
今日で3月入試の受験生も終わり、あとは国立後期だけです。塾で国立後期を受ける子は面接だけのため、今年度の受験生はもう勉強して試験を受ける、ということはほぼありません。ここからの期間に、新高3、あるいは新浪人生を少しでも受験生モードに変えていけるように、厳しく注意していかなければなりません。
よく「3月中は遊んで、4月から頑張ります!」という新浪人生がいるのですが、これに関しては絶対におすすめしません。人間というのは習慣を変えることに大きなエネルギーを必要とする生き物なので(動摩擦係数は静止摩擦係数より必ず小さいのです!)、3月をダラダラ過ごして4月から真剣に頑張る、ということはセルフコントロールがしっかりとよほどできる受験生でなければ難しいと思います(そしてそんな受験生を僕はあまり見たことがありません。「努力を惜しまない」と他の受験生から見られている受験生でも、自分の目線ではダラダラ過ごしてしまっていることが多いです。。)。毎年、このように目の前の時間を遊ぶことを正当化しては3月を棒に振るだけではなく、4月、5月、となかなか勉強のペースが上がらないまで終わり、5月くらいの模試で全然点数が取れていなくてようやく焦り、真剣に勉強を始める、という受験生が多いのはあまりにも愚かしいなあと思い、全力で止めているのですが、なかなか聞いてもらえません。
このように聞いてもらえないのも当たり前で、新浪人生としては「どうせお前ら教える人間なんて『受験は本当に時間がない!だから今からサボっている暇はない!』とか言うんだろ!」と聞き流されてしまっている部分があるとも思います。
宮沢賢治が『サキノハカといふ黒い花といっしょに』で書いているように、「じぶんだけで面白いことをしつくして人生が砂っ原だなんていふにせ(偽)教師」としてお前ら教師に俺たち受験生の気持ちなんかわからない!と思われてしまっているのだと思います。
人生は長く、辛いです。しかし、その長くて辛い人生に耐え抜く準備をさせようとその厳しさばかりを言い募れば、「じゃあ、そんなことを言うお前は、何でそんなしんどい人生なのに生き永らえることができているんだ?」という反問が生徒から教師に向けられます。一方でそのように何らかの楽しみを見つけては生き永らえている自分の緩さを肯定しては、「人生は楽しいぞ−!」「努力なんかしなくても何とかやっていけるし!」と言い募っても、その言い募りもまた、生徒たちが現実に直面することでボロが出て、彼らを苦しめることになってしまいます。どちらにせよ、教育というのは難しいものです。
ただ、どちらでも難しいからこそ、僕自身は宮沢賢治にそのように批判されようとも、辛さ、しんどさの方をしっかりと伝えていかなければと思っています。もちろん、伝え方については言いっ放しで満足していてはダメで、あれこれ工夫はしていかねばなりませんが、「じぶんだけで面白いことをしつくして人生が砂っ原だなんていふにせ教師」であることを恐れれば、人生の厳しさを伝えられる教師など存在しないでしょう。教師が人格者である、聖職であるなど、嘘もいいところ、僕を含めて偽物だらけです。ただ、自身が偽物であるという自覚を持った上で、偽物には偽物なりにやらねばならないことがある、とは思っています。
ということで、新浪人生も3月は勉強すべきです!必ずその努力をしなかったことを受験直前に後悔します。
入試直前に、「あと何点」の重さを思い知ることになります。
逃げようと思って逃げられるのなら、逃げればいい。しかし、どんなに友達と楽しい時間を過ごそうとも、
来年の受験で合格するためには必死に勉強しても勉強時間がたりるかどうかはわからない、ということはどの受験生にとっても言えることです。あたかも理解のある大人であるかのように、「3月は遊んで4月から頑張ったら?」とか嚮心塾では言いません。むしろ、「3月遊ぶやつは受験に落ちる!」と言い続けて、嫌われ続けていくスタイルを貫きたいと
思っています。
(僕が若い頃は宮沢賢治のこの「サキノハカ」を拠り所にして生きてきたところはあります。それは不遜にも自分は「選ばれている」と思っていたからです。ただ、大人になって思うのは自分が天才でも本物でも選ばれた人間でもない、とわかってからが勝負であり、そこからどうやって自分の人生を刻みだすことができるか、というところだけが大切である、ということです。どのような人間も、自分が天才ではなく本物でもない、と気づいてからの人生のほうが長いわけです。自分が凡才であり偽物であることは、自分のすることが全て無意味であることにもならないし、自分がしなければならないことを免れ得るわけではなおさらありません。自分が本物か偽物かは、つまるところどうでもいいことです。)
