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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

冷笑主義について。

冷笑主義というのは、自分が既にわかっていることを誰かが言ったとき、それを鼻で笑う態度のことです。「そんな初歩的なことを今更言ってるの?」「そんなことみんなわかった上で議論してるんだよ。」などと笑っておけば、自分が相手に対して優位に立つことができます。

しかし、限られたメンバーの中でそれをするのならともかく(それをすればメンバー内で確実に嫌われるだけなので、冷笑主義の話者に何のメリットもありませんが)、大勢の中で話しているはずのネットではなぜか「どちらがより相手の言うことを冷笑できるか」「どちらが相手の言うことを一顧だにしないか。」勝負!というところがあるようです。ここでも理性的な態度としては、そのように冷笑しては「けっ。素人め!」とやるのではなく、そういった参加者を排除しないようにしていくほうが議論としては盛り上がり、部外者の理解も深まると思うのですが、「自分のほうがより知的であること」を演出するためには、相手の主張がいかに的はずれであるのかを鼻で笑うほうが、そのような的外れな主張に対して真剣に説明して包摂していこうとするよりも、有効であるという判断からなのか、専門家が門外漢をはねつけることがとても多いように思います。

このようにして集合知を実現するはずだったインターネットが、実は各専門知を持つ専門家が非専門者に対してマウントをとるための道具にしかなりえていない、というディストピアが現代であるのでしょう。そこでは素朴な疑問を発することすら許されなくなっていきます。そのようにして、言葉を狩り、素人の疑問を封殺することで、結局は専門家が覇権を握ることになります。(もちろん、ある分野で正しいことを発信している専門家が別の分野ではトンチンカンなことを言っているのがダダ漏れなのもインターネットの特徴ではあるので、それを笑うだけのリテラシーがある人々にとっては集合知に近づいていると言えるのかもしれません。)

私たちは、ある分野の専門家が別の分野にまで正しい判断ができているかどうかは極めて怪しいことを我々が肝に銘じること、だからこそ誰か、とても賢い人の言っていることを真似さえすれば自分が間違えないはずだ!と手を抜かないことが大切であると思います。

それとともに、冷笑することで非専門家の意見を退けようとする人間は、仮にその分野において専門家であったとしても、
あまり信用をしないほうがいいことも確かです。真理の探求とは極めて難しいものであることに畏れのない人間は、
容易に様々なことにおいて事実の重みを見くびっては誤った判断を下します。彼や彼女の専門においてすら、です。

冷笑主義は自分を賢く見せる極めて有効なツールでありながら、それを使うことで自分がこれ以上は一ミリも賢くならなってしまう禁断のツールでもあります。そこに手を染めている人間が果たして本当のことに対して虚心坦懐に探そうとし続けられるのか、と言えばそうではないでしょう。

これはまた属人的に言えることでもありません。途中まではそうではなかった人も、どこかでこの冷笑主義に魂を売り、
それ以上考えようとしなくなってしまうことも多々あります(逆はなかなか起きえません。)。そして、そのように彼または彼女が自身の知っていることの限界を疑うのを止めたとき、そのような主体は、仮に世界中の様々な学問やその他のものに通暁するとてつもない知性をもっていようとも、あくまで人類にとっては有害な存在になってしまうのだと思います。

翻って、自身が経験や知識を得ることが、僕自身が真理に漸近することの妨げになっていないか、わかったような態度をとっては根底から考えるべきことを既に結論が出たものとして冷笑していないかどうか、絶えず疑って行かねばならないと思っています。塾生たちに、そのような賢しげな冷笑主義を決して身につけないでもらうための、一つのもがき苦しみ続ける人間のテストケースとして、あらねばならないと僕は思っていますし、それができなくなるのであれば、それこそ塾などさっさと辞めなければ有害でしかないとも思っています。
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