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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

名選手、名監督にあらず?

嚮心塾は相も変わらず零細で、毎年潰れないようにひいひい言いながらやっています。
こんな変な塾を紹介してくださる塾生・卒塾生のお父様・お母様方のお陰もあって何とか潰れないように今のところは続けられていますが(まあ、来年はわかりません!)、一校舎だけですし、多校舎展開の予定も永遠にありません。

では、多校舎展開したいか、と聞かれれば、そこに関しては仮に可能だったとしても、するつもりはありません。
その理由の一つには僕の関心が「そこそこのクオリティのものを、安く多くの人に提供したい!」よりは、「どこまでクオリティを上げることができるのか」の方にどうしても向きがちであることがあります。だからこそ、「会社を大きくしたい」とか「年商を伸ばしたい」という動機にいまいち共感しかねるところはあります(もちろんこれはスケールメリットによってより安く提供できるようになる、という業種ではないからこそ、このような動機が働きにくいというところはあると思います)。

そしてそれ以上に、他校舎展開をするとなると、結局社員教育をしなければならないところが問題なのかなあと思っています。経営者・管理者になってしまって、教育という行為のプレイヤーではなくなってしまうからです。
しかし、ここにももうちょっと説明が必要です。僕はそれが苦手なのとは、ちょっと違うからです。

昔から「名選手、名監督にあらず。」とか言われるわけですが、これは様々なケースがあるので何とも言えないところです。たとえば元中日ドラゴンズの落合元監督は、まさに名選手であり名監督、それも日本のプロ野球の歴史を代表するような名監督中の名監督であると思っています(それは残した結果が凄まじいだけではなく、彼自身がはしばしに喋る言葉から、常人とは違う彼の透徹した哲学が伺えることからもわかります。)。一方で体育教師や通訳から始まって世界を代表するような名監督になったサッカーのジョゼ・モウリーニョ監督のような例もあります。名選手以外からも名選手からも名監督は生まれうる、というのが事実であるのでしょう。

翻って自身はどうか、と考えたとき、恐らく僕は経営者に向いている、と思っています。
経営だけのことを考えれば、大切なのは自身の感情を排除することです。「一人の人間の死は悲劇だが、百万人の死は統計である。」というスターリンの言葉を地で行くことが経営です(これは経営者が皆非道だ!と言っているのではなく、
経営の本質とは究極的にはそういうことだ、という意味です。一人の中にある様々な内実を捨象して、「1」と見ることができなければ経営はできません。)もちろん、これはこんなに簡単に言いきれるものではなく、たとえば落合元監督も
ケガで3年間苦しんだ川崎投手を開幕戦で投げさせる、という極めて「人情的な」采配をしたこともあります。
しかし、そのように人情的な采配をするときにも、その采配の効果を考えてしまうのが経営/監督というものの
業であるのです。人間の知性とは対象から距離を取らなければ働かないがゆえに、極めて冷酷です。

そして、基本的に僕は血も涙もない人間なので、そのようなことがかなり得意であるのですね。。
中高や大学時代を通じて、あるいはその後も、世間的にはいわゆる「優秀な」人たちとの付き合いは多かった方だとは思うのですが、その血も涙もない理性的な判断、ということに関してはその中でもかなり得意な部類に入るなあと
思っています。まあ、人間としての優しさが圧倒的に足りないのです。
だからこそ、そのような僕が経営をすれば、どのようにやったとしてもやはり、人が数字に見えてしまうと
思います。

書いてみた結論としては昨日の結論と同じようになってしまったのですが、僕が教育者としてプレイヤーであり続けたい、というのは、人を切り捨てたくないからです。そして受験においてどのように受験勉強をするか、どこは切り捨ててどこは残すか、試験中はどこを切り捨ててどこを残すかなどの切り捨てる選択においては、
僕のそのような「人でなし」さ、感情に左右されずにそのときどきでベストの判断をする能力は、誰をも傷つけること無く、ただただ受験生を鍛えることにつながります。その意味では、教育者としてプレイヤーで有り続けることくらいにしか、この呪われた能力は活かせないのかな、と思っています。

という理由で、経営者は諦めました。
毎日塾をサボってしまう受験生にも、サボらずに勉強したいと思えるような環境づくりとともに「今日こそサボらないように!」と毎日電話をかけ続けたいと思います。(まあ、言わないでも来てもらえるのが一番嬉しいのですが!)
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