
まだ受験が終わっていない時期にこのようなことを書くのは誤解を招くかもしれませんが、(本心を伝えたいので率直に書きますが)僕自身は自分の受験で苦しんだことはありません。もちろん人並みの努力くらいはしましたが、結果が出なかったこともありません。しかし、それを自分の努力のおかげだと思っては全能感に浸ることもできず、目の前の教え子に対しての無力感に苛まされ、何とか目の前の教え子に合格してもらいたい!と思っているうちにここまで教える仕事を続けることになりました。「自分だけができていても、全く無意味だ!」という事実に直面して、強い無力感を感じたからこそ、それに必死に取り組み続け、今でも相も変わらず必死に取り組み続けている、というところでしょうか。
教え続けて20年以上は経つわけで、あの頃の僕よりははるかに様々なやり方で鍛えることができるようにはなっているとは思っているのですが、それでも悔いの残る不合格を毎年全て防げるわけではありません。それどころか、毎年毎年
「奇跡的な合格!」の裏側で、どうしても悔いの残る不合格を(こちらがそれを防ごうとどんなにあの手この手を尽くしても)完璧には避けられずに悔しい思いをしています。それが、僕が「偏差値○○アップ!」とか「奇跡の合格!」という宣伝文句を現実にそれが起きていてもなお、使う気には到底なれない理由でもあります(まあそのせいで貧乏暮らしなわけですが)。
もちろん、「患者をどれだけ殺したかが良い医師の条件」のように、「生徒をどれだけ落としたかが良い教師の条件」と逆説的に言うことはできるのでしょう。また、教育は、医療とは比べ物にならないほど受け手の裁量が大きいからこそ、このように「生徒をどれだけ落としたか。」というのは反省の仕方としてもある意味尊大であり、自分がその受験生の結果を左右できるというおこがましい思い上がりの別の表現であるのかもしれません。
しかし、そのように感じざるをえないとともに、受験生に必死に関わり続ければ続けるほどに、僕は毎年受験生を教えていて思い知らされることが一つあります。
それは、自分にとって苦手な勉強に必死に努力し、うまくいかないことに傷つき、それでも努力の手を緩めない一人一人の受験生の姿こそが本当に気高く、それに対して本当に尊敬の念を覚えざるをえない、ということです。それに比べれば自分の中高生の頃など、たまたま自分の関心のあることが学校教育や受験勉強、さらには大学での学問に適合的であったから得意なことができていただけなのに(入試の教科がたとえば裁縫と歌であれば、僕など落第です。)、それがあたかも自分が何にでも能力があるかのように誤った類推をしては、自分の苦手なことには大して取り組みもせず、既存の社会の評価を自己の優良誤認に使うような、卑小な人間であったことをも、思い知らされます。もちろん、僕は自身に何らかの価値があるかのようなバカな発言や振る舞いは(これも自身の卑怯さから)しませんでした。しかし、絶望に向き合いながらも懸命に苦手なことに取り組む眼の前の受験生たちに比べれば、得意なことをしただけなのにそこに社会的評価がくっついてくることに甘えているだけの、ただの卑怯な人間でした。
翻って、塾の受験生たちは、必死にもがき、苦しみ、絶望に直面し、それでも何とかその中で頑張ろうとしています。その姿にこそ、本当に人間としての尊敬の念を毎年毎年心から覚えています。だからこそ、こちらも「朝から晩まで教えている」とか「毎日英・国と添削している」といった形式的な努力を努力と見なして安住することなく、最後の一瞬まで何か検証しきれていないものがないかを徹底的に疑い抜いていきたいと思っています。
今年は自分の娘も高校受験でしたが、今日発表があり、第一志望の高校には合格できませんでした。
その不合格にもまた断腸の思いはあります。しかしそれ以上に、その不合格にもめげずに次の入試に向けて今もなお努力をしている娘の姿に、僕が受験生の塾生達に感じるのと同じ心からの尊敬の念を感じることができています。
