
毎朝娘の高校受験の付き添いで朝早く出るので、さすがに毎日朝8時前から夜9時半まで塾で教えていると疲れ果てます。
しかし、受験生も残り僅かな日々の中で、また不安な気持ちを乗り越えて必死に受かろうと努力しているので、それを見るとこちらも必死にやらねば、と奮い立たされる毎日です。
教育の効果というものは目に見えないものです。だからこそ、何かしらの形にならないと不安であり、そこでどうしても形に現れてほしい!という思いが強くなるあまり、「形に現れていない教育の効果など全て無駄だ!」という極端な態度が生まれてしまうようにも思います。「合格」という形で現れる前でも、「成績」という形で現れなければ、どのような努力もまたそこでついた力もなかったかのように思えてしまいます。しかし、まずいのはそのように「形」だけを求める態度は子どもたちの学習意欲を削いでしまうケースがほとんどであるという事実です。
もちろん、これには形にはなかなか現れにくいことをいいことに「今鋭意鍛えております!」といい顔だけをしながらも、全く預かっている生徒を鍛えるつもりのないような悪徳塾が多いからこそ、それに対して警戒しなければ!という姿勢をとられる親御さんが多いのでしょう。しかし、一方でまだ形にはなっていないものの、勉強への取り組み方や認識の仕方が変わりつつあり、「これからどんどん良くなる!」というところで結果が伴わないが故に塾を変えられる、ということは多々あります。こちらとしては悔しい限りですが、しかしそれもまた大したことではありません。彼ら彼女らが他の塾に行った後にその可能性を芽吹かせていけるのであれば、この社会全体には貢献できていることになります。
多くの人にとって「見えない」ものを見ようとすることはときに現実逃避になることもあるのでしょうが、現実を正しく理解し、対処していくためには必ず必要となる姿勢であると思います。そして、自分に他の人には見えていない何かが見えている、ということは、自分もまた他の人には見えているものが見えていないかもしれない、というところまでくれば、それはまた現実の多様性の前に頭を垂れることへの入り口であるとも言えるでしょう。
僕はまた、生徒たちにとって現実の多様性を認識させる契機となりうるような他者になることができているのでしょうか。
「もうこれ以上はいいから!もうちょっと普通でいて!」という出会い方をする生徒もいれば、「全然普通ですよ。」という出会い方をする生徒もいます。自身が教育に可能性を感じてきたのは前者のような出会い方が教育の場では起こりうる、という確信があったからなわけですが、どのような「見えない」ものも、見えるようにすることはできるわけで、そして、見えるようにできた後にはそこには大したものは残っていません。それが「見えない」ときに感じていた無限の可能性は、一つの不可能性へと分化するわけです。それは死骸、という言葉が言い過ぎであれば分化した後の体細胞、あるいはベルクソン風に辛辣に言えば「痕跡」であるのでしょう。
そしてだからこそ、見えるようにしていかねばならないのだと思っています。誰かに痕跡を残すために私たちは死ぬまで生きるわけではないにせよ、私達が最期の瞬間まで生きるのは他の誰かにとってではなくても、少なくとも自分自身にとってはそれが何らかの痕跡にはなりうる、と信じてであるからです。
まあ何が言いたいかというと、この前テレビでデミアン・チャゼルの『ラ・ラ・ランド』がやってて最後の方だけ見たわけですが、やっぱり最後のあのファンタジーシーンははいらないなあと、ついつい思ってしまいました、ということでした。あれさえなければ、二人が愛し合い、互いのお陰で生きることができ、そしてすれ違って生きていく、でもう本当に素晴らしい映画になったと僕は思います。なぜならそれこそが人生の正確な描写であると思うからです。まるで『ドクトル・ジバゴ』のように(まあ、『ラ・ラ・ランド』はそのすれ違った後の死まで描かないので、(ファンタジーシーンが無くても)さらに描写としては『ドクトル・ジバゴ』よりは甘いのですが。)。人と人との間の全てのドラマも関係性も、決して永遠のものではなく、どのように深く魂と魂が触れ合う瞬間があってもなお、それは関係性が永遠に続くことなど決して担保しません。しかし、それは心から愛さない理由にはならない。
そのことが人間の持つ最も尊い可能性の一つなのではないか、と思っています。だからこそ、『ラ・ラ・ランド』の終わり方がもう少しスッとすれ違った人生がもう二度と交わり得ないことをも二人ともに噛み締められることを(二人の脳内を描かずに)表情だけで映画で描いてくれたらなあ、と思いました。もちろん、これは僕の好みなので、恐らくそうしてしまうとあれほどの大ヒットにはならなかった気もします。
言ってみれば、『ラ・ラ・ランド』のラストが二人の脳内を描かないでも大ヒットできるような世の中に近づけられるように、見えないものを見る力を僕は一人一人の生徒たちに鍛えていってあげたいし、自分ももっと鍛えねばならないと思っています。
