
どのように優れた人でも人間の能力には限りがあるからこそ、何かについて真剣に取り組むことは、別の何かを見殺しにすることになってしまいます。それは一個人にかぎらず、たとえば新聞やテレビの報道というのもどうしても放送時間や紙幅は限られているからこそ、何かについて語る、ということは何かについては語らないことになってしまいます。
「報道機関が流すのは嘘ばかりだ!」というのが誤りだとしても、それは社会にとって喜ぶべきことではありません。なぜなら、嘘をつかなくても、語りたくないものについては語らなければいいだけであるからです。有名芸能人が麻薬で捕まった話さえしておけば、下世話な我々の関心はそこに惹きつけられ、もっと語らなければならないけれども、語ると様々な抑圧を受けたり摩擦が生じるものについては語らないままでいるほうがむしろ視聴者や読者のお望み通りになるわけです。ここでは作り手の「めんどくさいものを作って政府やスポンサーと摩擦を生じたくない。。」という消極的な願いと視聴者や読者の「考えねばならないめんどくさいニュースを見て考えたくない。。」という消極的な願いとの共犯関係によって、テレビや新聞が愚にもつかないことだけを選び抜いて流すようになってしまっているわけです。
これはあるいは思想についてもそうで、何かについて語る、ということは何かについては語らないことを意味します。だからこそ、何かについて語ることで別の何かについては語らない自分を隠蔽することができてしまいます。
饒舌に皆が語る社会、というのはこのように語りたくないことについて語ることを別のことについての饒舌でごまかす社会である、と言えるわけです。これはもちろんマスメディアだけではなく、今書いているこのブログも含め、このような個人ブログこそ、まさにそういったもので、語りたくないものを隠すために他の何かについては饒舌に語り続ける、というこの姿勢の権化のようなものがブログです。インターネットの普及によって、語られる言葉は爆発的に増え、語る人もまた爆発的に増えたのにもかかわらず、それが何も生産的ではない、というのはまさにこのためであると言えるでしょう。
そもそも人間というのは怠惰な生き物なので、語るのがしんどい、めんどくさい、うっとうしい、弾圧されるなど様々なことについては当然避けるものであるのです。テレビ局や新聞社が芸能人の麻薬問題で大騒ぎして、もっと取り扱うべき現在の社会の抱える問題点についてはほぼ素通りしていることを糾弾する前に、自身がそのようにめんどくさいことを後回しにしては語りうる言葉だけを語っていないのか、それについて猛省する必要が私達一人ひとりにはあると思っています。
受験勉強もそのようなもので、勉強をしない受験生、というのは実はそんなにいません。問題はどの勉強をするか、についてであり、ある勉強をすることは別の勉強をしないことになるのにもかかわらず、「まあ、(苦手なものを避けているといっても)勉強をしているから大丈夫でしょ!」と自分をごまかすことで不合格へと近づいていきます。そのように自分が取り組みたくない、そもそも見たくもないような事実から、どのように目を背けさせないようにしていくかが教師の役割であるのだと思いますが、これが極めて難しいです。自分が取り組みたくないものには取り組まない方がむしろうまくいく!という自己正当化をほとんどの受験生は理論武装してしまっていることが多いからです。その彼らの脆弱な自己を現実から守るための理論武装を一枚、また一枚と武装解除をしていっては、自己正当化の鎧をどこまで剥がしていけるのか、が教育であるのでしょう。
翻って、見たいニュース、知りたいニュースだけを知りたがる私達の弱い心は、どのように都合の悪く考えねばならない現実へと目を向けることができるのでしょうか。。
これに関しては僕自身も答がありません。教育にはそのような力がある、と思っているから教育に取り組んでいるわけですが、しかしこれもいつでもうまくいくわけではないだけでなく、若い頃にそのように鍛えたとしてそれが生徒たちの中でいつまで続いてくれるのかも、わかりません。
それでも諦めずに、そしてまずは自分自身がそのような「見たいものを見る」という過ちを犯さないように、必死にもがいていきたいと思います。
「報道機関が流すのは嘘ばかりだ!」というのが誤りだとしても、それは社会にとって喜ぶべきことではありません。なぜなら、嘘をつかなくても、語りたくないものについては語らなければいいだけであるからです。有名芸能人が麻薬で捕まった話さえしておけば、下世話な我々の関心はそこに惹きつけられ、もっと語らなければならないけれども、語ると様々な抑圧を受けたり摩擦が生じるものについては語らないままでいるほうがむしろ視聴者や読者のお望み通りになるわけです。ここでは作り手の「めんどくさいものを作って政府やスポンサーと摩擦を生じたくない。。」という消極的な願いと視聴者や読者の「考えねばならないめんどくさいニュースを見て考えたくない。。」という消極的な願いとの共犯関係によって、テレビや新聞が愚にもつかないことだけを選び抜いて流すようになってしまっているわけです。
これはあるいは思想についてもそうで、何かについて語る、ということは何かについては語らないことを意味します。だからこそ、何かについて語ることで別の何かについては語らない自分を隠蔽することができてしまいます。
饒舌に皆が語る社会、というのはこのように語りたくないことについて語ることを別のことについての饒舌でごまかす社会である、と言えるわけです。これはもちろんマスメディアだけではなく、今書いているこのブログも含め、このような個人ブログこそ、まさにそういったもので、語りたくないものを隠すために他の何かについては饒舌に語り続ける、というこの姿勢の権化のようなものがブログです。インターネットの普及によって、語られる言葉は爆発的に増え、語る人もまた爆発的に増えたのにもかかわらず、それが何も生産的ではない、というのはまさにこのためであると言えるでしょう。
そもそも人間というのは怠惰な生き物なので、語るのがしんどい、めんどくさい、うっとうしい、弾圧されるなど様々なことについては当然避けるものであるのです。テレビ局や新聞社が芸能人の麻薬問題で大騒ぎして、もっと取り扱うべき現在の社会の抱える問題点についてはほぼ素通りしていることを糾弾する前に、自身がそのようにめんどくさいことを後回しにしては語りうる言葉だけを語っていないのか、それについて猛省する必要が私達一人ひとりにはあると思っています。
受験勉強もそのようなもので、勉強をしない受験生、というのは実はそんなにいません。問題はどの勉強をするか、についてであり、ある勉強をすることは別の勉強をしないことになるのにもかかわらず、「まあ、(苦手なものを避けているといっても)勉強をしているから大丈夫でしょ!」と自分をごまかすことで不合格へと近づいていきます。そのように自分が取り組みたくない、そもそも見たくもないような事実から、どのように目を背けさせないようにしていくかが教師の役割であるのだと思いますが、これが極めて難しいです。自分が取り組みたくないものには取り組まない方がむしろうまくいく!という自己正当化をほとんどの受験生は理論武装してしまっていることが多いからです。その彼らの脆弱な自己を現実から守るための理論武装を一枚、また一枚と武装解除をしていっては、自己正当化の鎧をどこまで剥がしていけるのか、が教育であるのでしょう。
翻って、見たいニュース、知りたいニュースだけを知りたがる私達の弱い心は、どのように都合の悪く考えねばならない現実へと目を向けることができるのでしょうか。。
これに関しては僕自身も答がありません。教育にはそのような力がある、と思っているから教育に取り組んでいるわけですが、しかしこれもいつでもうまくいくわけではないだけでなく、若い頃にそのように鍛えたとしてそれが生徒たちの中でいつまで続いてくれるのかも、わかりません。
それでも諦めずに、そしてまずは自分自身がそのような「見たいものを見る」という過ちを犯さないように、必死にもがいていきたいと思います。
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