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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

呪(のろ)うことは祝(いわ)うことであること。

昨日の東大の入学式での上野千鶴子先生の祝辞が話題になっています。僕も全文を読んで内容も本当に素晴らしいし、これを聞いて反発している新入生も、勉強をしていく中でその反発を覚える自分のアホさに気付けるようになってくれればいいな、と思います。(もちろん、そうならない可能性の方が圧倒的に高いのが、恐ろしいところですが。一般に東大生が偏りのない見方が出来るかと言えばそれは全く違いますし、むしろ自分たちが受験勉強をくぐり抜けている、という成功体験から自分たちの偏見や幼稚さにすぎないものが少なくとも一顧だに値するかと思い込むような幼稚な態度をとってしまう子たちが多く、そしてそれは大人になってからもあまり変わらない、というのが事実です。東大出身者(これは京大でも早慶でもあまり変わりはしませんが)は「知的エリート」のような社会的認知をえながらも、ほとんどは実際には「自分」(がこれまでに身に着けてきた偏見)を疑うことができないという点では知的エリートではありません。)上野先生の祝辞はこちらから全文が読めます。

論点がいくつもあるので、この祝辞に含まれている論点について述べていくだけでもブログのネタに毎日困らずに連載できてしまうわけですが(笑)、さすがにそれはあざといですし、普段このブログで書いていることとも重複が多い(特に「自分の成功を自分の努力のおかげと思うな。」ということは繰り返し書いていると思います)ので、一点だけについて書きたいと思いました。それは、この上野先生の祝辞に対して「内容が素晴らしいことは間違いがないが、入学生を祝う入学式の祝辞としてふさわしかったか。」という批判について、です。

結局このような祝辞は東大生を選別を受けてきているという「原罪」を入学生に背負わせることであり、それを入学式でやるのか、という批判については、僕はそのような呪いの言葉こそが意気揚々と大学に入ろうとしている子達にとっては一番の良い薬であり、最高の贈り物であると思っています。もちろん、それをうざったいと思う学生が多いことは事実として、そのように呪われる言葉から、少しでも自身のありようについて考えざるをえないこと、さらには自身は考えないとしてもそれを問題視ないし、留保をつける存在がいるのだ、という事実をつきつけられることこそが、自身の認識の枠組みを問い直すきっかけになると思うからです。

たとえば、(これは上野先生も祝辞で触れていましたが)僕自身が入学した20数年前から今もずっと東大では東大男子はどこのサークルでも入れるのに、女子はインカレサークルには入ることができません。インカレサークルの方が圧倒的に多いため、東大女子は東大のサークルにほとんど入れないのです。これは東大男子は他大の女子にチヤホヤされたいところからそうなのでしょうが、今でこそそれが問題視されるものの、依然として改められていないことです。
(僕自身は、この理不尽な仕組みに入学当時憤慨しましたし、だからこそ絶対にそのようなインカレサークルには入らないことは決めて、東大女子も入れるサークルに入りました。それと同時に何の疑いもなくインカレサークルに入る同級生を軽蔑もしていました。しかし、その思いを同級生の男性の誰かに伝えても、ほぼ誰も理解してもらえなかったことをよく覚えています。まあそのせっかく入ったサークルも「東大」という内側は疑いえないアホさにうんざりして行かなくなるわけですが。)

そのような排除の仕組みに対して、疑問を投げかけることは内側からはどうしても出てきにくいため、この上野先生の祝辞のような「呪い」があって初めて、考える切っ掛けをもらうことができると思っています。

それとともに、このような「呪い」の言葉を投げかける、ということは根本的には相手を信頼している、という姿勢の現れでもあります。今はわからなくとも、いずれわかってもらえるときが来るのではないか、そのためならば今は嫌われ、憎まれ、厭われようとも、それでもこの「違和感」を伝えなければならないのではないか。そのような懸命な思いを伝えるためには、ただ「おめでとう!」ということよりも何万倍もエネルギーがいることであり、だからこそ何万倍も愛情のこもった言葉であるのだと思います。これはたとえ、アホな東大出身者がこの祝辞の意味をわからないままに、その視野の狭い生涯を終えたとしてもなお、上野先生の愛情に価値が有ることには変わりがない、と僕は思います。「祝(いわ)う」とはどのような行為かが、相手を愛する気持ちが入っているかどうかによって定義されるのであるとすれば、このような「呪(のろ)いの言葉」の中には形式的なお祝いの言葉の何万倍も相手を愛する気持ちが込められているからこそ、何よりも「祝(いわ)いの言葉」であるのだと思います。

もちろん、この素晴らしい祝辞を話す上野先生も彼女の持つ別の内側の論理(移民排除)を北田暁大先生から批判された(『終わらない「失われた20年」』(筑摩選書))こともあったり、と現実には内側の論理のもつ暴力性というのは一筋縄にはいきません。ある暴力を告発する人が別の暴力には積極的に加担してしまう、というのは私達人間が視野が狭く愚かであるからこそ、どのような知性を持つ人にとっても容易に陥りやすい過ちであるのだと思います。(もちろん、これに関しての上野先生の反省は知的誠実さの現れであると感心しました。)

しかし、だからこそ、そのような内側の論理に陥らないように、何とかその自分の暴力性を直視しては乗り越えようとする姿勢こそが人間性の必要条件であると僕は考えています。僕自身の目標としても、「東大合格者何人!」とか「医学部合格者何人!」とかには全く興味がないのですが、「自分を疑うことのできる東大合格者何人!」とか「自分を疑うことのできる医学部合格者何人!」とかにはとても意味があると思いますし(自分を疑う賢さがある子は受験勉強なんかやらないものなので…。逆に言うと受験勉強を抵抗なく出来る子は、あまり頭がよくありません。これはかつての僕自身も含めて、ですが。)、それがかなえられるように、まずは僕自身が自己を徹底的に疑い続ける姿勢を貫いては、自身を鍛えていかなければならないと思っています。
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