しかし、受験生も残り僅かな日々の中で、また不安な気持ちを乗り越えて必死に受かろうと努力しているので、それを見るとこちらも必死にやらねば、と奮い立たされる毎日です。
教育の効果というものは目に見えないものです。だからこそ、何かしらの形にならないと不安であり、そこでどうしても形に現れてほしい!という思いが強くなるあまり、「形に現れていない教育の効果など全て無駄だ!」という極端な態度が生まれてしまうようにも思います。「合格」という形で現れる前でも、「成績」という形で現れなければ、どのような努力もまたそこでついた力もなかったかのように思えてしまいます。しかし、まずいのはそのように「形」だけを求める態度は子どもたちの学習意欲を削いでしまうケースがほとんどであるという事実です。
もちろん、これには形にはなかなか現れにくいことをいいことに「今鋭意鍛えております!」といい顔だけをしながらも、全く預かっている生徒を鍛えるつもりのないような悪徳塾が多いからこそ、それに対して警戒しなければ!という姿勢をとられる親御さんが多いのでしょう。しかし、一方でまだ形にはなっていないものの、勉強への取り組み方や認識の仕方が変わりつつあり、「これからどんどん良くなる!」というところで結果が伴わないが故に塾を変えられる、ということは多々あります。こちらとしては悔しい限りですが、しかしそれもまた大したことではありません。彼ら彼女らが他の塾に行った後にその可能性を芽吹かせていけるのであれば、この社会全体には貢献できていることになります。
多くの人にとって「見えない」ものを見ようとすることはときに現実逃避になることもあるのでしょうが、現実を正しく理解し、対処していくためには必ず必要となる姿勢であると思います。そして、自分に他の人には見えていない何かが見えている、ということは、自分もまた他の人には見えているものが見えていないかもしれない、というところまでくれば、それはまた現実の多様性の前に頭を垂れることへの入り口であるとも言えるでしょう。
僕はまた、生徒たちにとって現実の多様性を認識させる契機となりうるような他者になることができているのでしょうか。
「もうこれ以上はいいから!もうちょっと普通でいて!」という出会い方をする生徒もいれば、「全然普通ですよ。」という出会い方をする生徒もいます。自身が教育に可能性を感じてきたのは前者のような出会い方が教育の場では起こりうる、という確信があったからなわけですが、どのような「見えない」ものも、見えるようにすることはできるわけで、そして、見えるようにできた後にはそこには大したものは残っていません。それが「見えない」ときに感じていた無限の可能性は、一つの不可能性へと分化するわけです。それは死骸、という言葉が言い過ぎであれば分化した後の体細胞、あるいはベルクソン風に辛辣に言えば「痕跡」であるのでしょう。
そしてだからこそ、見えるようにしていかねばならないのだと思っています。誰かに痕跡を残すために私たちは死ぬまで生きるわけではないにせよ、私達が最期の瞬間まで生きるのは他の誰かにとってではなくても、少なくとも自分自身にとってはそれが何らかの痕跡にはなりうる、と信じてであるからです。
まあ何が言いたいかというと、この前テレビでデミアン・チャゼルの『ラ・ラ・ランド』がやってて最後の方だけ見たわけですが、やっぱり最後のあのファンタジーシーンははいらないなあと、ついつい思ってしまいました、ということでした。あれさえなければ、二人が愛し合い、互いのお陰で生きることができ、そしてすれ違って生きていく、でもう本当に素晴らしい映画になったと僕は思います。なぜならそれこそが人生の正確な描写であると思うからです。まるで『ドクトル・ジバゴ』のように(まあ、『ラ・ラ・ランド』はそのすれ違った後の死まで描かないので、(ファンタジーシーンが無くても)さらに描写としては『ドクトル・ジバゴ』よりは甘いのですが。)。人と人との間の全てのドラマも関係性も、決して永遠のものではなく、どのように深く魂と魂が触れ合う瞬間があってもなお、それは関係性が永遠に続くことなど決して担保しません。しかし、それは心から愛さない理由にはならない。
そのことが人間の持つ最も尊い可能性の一つなのではないか、と思っています。だからこそ、『ラ・ラ・ランド』の終わり方がもう少しスッとすれ違った人生がもう二度と交わり得ないことをも二人ともに噛み締められることを(二人の脳内を描かずに)表情だけで映画で描いてくれたらなあ、と思いました。もちろん、これは僕の好みなので、恐らくそうしてしまうとあれほどの大ヒットにはならなかった気もします。
言ってみれば、『ラ・ラ・ランド』のラストが二人の脳内を描かないでも大ヒットできるような世の中に近づけられるように、見えないものを見る力を僕は一人一人の生徒たちに鍛えていってあげたいし、自分ももっと鍛えねばならないと思っています。



