているうちに、ブログの方も放置してしまっていました。毎日は難しいとしても、また定期的に書いていきたいと思います。
話題としては少し古いのかもしれませんが、武田塾という参考書を使って勉強方法を教えるという塾(なんか似たようなシステムでやっている小さな塾がどこかにあった気もしますが。。ちなみに、うちの方が2005年5月開業なので、開業はこちらの方が早いです!)がとても繁盛していて全国展開をしているのですが、そこに所属する職員がyoutubeで法政大学の入学式で「法政大学が第一志望だった人は0人説」という失礼極まりないインタビューをしては動画を挙げ、炎上していたようでした。それを真摯に糾弾されている中野先生のブログもあります。
僕も中野先生と同じ思いです。その大学が第一志望であろうとなかろうと、様々な思いを抱えた上で前向きにその大学の入学式に臨もうとする新入生に、そのようなひどい質問を投げかけてはネタにする、という行為自体が本当に教育に携わる機関として言語道断です。仮に受験に少しでも関わった経験があるのであれば、「第一志望に合格する」ということがどれほど難しいか、ということに直面せざるを得ません。自身の受験で余裕を持って第一志望に合格できた教師であろうと、「教え子すべてが第一志望に合格できる」ことなど不可能です。間違いなく日本一、いや恐らく世界一の先生である物理屋さんですら、教え子の第一志望合格率は100%ではないわけですから。
だからこそ、教師がしなければならない仕事は、もちろん「第一志望に合格させるためにできることを徹底的にやる」のは当たり前の当たり前の当たり前として、仮にそれが実現できなかった時その現実に打ちのめされる生徒に対して、それでも何を語らなければならないのか、を準備していくということでもあります。人生は思い通りにならず、思いやりや努力が報われるわけでもない。(さぼっていて結果が出なかったのならともかく)必死に頑張ってもそのような現実に打ちのめされる教え子たちに、どのような言葉をかけるかこそが重要であるわけです。
それを受け入れる余裕のない教え子たちにどのように偽善者と思われようとも、彼ら彼女らが必死にもがいた努力の中で成し遂げ得なかったものだけに目を向けては成し遂げ得たものをすべて放擲することのないように。あるいは、この悔しさを糧にして、より長い視野で自分の人生を捉え直すことができるように。このように色々と身悶えしながら考えては、なけなしの言葉をかけるとき、僕は自分自身の偽善者ぶりを強く感じながらも、でもその偽善者としての役割を果たさなければならないと強く感じます。大切なのは、受験生が自分では自分の努力を全否定したくなるようなそのときにたってなお、その子のためにその努力を肯定できるかどうか、であると思うからです。その「肯定」が嘘くさく思われようと、バカにされようと、本人に怒りと軽蔑をもってあしらわれようと、受験生が自分自身ですら自分を否定せざるをえないその瞬間に、その受験生本人の肯定をしないのであれば、教師など存在する意味はないどころか、存在していてはならないでしょう。
そして、そのように嘘くさく見え、拒絶されることを覚悟しては、それでも自己が全否定されたと感じてしまっている受験生を何とか自分だけでも肯定しようという「絶望的な偽善」を引き受けたことのある人間であるのなら、そのような自己の全否定から何とか再び本人が歩き始めようとしている入学式において、「企画」としてこのようなことは絶対にできません。それが全てです。炎上かどうか、世間をお騒がせしているかどうか、法政大学とその学生に失礼かどうか、という論点は些末なものであり、それらをどのように言い繕って謝罪をしようと、受験生の絶望的な自己の全否定を何とか少しでも一緒に引き受けようともがいた経験のない人間が教務にいる塾が武田塾である、ということは事実でしかありません。(もちろん、これはほとんどの予備校や塾にもあてはまるとは思いますが。。)
もちろん、第一志望に合格すれば、その後の人生においても絶望から逃れられる、ということではありません。
東大や京大に合格した凡百の東大生・京大生が感じるのは、自分がいくら努力をしたとしてもどうにも追いつきようのない人間たちが目の前にいる、という事実です。あるいはその中で優越感をもっていた少数の子たちも、より視野を広げれば、現実から目を逸らさない限り、必ず絶望につきあたります。
だからこそ、そのような、最後の砦である自分ですら自分を全否定せざるをえないかのように思ってしまうときにどう寄り添うか、は人を教える仕事に携わる人間にとっては必ず考えなければならないことであると思っています。もちろん、そんなとてつもなく難しい役割は、どのような天才であろうと、どのような聖人であろうと、決してろくに役に立てないような難しいものです。でも、あるいは、だからこそ、その役割を誰かが果たそうとしていかねばならないし、そこでの自分の無力さ・嘘くささを踏まえてなお、苦しんでいる本人の存在を引き受けていかねばならないと思います。
嚮心塾も「華々しい合格実績」的な情報も出していかないと生徒が集まらないのがこの業界の苦しいところではありますが、一方で大切にしていることがあります。それは、第一志望に合格した卒塾生しか卒塾後に塾に遊びにこれないような学習塾であってはならない、ということです。第一志望に合格した受験生は自らの「成功」体験と塾がリンクしているわけですから、それはこの場をかけがえのないものと思いがちです(もちろんそれは錯覚であることも多々あるとは思いますが)。そうでなかったとしても、それでも「あのおっさんに今の話を話してみようかな。。」と思ってもらえる塾でないのであれば、存在意義などないと考えています。
一人一人に第一志望に合格してもらう、というのは誤解を恐れずに言えば、目的ではなく、手段です。
生徒一人一人が今後の人生をよりよく生きるためのあくまで一つの手段でしかありません。
そのことをしっかりと伝えられるように教えることを肝に銘じて、しっかりと鍛えていきたいと思います。