よく「3月中は遊んで、4月から頑張ります!」という新浪人生がいるのですが、これに関しては絶対におすすめしません。人間というのは習慣を変えることに大きなエネルギーを必要とする生き物なので(動摩擦係数は静止摩擦係数より必ず小さいのです!)、3月をダラダラ過ごして4月から真剣に頑張る、ということはセルフコントロールがしっかりとよほどできる受験生でなければ難しいと思います(そしてそんな受験生を僕はあまり見たことがありません。「努力を惜しまない」と他の受験生から見られている受験生でも、自分の目線ではダラダラ過ごしてしまっていることが多いです。。)。毎年、このように目の前の時間を遊ぶことを正当化しては3月を棒に振るだけではなく、4月、5月、となかなか勉強のペースが上がらないまで終わり、5月くらいの模試で全然点数が取れていなくてようやく焦り、真剣に勉強を始める、という受験生が多いのはあまりにも愚かしいなあと思い、全力で止めているのですが、なかなか聞いてもらえません。
このように聞いてもらえないのも当たり前で、新浪人生としては「どうせお前ら教える人間なんて『受験は本当に時間がない!だから今からサボっている暇はない!』とか言うんだろ!」と聞き流されてしまっている部分があるとも思います。
宮沢賢治が『サキノハカといふ黒い花といっしょに』で書いているように、「じぶんだけで面白いことをしつくして人生が砂っ原だなんていふにせ(偽)教師」としてお前ら教師に俺たち受験生の気持ちなんかわからない!と思われてしまっているのだと思います。
人生は長く、辛いです。しかし、その長くて辛い人生に耐え抜く準備をさせようとその厳しさばかりを言い募れば、「じゃあ、そんなことを言うお前は、何でそんなしんどい人生なのに生き永らえることができているんだ?」という反問が生徒から教師に向けられます。一方でそのように何らかの楽しみを見つけては生き永らえている自分の緩さを肯定しては、「人生は楽しいぞ−!」「努力なんかしなくても何とかやっていけるし!」と言い募っても、その言い募りもまた、生徒たちが現実に直面することでボロが出て、彼らを苦しめることになってしまいます。どちらにせよ、教育というのは難しいものです。
ただ、どちらでも難しいからこそ、僕自身は宮沢賢治にそのように批判されようとも、辛さ、しんどさの方をしっかりと伝えていかなければと思っています。もちろん、伝え方については言いっ放しで満足していてはダメで、あれこれ工夫はしていかねばなりませんが、「じぶんだけで面白いことをしつくして人生が砂っ原だなんていふにせ教師」であることを恐れれば、人生の厳しさを伝えられる教師など存在しないでしょう。教師が人格者である、聖職であるなど、嘘もいいところ、僕を含めて偽物だらけです。ただ、自身が偽物であるという自覚を持った上で、偽物には偽物なりにやらねばならないことがある、とは思っています。
ということで、新浪人生も3月は勉強すべきです!必ずその努力をしなかったことを受験直前に後悔します。
入試直前に、「あと何点」の重さを思い知ることになります。
逃げようと思って逃げられるのなら、逃げればいい。しかし、どんなに友達と楽しい時間を過ごそうとも、
来年の受験で合格するためには必死に勉強しても勉強時間がたりるかどうかはわからない、ということはどの受験生にとっても言えることです。あたかも理解のある大人であるかのように、「3月は遊んで4月から頑張ったら?」とか嚮心塾では言いません。むしろ、「3月遊ぶやつは受験に落ちる!」と言い続けて、嫌われ続けていくスタイルを貫きたいと
思っています。
(僕が若い頃は宮沢賢治のこの「サキノハカ」を拠り所にして生きてきたところはあります。それは不遜にも自分は「選ばれている」と思っていたからです。ただ、大人になって思うのは自分が天才でも本物でも選ばれた人間でもない、とわかってからが勝負であり、そこからどうやって自分の人生を刻みだすことができるか、というところだけが大切である、ということです。どのような人間も、自分が天才ではなく本物でもない、と気づいてからの人生のほうが長いわけです。自分が凡才であり偽物であることは、自分のすることが全て無意味であることにもならないし、自分がしなければならないことを免れ得るわけではなおさらありません。自分が本物か偽物かは、つまるところどうでもいいことです。)
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