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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

peer review 社会について。

人間というのはどうしても心が弱いもので、近くの人に対しては、つい目をつぶりたくなります。近くの人、というのは自分の家族、親しい人、仕事でお世話になっている人、その他様々ですが、そのような人の不正に対してはどうしてもそれが自分にとってより遠くの人にとって害悪であったとしても、なかなか糾弾できるものではありません。それは即ち、自分にとって今味方してくれている人を敵に回すことになれば、自分が受ける不利益があまりにも大きくなってしまうからです。

だからこそ、そのような逡巡を乗り越えて「ダメなものはダメだ。」「違うものは違う。」と言える人、というのは
本当に尊敬できる人物であると思います。そのような人たちこそ、お互いの立場に分かれて議論をする際にも、
立場の違いを乗り越えて、何が正しいかを我々が考えることのヒントを与えてくれると思います。

最近、そのような研究者の方をまた一人見つけて、前々から知ってtwitterでフォローもしていたものの、改めてすごいなあと感心させられています。

「何が正しいか」を人間関係よりも優先しようとするこのようなしんどい努力の全てに、僕は敬意を払います。
「研究者は真理を探求するもの」と我々はつい思いがちですが、研究者にも自身の「真理探求活動」を保証してくれる制度してのアカデミアとそこでの仲間意識というものに対してはできるだけ批判をしないようにしたい、という動機が常に働かざるを得ません。これも当たり前で、彼らのやっていることは(専門性が高く、門外漢には理解がしにくい)研究者同士のcommunityでのみ評価が可能であるからこそ、(論文がpeer reviewを受けるように)彼ら自身もpeer review(仲間からの評価)が重要であるわけで、そのためには門外漢に同意するよりは、研究者仲間を互いに守り合っておく方が無難だとつい思ってしまうという誘惑は常に強いのではないでしょうか。もちろん、先に挙げた方のように、その誘惑に抗して「違うものは違う!」という姿勢をとられる研究者の方もいることは本当に素晴らしいと思いますが、その誘惑は常に強く働いていると思います。

そして、もちろんこのような事態は現在の日本ではどこにでも見られるようです。peer(仲間)からの評価さえ高ければ非科学的でトンデモな主張を信じる知的レベルの人でも、国会議員になれる日本社会ですから。

peer review(仲間からの評価) を公正な制度でなくしていくためには、peer を抱き込んでいけばよいことになります。もちろん、本来の語源である論文の査読に関してはそういうことをさせないためにこそ、匿名の査読者を用意しなければならないわけですが、まあそれにもあまりにも細分化した学問の世界において、分野が違えばそもそも評価ができない、という限界があるためにpeer reviewを有意義な論文であるかのチェックにしようとするか、そうではなくpeerを抱き込んで自分の立場の安定を図るだけの共犯関係におとしめてしまうかは、結局真理に対しての論文筆者本人の襟の正し具合に左右されてしまう、という部分が残らざるをえないのかもしれません。

さらに、です。どこまでがpeer であるかを狭くとっていけば、このような真実を歪めて互いにかばい合う、という自分たちがやっている不正が不正であることにすら、気づけなくなっていくわけです。医学部不正入試問題での順天堂大学の「女子はコミュニケーション能力が高いから、面接点を下げた!」のように、ですね。あれを「科学的根拠がある」と大学のホームページで言い張り続けているのも、医学研究者というpeerの中では「アホなこと書いてますが、素人向きにはこういうこと言っとかないと仕方ないんだよ。素人なら『科学的根拠』って言ったら黙るでしょ。。」と苦笑しあっているのかもしれません。しかし、それに対する批判が驚くほど同業者からは出てきません。
あれほどひどいものでないとしても、非専門家を排除し、彼らのliteracyの低さを嘲笑することに後ろめたさを感じなくなった専門家は全て似たような轍を踏んでいる恐れがある、と言えるでしょう。

社会学が、まさに(国家や家庭といったわかりやすい集団ではなく)目には見えない人と人とのつながり、同じ空の下の人同士のつながりとしての「社会」を発見するものから始まったのだとすれば、peer を丸め込み、抱き込み、その中での互いの不正に互いに目をつぶる姿勢とは、「社会」を抹殺するものです。そのような姿勢を皆がとる社会を「peer review 社会」と呼ぶのであれば、それはまさに「社会」という概念が絶滅された後に樹立されるものとなります。

そして、その社会学によって発見された「社会」のように、互いにpeer ではない人々がどのように共に生きるかを模索し合うときにこそ、何が正しいのか、という追求こそが重要になってくるわけです。逆に何が正しいのか、何が真理であるのかを求めなくなった社会というのは、閉じたpeer 同士の共犯関係によって全てが決められていく社会です。去年の森友問題や加計問題とかを見れば、この国がもはやそうなっていることはよくわかるとは思います。しかし、それは何も長期政権だけが悪いわけではありません。政治的なprotestや投票行動は取るべきだとして、それとは別に私達自身のpeer review しか私達が気にしない、という内向きな姿勢の結末が、現在の状況である、という残酷な事実にもまた、しっかりと目を向けて徹底的に反省すべきであると僕は思っています。

だからこそ、仲間うちでの評価を超えて、正しいものが何かを探そうとする方たちを僕は心から尊敬しますし、自身もその姿勢を出来る限り貫けるように、必死に努力していきたいと思っています。
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