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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

対話の可能性について。

自分の見方と違う見方を理解するのは難しいことです。それは僕自身も「そのような見落としをしないように」と心がけながらも、いともたやすくその失敗に陥ることからもよくわかります。それほどに人間というのは与えられた環境に応じて「自分の見方」が決まってしまう(すなわち、「自分の見方」がいかに自分のものではないか、ということでもあるのですが)のだと思います。

ただ、人間の理性には限界があるからこそ、そのような失敗についつい陥りがちではあるとしても、それでも自分の見方と違う見方を理解しようと思えているかどうか、というのは一つ重要な違いであると思います。その自分の見方とは違う見方を理解しようと思えているかどうか、によって対話ができるかどうか、ということが大きく変わってきます。

前までは僕はこの違いを「知性の違い」と捉えているところもあったのですが、どうやら知性ではないのですね。
極めて高い知性を、違った立場の意見を理解しないで自己の見方を正当化するためだけに使う人々がどれほど多いかを考えれば、それは明らかです。

大切なのは「自分の見方」「自分の考え方」として自分が守っているものが、自分の環境や立場、職種、その他の要因によって決まっているだけかもしれない、ということにもっと疑いを持つことであると思います。
その姿勢がある人同士ならば、対話ができます。しかし、それは自分の理性には限界があることを前提としていなければならない以上、実はかなり厳しい前提でもあるわけです。

そういった中で、どのような生徒、どのような親御さんとも対話をしていこう!という姿勢で塾をやってはいるわけですが、なかなかに難しいご家庭もあります。対話をするには、「自分」とされるものを疑わなければならない。しかし、「自分」とされるものを疑うことができるのは、ある程度精神的に余裕がある状態になければならない、ということになります。

結局、「自分」とされるものを疑い続けるためには、外部からの定義をどのように積み重ねていったとしても、自身はそれによっては定義され得ない、という覚悟が必要であるようです。それはまた、永遠に自己を定義し得ない、という苦しみでもあります。それを引き受ける、ということは恐らく殆どの人にとってはしんどすぎることでもあるのでしょう。僕自身も「早く外部から定義をしてもらいたい。」という願望は常に抱えながら、生きているところはあります。

対話が難しいのは、外部からの定義に従い、自分ではないものに自己を投影して生きているためだとしても、それがその人の人生すべてであるのであれば、そのような相手とどのように対話ができるかを探ろうとも、それは絶望的に難しいです。
それでも、こちら側でやれることはないのか、こちらが「対話の可能性を探る側」として自分自身を定義することで損なってしまっている対話の機会はないのかどうか、を懸命に探し続けていきたいと思っています。

それとともに、そのように外部からの定義に飛びつくこと無く、自ら自身の人生を定義しようともがき苦しむすべての人の力になれるように、僕自身ももっと努力をしていきたいと思っています。
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