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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

賢者の贈り物。

今日は朝9時から国立前期の合格発表だったので、今か今かと受験生の報告メールを待つも、結局お昼を過ぎてもメールが来ず、「これはだめだったかぁ。後期の試験に向けてどのように気持ちを切り替えてもらおうか…。」とあれこれと手立てを考えていたところ、13時に塾にその受験生が「合格してました!」と報告に来てくれました。
彼いわく、9時に塾に電話をかけてくれたそうなのですが、僕がその時間に塾にいられなかったため、「やはりこんな大事な報告は直接口頭で言わなくては!」と気遣ってくれて塾の営業時刻の開始に合わせて来てくれたそうです。
まったくやきもきしました!

このようにお互いに思いやりをもとうとして、その思いやりがすれ違う話といえば、O.ヘンリの『賢者の贈り物』ですが、あの話を読んで心があたたまる、という人がいるのかなあと昔から疑問でした。あれは結局、人間と人間というのはどんなにお互いに思いやり、どんなにお互いにお互いのために尽くそうとしてもなお、相手の気持ちなどこれっぽっちもわからないで、結局すれ違ってしまう、という極めて残酷な、しかし正確な事実の描写であるのだと思います。そのあたりはJames Kirkup の”Half a cup of tea"とか、あるいはもっと有名どころとしてはシェークスピアの『ロミオとジュリエット』などもまさにそれだと思いますが、人間同士というのは愛し合い、思いやり合おうとも、決して理解し合うことなどできず、互いが互いに理解し合えていないことから生じる悲劇をも避け得ない、というこの残酷な事実を前にすれば、私たちは永遠の友情や愛などというものを気軽には信じにくくなるのではないかと思います。

しかし、です。

「どのように親しい相手であっても、あるいはそれが生まれた瞬間からずっとその成長を見ているはずの我が子であろうと、人間対人間である以上、相手のことを理解できていない部分が必ず残る(しかも、かなり重要なところで)。」

という事実は、残酷であるとともに、一人一人にとっては希望でもあるのだ、と僕は思います。それは即ち、自分の矮小な想像力の外にこの世界が存在することの証左でもあるからです。そのようなすれ違い、しかもそれは懸命に向き合っていかなければ、それがすれ違っていることにすら気づかないようなすれ違いは、もちろんすれ違うことの悲しみとともに、自分の頭のなかで考えていた現実がいかに現実から矮小化されてしまったものに過ぎないか、を思い知らせてくれるという点で、まだ生き永らえる理由を僕に与えてくれると思っています。

徹底的に様々な想定をしていき、最悪の最悪のそのまた最悪の想定までをしていくことが受験の準備においても必要なわけですが、それらの想定をしてもなお、想像以上のことが起こりうるのが現実です。
しかし、そのような現実がたしかにある、という事実は決して絶望ではなく、ベルクソンが『時間と自由』で書いたように、希望そのものであるのだと思います。

受験の準備を通じてそのことがどのように伝えていけるか、が僕の仕事です。これで、あと数日で(補欠待ちを除いて)あらかた結果が出揃うことになりましたが、どのような現実からも目をそらさぬように、しっかりと受け入れていきたいと思います。
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