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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

無駄を省くのは、無駄を愛せるようになるため。

受験が終わってようやく一段落!のはずが新しく塾の体験に来てくれている子たちへの応接、さらには引っ越しの準備などでバタバタしていてなかなか時間がとれません。。何とか時間を作ってはやらなければならないことをしっかり進めていきたいと思います。イチロー選手の引退についても書きたいことが山ほどあるのですが、また次回に書きたいと思います。

「今いる場所から、最短距離で。」というのは嚮心塾のホームページを作るときに作ったキャッチコピーなのですが(考案時間30秒!)、なかなか気に入っています。しかし、「最短距離で」というのはどうも誤解を招いてしまうように思っています。それはなぜかと言えば、「最短距離で」と言ってしまうと、どうしても様々な無駄を省いていって、とにかく効率化をすることが嚮心塾の理想であるかのように聞こえてしまうからです。

もちろん、受験とは時間との闘いであるからこそ、無駄な勉強をしている暇はありません。今やっている勉強の中でうまくいっていないもの、力をつけることにつながっていないものはさっさとやめてしまって、自分がやるべき勉強に集中すべきです。その点では嚮心塾は「無駄を省く」ことをひたすらやっていく塾であるとは言えると思います。

しかし、このように自分の力になっているかどうかわからないものをさっさと排除し、確実に足りない部分を埋めるような勉強だけに専念して、無駄を排して、徹底的に勉強していった先に僕が受験生に何を要求するのかと言えば、「どれだけ無駄なことをやれるかが合否をわける!」ということを説いていくことになります。

ここはなかなか伝えにくいところです。自分の勉強がうまくいっていないとき、というのはたいていあれこれ「やりすぎ」です。だとすると、このようなときに必要なアプローチは無駄なものをとにかく排除して必要なものを最小限に絞り、それを定着するところまで徹底して繰り返していく、ということになります。
しかし、です。そのアプローチによってある程度力がついた後は、どうしたらよいかと言えば、そのように「無駄」として切り捨ててきたものの中に自分にとって今なら意味のあるものがないかを探しては埋めていく、という作業が必要になります。「東大にこんなのは出ないから。」「MARCHではこんなの出ないから。」と言って、様々なものを切り捨てていく子と、それもまた無駄にはならない、と思って丹念にそういったものを一つ一つ消化していく子とで更に合否が分かれていくことになります。無駄な勉強など、実は一つもないのです。

だからこそ、教える側としてはある段階までは無駄を徹底的に切り捨てて身につけるべきものを繰り返し咀嚼できる環境を受験生に整えてあげながら、しかし、段々と最初はまさにその受験生に「こんなの無駄だから、やらなくていいよ!」と言っていたものを後から「これもやった方がよいにきまってるじゃん!」と手のひら返しをしていかねばなりません。もちろん、「この手のひら返し」がその場の思いつきや気分でなされるのであれば、全く信頼をえられないわけですが、受験生の発達段階を見ながら、必要な時期にそのように彼らの評価基準を押し広げることができていければ、それはより強固な力となっていくわけです。

というのは受験指導の話ですが、「無駄を省くのは、無駄を愛せるようになるため」というのは教育に関わらず、どの分野でも言えることであるのだと思います。たとえば演劇などの表現においても徹底的に「無駄」を排した演出でありながら、しかし一見「無駄」に見えるものが入ってきたとたんに我々はその「無駄」の意味を考えるようになります。そしてそのとき、「無駄」は決して無駄なものではなくなってきます。それはまた、最初からゴテゴテと無駄があるときには愛せなかった無駄を愛せるようになっている、ということでもあります。(この極致が僕にとってはどくんごの芝居です!)

つまりこれは「外」の世界と出会い、それを受け止めるためには、内部を突き詰めることが必要となる、ということであるのでしょう。その突き詰めがないままに「外」を取り入れようとするのは、外が外のままでおわってしまい、(取り入れてもその「無駄」の意味がわからないという点で)「無駄」が無駄のままで終わってしまいますし、その突き詰めを徹底した後に「外」を取り入れようとしないのもまた、(その「無駄」の意味がわかるようになっているのにそれと向き合おうとしないという点で)やはり「無駄」が無駄のままで終わってしまいます。

だからこそ、徹底的に無駄を省くのは、無駄を愛し、その無駄の意味がわかるためでもあるのです。受験勉強の内部で無駄な受験勉強を省く必要があるだけでなく、受験勉強ということ自体が生活や人生の他の部分を排除しては特権的な受験勉強、というもののために他のすべてを「無駄」と定義する営みでもあります。それはまた、暴力的であるとさえ、言えるでしょう。しかし、そのように無駄を省くことが、自身を磨き、その一旦は「無駄」と定義した外界を愛し、意味を受け取るために用いることができるのなら。。
そのような願いを込めて、日々しっかりと生徒たちに向き合い、このような姿勢を伝えていければ、と思っています。
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