
先日最終回を迎えた話題のドラマ、『3年A組』も第二回からずっと見ていました。言葉の重みのあるセリフが多く、
とても良かったのですが、教育に長年携わっている立場からすると、「伝わる」ということがあまりにも瞬時に起きてしまうので、そこがどうしても感情移入しにくいところでした。
これは別の教育系のドラマでも、それこそ『金八先生』とかからそうなのでしょう(僕はあまり金八先生を見ていないので詳しくは知らないのですが)。教育において、先生からのメッセージが生徒に伝わり、生徒が何かをつかむ瞬間が一番「劇的」である以上、そのシーンのない教育系のドラマというのはもはや視聴者を引きつける見どころが何もないものになってしまいます。だからこそ教育をエンターテイメントにするためには、生徒に「伝わる」瞬間がどうしても必要になるのは仕方のないことです。
しかし、たとえば僕がどんなに必死に努力してどんなに何かを伝えようとしても、それが生徒たちに伝わるのは、控えめに見積もっても僕の目の前では起こり得ないでしょう。それどころか、塾を卒業するなり辞めるなりして、さらに生徒たちがそれぞれの人生を必死に取り組んでは苦しみ、いいかげん年齢を重ねておじさん、おばさんになったとき、あるいはおじいさん、おばあさんになったときに初めて、「そういえばあの口うるさいおっさんがこんなこと言ってたな…。」くらいに思い出すのかもしれません。恐らくこれが、「伝わる」タイミングの中でも最速(!)くらいではないかと思っています。
だからこそ、教育というのは根本的に「相手に伝わっている」という確信を持つことができないままに、伝えようとする側は死んでいくものです。もちろん、目の前の生徒に「伝わったな。」「素晴らしいな。」と思えるような瞬間を目の前で起こすことができないのは、僕の教える側としての力量不足であり、もっと素晴らしい先生たちならそのような魔法のような瞬間を引き起こせるのかもしれません。
しかし、それもまた錯覚である可能性は十分にあります。だからこそ、伝えようとする側としては必ず、「この、こちらが真剣に伝えようと思って喋ることが仮に伝わらなくても、あるいは伝わったとしてもなお、その伝わった瞬間を見届けられないとしてもなお、自分は喋らねばならない。」という覚悟を常に持ち続けては喋らねばなりません。逆に言えば「伝わる瞬間」を目指して教師をやるのであれば、どのように「伝える」力のある教師であっても、いずれ夢破れ、教えるという行為に絶望をする瞬間が来てしまうように思います。
全く伝わらない可能性ばかりで、伝わるとしてもなお、その伝わった瞬間を見届けることはたいていの場合にはできないままに自分は死んでいくとしてもなお、伝えなければならないことを伝えようとできるかどうか、そこにこそ教育に関わる人間に真に覚悟を迫るものがあると思います。
マルティン・ルターの言うように「明日世界が滅びようとも、今日私はリンゴの木を植える。」という姿勢が大切です。
教育とは即ち、そのような虚しさを前にして、私達がどう生きるか、の問題でもあるのだと思っています。それはまた、教育に携わる人に限らず、生まれた瞬間から自身の死を運命づけられている我々にとっては普遍的な問題であるとも思っています。
今年も様々に塾に通う子たちが受け入れがたい提案をしてきました。彼ら彼女らの想定する自己を乗り越えてもらうことが、受験に受かるためにも必要であったからです。そして、受験が終わってもなお、そこでのこちらの問題提起は響いてくれるのでしょうか。それがどうなるかはわからないにせよ、僕もまた引き続き、決して諦めないように、伝わる瞬間を柊先生のようには見届けられなくても、最期まで伝えようとし続けていきたいと思います。
とても良かったのですが、教育に長年携わっている立場からすると、「伝わる」ということがあまりにも瞬時に起きてしまうので、そこがどうしても感情移入しにくいところでした。
これは別の教育系のドラマでも、それこそ『金八先生』とかからそうなのでしょう(僕はあまり金八先生を見ていないので詳しくは知らないのですが)。教育において、先生からのメッセージが生徒に伝わり、生徒が何かをつかむ瞬間が一番「劇的」である以上、そのシーンのない教育系のドラマというのはもはや視聴者を引きつける見どころが何もないものになってしまいます。だからこそ教育をエンターテイメントにするためには、生徒に「伝わる」瞬間がどうしても必要になるのは仕方のないことです。
しかし、たとえば僕がどんなに必死に努力してどんなに何かを伝えようとしても、それが生徒たちに伝わるのは、控えめに見積もっても僕の目の前では起こり得ないでしょう。それどころか、塾を卒業するなり辞めるなりして、さらに生徒たちがそれぞれの人生を必死に取り組んでは苦しみ、いいかげん年齢を重ねておじさん、おばさんになったとき、あるいはおじいさん、おばあさんになったときに初めて、「そういえばあの口うるさいおっさんがこんなこと言ってたな…。」くらいに思い出すのかもしれません。恐らくこれが、「伝わる」タイミングの中でも最速(!)くらいではないかと思っています。
だからこそ、教育というのは根本的に「相手に伝わっている」という確信を持つことができないままに、伝えようとする側は死んでいくものです。もちろん、目の前の生徒に「伝わったな。」「素晴らしいな。」と思えるような瞬間を目の前で起こすことができないのは、僕の教える側としての力量不足であり、もっと素晴らしい先生たちならそのような魔法のような瞬間を引き起こせるのかもしれません。
しかし、それもまた錯覚である可能性は十分にあります。だからこそ、伝えようとする側としては必ず、「この、こちらが真剣に伝えようと思って喋ることが仮に伝わらなくても、あるいは伝わったとしてもなお、その伝わった瞬間を見届けられないとしてもなお、自分は喋らねばならない。」という覚悟を常に持ち続けては喋らねばなりません。逆に言えば「伝わる瞬間」を目指して教師をやるのであれば、どのように「伝える」力のある教師であっても、いずれ夢破れ、教えるという行為に絶望をする瞬間が来てしまうように思います。
全く伝わらない可能性ばかりで、伝わるとしてもなお、その伝わった瞬間を見届けることはたいていの場合にはできないままに自分は死んでいくとしてもなお、伝えなければならないことを伝えようとできるかどうか、そこにこそ教育に関わる人間に真に覚悟を迫るものがあると思います。
マルティン・ルターの言うように「明日世界が滅びようとも、今日私はリンゴの木を植える。」という姿勢が大切です。
教育とは即ち、そのような虚しさを前にして、私達がどう生きるか、の問題でもあるのだと思っています。それはまた、教育に携わる人に限らず、生まれた瞬間から自身の死を運命づけられている我々にとっては普遍的な問題であるとも思っています。
今年も様々に塾に通う子たちが受け入れがたい提案をしてきました。彼ら彼女らの想定する自己を乗り越えてもらうことが、受験に受かるためにも必要であったからです。そして、受験が終わってもなお、そこでのこちらの問題提起は響いてくれるのでしょうか。それがどうなるかはわからないにせよ、僕もまた引き続き、決して諦めないように、伝わる瞬間を柊先生のようには見届けられなくても、最期まで伝えようとし続けていきたいと思います。
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