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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

洗濯機の備え付け方。

先日引っ越しをしました。まだ何も片付いていないのですが、引っ越しして一番最初に困った大問題が洗濯機が大きすぎ、また排水口の位置が防水パンの真ん中にあり、洗濯機が設置できず洗濯ができない、ということでした。。排水口が真ん中にある場合には洗濯機用の台を買ってその上に洗濯機を載せればいい!ということまでは調べてわかり、準備をしたのですが、そこからその洗濯機用の台に一人で載せるまでが大変でした。

洗濯機を台に載せるために様々な試行錯誤をしてはいたのですが、どれも失敗です。重い洗濯機を何度もずらして動かしては汗だくになりつつも、決め手が見えないままに1時間半ほど格闘し、深夜1時を周ったときにはさすがに(ケチな僕であっても)「業者さんに頼むしかないのか…。」と思ったのですが、そこでふと、「そういえばまだ洗濯機を持ち上げていないな。」ということに気づきました。

家にあるのはかなり大きな洗濯機(おそらく80キロくらい)なので、「どのように(持ち上げないで)ずらすか」という作戦をアレコレ考えてはいたのですが、結局そこでの試行錯誤はすべて「洗濯機が完全に地面から離れる瞬間を少しも作らない。」という前提の上での試行錯誤でした。

もちろんその前提は、「この洗濯機は一人で持ち上げるにはかなり厳しい重さである」という事実認識ゆえのものです。その事実認識に間違いはないのですが、その制約ゆえに「この洗濯機は重くて一人で地面から持ち上げられないから」という理由で自分が切り捨てていた方法について検討すべきであることに気づき、それを選択肢に入れて改めて検討してみると10秒位で「なんだ、これでいけるじゃん!」と思いつきました。そして、そこからは、2,3分で無事洗濯機が洗濯機用の台に収まりました。

このときの僕の失敗とは、「洗濯機は一人で持ち上げるにはあまりにも重すぎる」という前提から「ゆえに洗濯機を地面から話す瞬間を少しも作らずに設置する」という誤った結論を導き出し、その誤った結論までを初期条件として、あれこれと試行錯誤をしてしまっていたことでした。

実際には「洗濯機は一人で持ち上げるにはあまりにも重すぎる」→「とはいえ、短い時間、何センチか持ち上げること自体はそんなに不可能ではない。」ということまでを踏まえた上で、どのような方法がベストかを考えればよかったわけですし、実際その縛りをなくしてからは短時間で「正解」が見えたわけです。


「問題を解決するのには試行錯誤こそが大切だ!」という主張については、僕自身、心から同意します。実際に嚮心塾も受験生に試行錯誤してもらっては解決策を見つけてもらうための塾です。しかし、試行錯誤も、そもそも自分が前提としているものを疑わずに行われるとき、やはりそれでは解決につながらないままに時間を空費することになりがちです。

だからこそ、徹底的に試行錯誤をするのはあくまで自分が前提としているものを疑うため、であるのだと思います。
ある前提の下で徹底的に努力をし、それでもうまくいかないのであれば、前提が間違っている可能性を初めてそこで疑うことができます。

もちろんこれは前提が間違っていることを早くから疑うべきではない、ということではありません。特に極度の緊張下であるために問題文の読み間違い、勘違いが多い入試においては、問題文で与えられている前提を自身が誤読していないかをしっかりとチェックしてから問題について考え始める方が、急いで読み取った前提を元に解き進めてしまうよりも、結局時間のロスを防ぐことが出来る、というテクニックはある程度普遍性を持つ、とは思います。

ただ、受験生にとっては日々の勉強において、前提から疑っていくだけでは何も進められなくなってしまいます。
だからこそ、勉強の進め方としては、
①まずある仮説にもとづいて、それを前提として進めていく(そして、これは徹底的にやる)。
②それを徹底したとしてもまだ力がつかないところについては、明確にやるべきものが見えていればいいのですが、
そうでなければ①で立てた仮説の中で自身が「ここは当たり前として…」としている中に、見落としがないかを考える。
③できれば、その②のプロセスを自分だけでなく、誰か他の人と一緒に検証していく。
ということが大切であると思っています。

特に、この③が重要で、たかが洗濯機を台に載せる、ということだけでも相談ができなければ自身の思い込みに気づかないままに試行錯誤をしては結局うまくいかない、というこのような失敗をしてしまうわけです。特に自分が賢いと思っている人ほどにこのような失敗に陥りがちであると思います(まさに僕のような奴ですね…)。

「教師が正解を教え込むのではなく、生徒に試行錯誤をさせることが大切だ!」ということまではだいぶ人口に膾炙してきているとは思うのですが(もちろんこれが教育現場全体を見れば楽観的な見方であることも承知しています。。)、「試行錯誤とは何か」「『正しい』試行錯誤と『誤った』試行錯誤はないのか」という点に関しては、まだまだ皆が手探り状態であるようにも思っています。「前提を疑うためにこそ、試行錯誤を尽くす。」というその姿勢は、リルケの「自らの死に際して絶望して死ねる。私は幸せだ。」という言葉とも通底するように思えるのは僕だけでしょうか(僕だけだったらすみません。。)。

もちろん、受験勉強のように残り時間が限られているときには、自分の思考回路を点検できる機会を作ることが出来る他の人(これこそが教師が果たさなければならない役割です)の存在が極めて重要ではあるわけですが、長い人生、それも誰にも答が見えないしんどい取り組みの中では、そうはいかないこともあると思います。その際にこそ、試行錯誤をしてみてもうまくいかないときには、自分が当たり前のように取り入れている前提を疑うべきである、ということを思い出せるかどうか、ですね。僕自身もそれができるように、必死にあれこれとやっていきたいと思います。
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