
トップスイマー中のトップスイマーである競泳の池江璃花子さんの白血病の告白、それに対しての桜田五輪相の「がっかり」発言は大きな話題となりました。ただ僕はこれに関してはあまり桜田五輪相を責めるのはどうかと思っています。たとえばテニスファンは錦織選手が四大大会とかであっさり負ければ「がっかり」するでしょうし、野球ファンは大谷選手が怪我をすれば「がっかり」するでしょう。もちろん、この「がっかり」という言葉は白血病という命にかかわる病気とこれから闘おうという一人の若い人に対して使ってはならない言葉だとは思いますが、桜田五輪相がポロッとこぼしたその「がっかり」は、スポーツ選手やスターなど他人の頑張りに自分の憂さ晴らしを託しては、日々つまらない現実には真剣に取り組み、何とかしようとはしていない我々の愚かさの現れでもあると思っています。あの「がっかり」という言葉を、自分に疚しいところがなく心から批判できる人間が、果たしてこの社会にどれほどいるのでしょうか。もし、それが一定数いるのであれば、こんなにスポーツニュースや芸能ニュースばかりのテレビ番組構成にはならないのでは、とも思います。
さて、自分自身の愚かさについても話さなければなりません。
僕が大学生のときに初めて付き合った彼女が、「南米に一人で1ヶ月短期留学に行きたい!」と言ったとき、僕は「これは別れることになるなあ。」と直観的にわかったのですが、まあでも行きたいのなら仕方がない、ということで、その準備を手伝いました。一番の難関は彼女のご両親が短期留学に南米に行くことを女の子一人で行くには危険だから、ということで猛反対をされていたことで、話が立ち消えになりそうになっていたので、僕は彼女の自宅まで行ってご両親と2時間話し合い、説得しました。「若い人が危険を冒してやりたい!ということを止めるべきではない。親子は日本と南米に離れていても、親子だが、彼氏など向こうでかっこいい男を見つければ、途端に彼氏ではなくなる。それでも僕は彼女のチャレンジを応援したい。お父さん、お母さんも許してあげてもらえないでしょうか。」と丁寧に説得したかいもあり、最終的には「柳原さんがそこまでおっしゃるなら…(今考えると僕の立ち位置がかなりおかしい感じですが!)」と海外留学を許可してもらいました!
そして、彼女は1ヶ月南米に短期留学して予想通り向こうで好きな男ができ、見事に僕はフラれるわけです。このような経緯もあって、僕は相当がっかりしました。その言葉を明示的に彼女に言ったかどうかは覚えていないのですが、その雰囲気は伝わっていたと思います。
その後、2年ほど僕も人生に迷い(これは失恋が原因ではないのですが)、再び教育という道に自分の人生を費やしていこう!と決意を固めたときに、真っ先に思いついたのが、元彼女と連絡をとろう、ということでした(これはヨリを戻そうとか、とはちょっと違っていて、あの時諦めてしまったコミュニケーションの先が今はできるかなと思ったからです)。電話で話してみて、もはや通じ合える部分がほとんどないことがよくわかるような会話しかできなかった後に、最後に一度会って話し合えないか、という話をしたところ、元彼女に「またがっかりさせちゃうから…。」と言われました。そのときに、僕は自分でも驚くくらいの勢いで「僕はもうがっかりしない。それは君に対してだけでなく、誰に対しても、だ。」と瞬間的に断言したことを覚えています。もちろん、その言葉は虚しくしか響かず、その後は何と言って電話を切ったのかすら覚えていませんし、二度と連絡も取りませんでした。
そこから20年近くが経った今も、僕が人生を通じて何をしたいのかと言えば、あのとき言った「僕はもうがっかりしない!」をどこまで他者に対してできるのか、ということです。あのときよりも比べ物にならないくらいはるかに努力し、自分を律し、長い時間を費やし、それを全て受験生に注ぎ込んでも尚、うまくいかないときはうまくいきません。その結果に受験生本人も親御さんも「がっかり」するでしょう。しかし、僕は決してがっかりしません。がっかりする暇があれば、次に彼ら彼女らに対してできることを手を打ちたいし、そのために自分に足りていない努力を少しでもやっていきたいと思っています。
がっかりができるのは、その人の結果に対して自分が何もするつもりのないのに、その結果の恩恵だけは何とか得られないかと期待している人間だけです。そのような無責任な態度を僕はどこまでも自分には許したくないし、どこまで徹底的に相手のためにやってもなお、がっかりしないでいられるか、にこそ僕のつまらない人生の価値がかかっていると思っています。これから先、受験生のどのような結果が出ようとも、決して僕はがっかりしません。そこにほとんどすべての私生活を犠牲にして朝から晩まで時間と努力と労力を注ぎ込んでいるわけですが。そのように彼ら彼女らが結果を出そうと必死に努力したことは、とてつもなく価値のあるものであることに間違いないからです。だからこそ、受験生本人だけは結果にがっかりしないで、胸を張ってほしいと思います。そして、そのことこそが、塾を通して僕が塾生に伝えたいことでもあります。