話題としては少し古いのかもしれませんが、武田塾という参考書を使って勉強方法を教えるという塾(なんか似たようなシステムでやっている小さな塾がどこかにあった気もしますが。。ちなみに、うちの方が2005年5月開業なので、開業はこちらの方が早いです!)がとても繁盛していて全国展開をしているのですが、そこに所属する職員がyoutubeで法政大学の入学式で「法政大学が第一志望だった人は0人説」という失礼極まりないインタビューをしては動画を挙げ、炎上していたようでした。それを真摯に糾弾されている中野先生のブログもあります。
僕も中野先生と同じ思いです。その大学が第一志望であろうとなかろうと、様々な思いを抱えた上で前向きにその大学の入学式に臨もうとする新入生に、そのようなひどい質問を投げかけてはネタにする、という行為自体が本当に教育に携わる機関として言語道断です。仮に受験に少しでも関わった経験があるのであれば、「第一志望に合格する」ということがどれほど難しいか、ということに直面せざるを得ません。自身の受験で余裕を持って第一志望に合格できた教師であろうと、「教え子すべてが第一志望に合格できる」ことなど不可能です。間違いなく日本一、いや恐らく世界一の先生である物理屋さんですら、教え子の第一志望合格率は100%ではないわけですから。
だからこそ、教師がしなければならない仕事は、もちろん「第一志望に合格させるためにできることを徹底的にやる」のは当たり前の当たり前の当たり前として、仮にそれが実現できなかった時その現実に打ちのめされる生徒に対して、それでも何を語らなければならないのか、を準備していくということでもあります。人生は思い通りにならず、思いやりや努力が報われるわけでもない。(さぼっていて結果が出なかったのならともかく)必死に頑張ってもそのような現実に打ちのめされる教え子たちに、どのような言葉をかけるかこそが重要であるわけです。
それを受け入れる余裕のない教え子たちにどのように偽善者と思われようとも、彼ら彼女らが必死にもがいた努力の中で成し遂げ得なかったものだけに目を向けては成し遂げ得たものをすべて放擲することのないように。あるいは、この悔しさを糧にして、より長い視野で自分の人生を捉え直すことができるように。このように色々と身悶えしながら考えては、なけなしの言葉をかけるとき、僕は自分自身の偽善者ぶりを強く感じながらも、でもその偽善者としての役割を果たさなければならないと強く感じます。大切なのは、受験生が自分では自分の努力を全否定したくなるようなそのときにたってなお、その子のためにその努力を肯定できるかどうか、であると思うからです。その「肯定」が嘘くさく思われようと、バカにされようと、本人に怒りと軽蔑をもってあしらわれようと、受験生が自分自身ですら自分を否定せざるをえないその瞬間に、その受験生本人の肯定をしないのであれば、教師など存在する意味はないどころか、存在していてはならないでしょう。
そして、そのように嘘くさく見え、拒絶されることを覚悟しては、それでも自己が全否定されたと感じてしまっている受験生を何とか自分だけでも肯定しようという「絶望的な偽善」を引き受けたことのある人間であるのなら、そのような自己の全否定から何とか再び本人が歩き始めようとしている入学式において、「企画」としてこのようなことは絶対にできません。それが全てです。炎上かどうか、世間をお騒がせしているかどうか、法政大学とその学生に失礼かどうか、という論点は些末なものであり、それらをどのように言い繕って謝罪をしようと、受験生の絶望的な自己の全否定を何とか少しでも一緒に引き受けようともがいた経験のない人間が教務にいる塾が武田塾である、ということは事実でしかありません。(もちろん、これはほとんどの予備校や塾にもあてはまるとは思いますが。。)
もちろん、第一志望に合格すれば、その後の人生においても絶望から逃れられる、ということではありません。
東大や京大に合格した凡百の東大生・京大生が感じるのは、自分がいくら努力をしたとしてもどうにも追いつきようのない人間たちが目の前にいる、という事実です。あるいはその中で優越感をもっていた少数の子たちも、より視野を広げれば、現実から目を逸らさない限り、必ず絶望につきあたります。
だからこそ、そのような、最後の砦である自分ですら自分を全否定せざるをえないかのように思ってしまうときにどう寄り添うか、は人を教える仕事に携わる人間にとっては必ず考えなければならないことであると思っています。もちろん、そんなとてつもなく難しい役割は、どのような天才であろうと、どのような聖人であろうと、決してろくに役に立てないような難しいものです。でも、あるいは、だからこそ、その役割を誰かが果たそうとしていかねばならないし、そこでの自分の無力さ・嘘くささを踏まえてなお、苦しんでいる本人の存在を引き受けていかねばならないと思います。
嚮心塾も「華々しい合格実績」的な情報も出していかないと生徒が集まらないのがこの業界の苦しいところではありますが、一方で大切にしていることがあります。それは、第一志望に合格した卒塾生しか卒塾後に塾に遊びにこれないような学習塾であってはならない、ということです。第一志望に合格した受験生は自らの「成功」体験と塾がリンクしているわけですから、それはこの場をかけがえのないものと思いがちです(もちろんそれは錯覚であることも多々あるとは思いますが)。そうでなかったとしても、それでも「あのおっさんに今の話を話してみようかな。。」と思ってもらえる塾でないのであれば、存在意義などないと考えています。
一人一人に第一志望に合格してもらう、というのは誤解を恐れずに言えば、目的ではなく、手段です。
生徒一人一人が今後の人生をよりよく生きるためのあくまで一つの手段でしかありません。
そのことをしっかりと伝えられるように教えることを肝に銘じて、しっかりと鍛えていきたいと思います。
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