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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

生(せい)にしがみつけ。

先日、間もなく卒塾する生徒に、「大人って一体何が楽しいの?ずっと子供のままが良かった。」と言われ、「何か大人の楽しいことってないの?」と聞かれました。こちらとしては一生懸命喋ったつもりでしたが、結局「そういうのはいらない。聞いた相手が悪かった。」と諦められてしまいました。

そのときに話したのは、「大人は苦しい。うまくいかないことばかりだ。しかし、このうまくいかないことは、幸福感の中に逃げ込めた子供時代とは違って、自分がうまくいかないというだけではなく、『問題』につながっている。それに立ち向かおうとすることは意味のあることへとつながるものだ。」という話でした。

子供の頃の大人に何重にも守られた上で感じることのできる楽しさや幸福感を、大人になってから感じることができるかといえばほとんどの人にとっては難しいと思います。では大人は何のために生き続けているのか、といえば、もちろん責任感とか家族への愛情とか綺麗なことを言うのは簡単ではあるのですが、結局ほとんどの大人は死ぬ勇気もなく、何かしら憂さ晴らしの手段を見つけては、その憂さ晴らしの手段のために醜く自分の生にしがみついている、とでも言えるのかもしれません。少なくとも感受性の強い子供にとってはそのような大人は醜くしか見えないし、一方で理想を語りそれを実現し続けようとする大人には感銘は受けるでしょうが、「自分もそのようになろう!」とはなかなか思いにくいものです。

だからこそ、若い世代に対して僕が今提案したいのは、「とりあえず、生きることにしがみついてみたら?」ということです。生きることにしがみついて無為な人生でも何とかやりくりしようとしてみれば、だんだんとそれが無為であることには耐え難くなってくるのが人間の性(さが)であると思うからです。もちろん、理想に目を輝かせないままにただ生きることに執着するそのような姿勢はさらに下の世代から見ればかっこ悪いとは思います。しかし、かっこいい人生を送れる人なんてそんなにいるわけではありません。かっこ悪くても、何もできていなくても、それでも生き続けていけば、やがて「こういうものは嫌だ。」「こういうものは大切だ。」という気持ちがじわじわと、出てきます。モブ・ノリオさんが『介護入門』の中で「『ああなってしまったら生きていても仕方がない』という奴らをあざ笑うかのように、長生きしてほしい」という言葉を書いていましたが、「何をしたいかがわからないから、生きてても死んでても同じ。」と頭の中で考えてしまう若い子たちには、そのようにまずは自分が生き延びることにしがみついてほしいと思っています。

そのようにしがみつこうとするとき、自分の努力が正当には評価されないこと、たとえばバイトとしてどこかの飲食店で働けば、その組織の問題点に直面せざるを得ないこと、低賃金の人にとってこれだけ社会保険料負担が大きく福祉が弱い高負担低福祉社会が果たして真っ当なのかどうかに疑問を持つこと、など、様々な社会問題が自分のこととして感じられるようになります。

守られていて楽しいこととちょっとの勉強さえしていればよかった子供時代と比べ、大人になれば何とか生き延びようとするだけでも様々な障害や問題に直面せざるを得ません。苦しいか苦しくないかで言えば、苦しいことが多いでしょう。しかし、その苦しさは生(なま)の現実に触れているという実感とともに、人間の生(せい)を妨げる様々な問題に直結するものです。知性があるからそういった諸問題に気づく、というのは僕はむしろ逆だと思っていて、社会に出てそのような諸問題に直面してそこで初めて知性は磨かれうるものだと思っています。それなくして、知性だけを社会の諸問題を解決するために鍛えることができるのかについては、究極的には極めて怪しいと僕は思っていますし、そのような、自身が生きる中で直面してこなかった問題について考える「知性的作業」というのは全て、その主体がどんなに優秀な頭脳を持っていたとしても、妄想の域からあまり抜け出せていないと思っています(こう言うと、想像力や知性が体験を超え得ない、というのは想像力や知性の敗北である、ということにもなってしまいます。しかし、人間は鈍感です。虐げられているものの側に立つ人間が、自分が虐げているものの痛みを無視する、というのは最近でも著名な写真ジャーナリストである広河隆一さんによる性暴力被害でも明らかになったわけですが、自身が踏みにじられるという経験を経て問題に直面してきていないのであれば、「問題」を感じることは極めて難しいのが愚かな我々人間であると思います。だからこそ、我々は他者の異議申し立てに対して常に敏感でなければならず、それを封殺することはどのような大義があったとしても許されることではないのです)。

楽しくなんかなくとも、惨めであってもしがみつくことが大切です。そこから必ず何をすべきか、が出てきます。
それをせずに「何もしたくないから生きてても死んでても同じ」というような薄っぺらな、自分の大したことのない脳みその一部で考えたような結論でお茶を濁してはしがみつこうという努力をしない自分を正当化するだけの姿勢を、
許さないように話していきたいと思っています。

それとともに、こうなってくると生きていても幸福感は味わえないかもしれません。しかし、それはオスカー・ワイルドの「幸福な王子(The happy prince)」の`happy`と同じ意味において、自身が幸福感を味わえないしんどい人生を送ったとしても、それを「幸福」と定義することになるのでは、と思っています。(うーん。こんなこと話して、`The happy prince`とか読ませたらますます引かれそうです。。)
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