桜田五輪相の「がっかり」を彼だけを批判するのではなく、オリンピックそのものに寄せる期待やスポーツイベント、芸能イベント、それら全てに寄せる期待を持ち続けている大衆としての我々、もはやそのために自分が何も努力をしていないのにその恩恵にだけは預かり、喜ぶことで、日々の現実を乗り切ろうとする我々のその卑怯さへの批判として受け止められるような社会へと少しでも近づけると良いな、と思っています。そして他者の結果に対して「がっかり」することがどれだけ相手の気持ちを深く傷つけるのかに対しても、もっと敏感にならなければならないと思います。その上で、諦めずに少しでも良い結果を残せるように、国公立の追い込みの最後まで、徹底的にあがき続けたいと思います。
さて、自分自身の愚かさについても話さなければなりません。
僕が大学生のときに初めて付き合った彼女が、「南米に一人で1ヶ月短期留学に行きたい!」と言ったとき、僕は「これは別れることになるなあ。」と直観的にわかったのですが、まあでも行きたいのなら仕方がない、ということで、その準備を手伝いました。一番の難関は彼女のご両親が短期留学に南米に行くことを女の子一人で行くには危険だから、ということで猛反対をされていたことで、話が立ち消えになりそうになっていたので、僕は彼女の自宅まで行ってご両親と2時間話し合い、説得しました。「若い人が危険を冒してやりたい!ということを止めるべきではない。親子は日本と南米に離れていても、親子だが、彼氏など向こうでかっこいい男を見つければ、途端に彼氏ではなくなる。それでも僕は彼女のチャレンジを応援したい。お父さん、お母さんも許してあげてもらえないでしょうか。」と丁寧に説得したかいもあり、最終的には「柳原さんがそこまでおっしゃるなら…(今考えると僕の立ち位置がかなりおかしい感じですが!)」と海外留学を許可してもらいました!
そして、彼女は1ヶ月南米に短期留学して予想通り向こうで好きな男ができ、見事に僕はフラれるわけです。このような経緯もあって、僕は相当がっかりしました。その言葉を明示的に彼女に言ったかどうかは覚えていないのですが、その雰囲気は伝わっていたと思います。
その後、2年ほど僕も人生に迷い(これは失恋が原因ではないのですが)、再び教育という道に自分の人生を費やしていこう!と決意を固めたときに、真っ先に思いついたのが、元彼女と連絡をとろう、ということでした(これはヨリを戻そうとか、とはちょっと違っていて、あの時諦めてしまったコミュニケーションの先が今はできるかなと思ったからです)。電話で話してみて、もはや通じ合える部分がほとんどないことがよくわかるような会話しかできなかった後に、最後に一度会って話し合えないか、という話をしたところ、元彼女に「またがっかりさせちゃうから…。」と言われました。そのときに、僕は自分でも驚くくらいの勢いで「僕はもうがっかりしない。それは君に対してだけでなく、誰に対しても、だ。」と瞬間的に断言したことを覚えています。もちろん、その言葉は虚しくしか響かず、その後は何と言って電話を切ったのかすら覚えていませんし、二度と連絡も取りませんでした。
そこから20年近くが経った今も、僕が人生を通じて何をしたいのかと言えば、あのとき言った「僕はもうがっかりしない!」をどこまで他者に対してできるのか、ということです。あのときよりも比べ物にならないくらいはるかに努力し、自分を律し、長い時間を費やし、それを全て受験生に注ぎ込んでも尚、うまくいかないときはうまくいきません。その結果に受験生本人も親御さんも「がっかり」するでしょう。しかし、僕は決してがっかりしません。がっかりする暇があれば、次に彼ら彼女らに対してできることを手を打ちたいし、そのために自分に足りていない努力を少しでもやっていきたいと思っています。
がっかりができるのは、その人の結果に対して自分が何もするつもりのないのに、その結果の恩恵だけは何とか得られないかと期待している人間だけです。そのような無責任な態度を僕はどこまでも自分には許したくないし、どこまで徹底的に相手のためにやってもなお、がっかりしないでいられるか、にこそ僕のつまらない人生の価値がかかっていると思っています。これから先、受験生のどのような結果が出ようとも、決して僕はがっかりしません。そこにほとんどすべての私生活を犠牲にして朝から晩まで時間と努力と労力を注ぎ込んでいるわけですが。そのように彼ら彼女らが結果を出そうと必死に努力したことは、とてつもなく価値のあるものであることに間違いないからです。だからこそ、受験生本人だけは結果にがっかりしないで、胸を張ってほしいと思います。そして、そのことこそが、塾を通して僕が塾生に伝えたいことでもあります。
桜田五輪相の「がっかり」を彼だけを批判するのではなく、オリンピックそのものに寄せる期待やスポーツイベント、芸能イベント、それら全てに寄せる期待を持ち続けている大衆としての我々、もはやそのために自分が何も努力をしていないのにその恩恵にだけは預かり、喜ぶことで、日々の現実を乗り切ろうとする我々のその卑怯さへの批判として受け止められるような社会へと少しでも近づけると良いな、と思っています。そして他者の結果に対して「がっかり」することがどれだけ相手の気持ちを深く傷つけるのかに対しても、もっと敏感にならなければならないと思います。その上で、諦めずに少しでも良い結果を残せるように、国公立の追い込みの最後まで、徹底的にあがき続けたいと思います。
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