自分の教え子だけでなく、自分の子に対してもまた、尊敬の念を持つことができるのは、本当に望外の喜びです。
自身の苦手なことに勇気を出して取り組み、それを乗り越えようと必死にもがく全ての受験生は、本当に美しい。
そのような受験生の力に少しでもなれるように、こちらも最後まで必死に努力してあがいていきたいと思います。
教え続けて20年以上は経つわけで、あの頃の僕よりははるかに様々なやり方で鍛えることができるようにはなっているとは思っているのですが、それでも悔いの残る不合格を毎年全て防げるわけではありません。それどころか、毎年毎年
「奇跡的な合格!」の裏側で、どうしても悔いの残る不合格を(こちらがそれを防ごうとどんなにあの手この手を尽くしても)完璧には避けられずに悔しい思いをしています。それが、僕が「偏差値○○アップ!」とか「奇跡の合格!」という宣伝文句を現実にそれが起きていてもなお、使う気には到底なれない理由でもあります(まあそのせいで貧乏暮らしなわけですが)。
もちろん、「患者をどれだけ殺したかが良い医師の条件」のように、「生徒をどれだけ落としたかが良い教師の条件」と逆説的に言うことはできるのでしょう。また、教育は、医療とは比べ物にならないほど受け手の裁量が大きいからこそ、このように「生徒をどれだけ落としたか。」というのは反省の仕方としてもある意味尊大であり、自分がその受験生の結果を左右できるというおこがましい思い上がりの別の表現であるのかもしれません。
しかし、そのように感じざるをえないとともに、受験生に必死に関わり続ければ続けるほどに、僕は毎年受験生を教えていて思い知らされることが一つあります。
それは、自分にとって苦手な勉強に必死に努力し、うまくいかないことに傷つき、それでも努力の手を緩めない一人一人の受験生の姿こそが本当に気高く、それに対して本当に尊敬の念を覚えざるをえない、ということです。それに比べれば自分の中高生の頃など、たまたま自分の関心のあることが学校教育や受験勉強、さらには大学での学問に適合的であったから得意なことができていただけなのに(入試の教科がたとえば裁縫と歌であれば、僕など落第です。)、それがあたかも自分が何にでも能力があるかのように誤った類推をしては、自分の苦手なことには大して取り組みもせず、既存の社会の評価を自己の優良誤認に使うような、卑小な人間であったことをも、思い知らされます。もちろん、僕は自身に何らかの価値があるかのようなバカな発言や振る舞いは(これも自身の卑怯さから)しませんでした。しかし、絶望に向き合いながらも懸命に苦手なことに取り組む眼の前の受験生たちに比べれば、得意なことをしただけなのにそこに社会的評価がくっついてくることに甘えているだけの、ただの卑怯な人間でした。
翻って、塾の受験生たちは、必死にもがき、苦しみ、絶望に直面し、それでも何とかその中で頑張ろうとしています。その姿にこそ、本当に人間としての尊敬の念を毎年毎年心から覚えています。だからこそ、こちらも「朝から晩まで教えている」とか「毎日英・国と添削している」といった形式的な努力を努力と見なして安住することなく、最後の一瞬まで何か検証しきれていないものがないかを徹底的に疑い抜いていきたいと思っています。
今年は自分の娘も高校受験でしたが、今日発表があり、第一志望の高校には合格できませんでした。
その不合格にもまた断腸の思いはあります。しかしそれ以上に、その不合格にもめげずに次の入試に向けて今もなお努力をしている娘の姿に、僕が受験生の塾生達に感じるのと同じ心からの尊敬の念を感じることができています。
自分の教え子だけでなく、自分の子に対してもまた、尊敬の念を持つことができるのは、本当に望外の喜びです。
自身の苦手なことに勇気を出して取り組み、それを乗り越えようと必死にもがく全ての受験生は、本当に美しい。
そのような受験生の力に少しでもなれるように、こちらも最後まで必死に努力してあがいていきたいと思います。
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