
昔は僕が塾生に散々本を薦めたりしていたのですが、最近は薦めても読んでもらえないことが多いので、むしろマンガを薦めることが多いです(もちろん、本が読める子には本を薦めています!)。そのようなお薦めのマンガの中に、『らーめん発見伝』『らーめん才遊記』シリーズがあります。おいおい、またラーメンの話かよ、そんなのお前みたいなラーメンオタクデブ以外には面白くないだろ!とお思いの皆さんにも是非お薦めしたいのですが、このシリーズは本当に素晴らしく、ラーメンのことについて学びながらも「師弟とは」というテーマがしっかりとあって、深い感動を与えてくれます。
その中でも、芹沢達也という主人公のライバル(『才遊記』では準主人公)が本当に素晴らしい名言ばかりを出すのですが、その中に素人の状態からラーメン屋を開業しようとする登場人物が出て来るエピソードがあり、彼にラーメン屋のコンサルタントである芹沢がそれを止めずに無謀なままやらせようとして、それを彼の部下が「コンサルタント料をもらえるからって必ず失敗するとわかっている案件に手を貸すのは職業倫理的にどうなのか!」と詰め寄るのに対して、芹沢が答えた言葉が「我々が神ではなく、100%どうなるかがわからない以上、やるという人間にやるなと言ってはならない。」というものでした。傍から見て無謀なチャレンジであったとしても、それを本人がやると決断した以上は、それをどのように成功させるかどうしたら成功へと近づけられるかを考えるのがコンサルタントの仕事であり、まるで全知全能の神であるかのように「そんなの絶対失敗するからやめなさい」と言ってはならない、と部下に教える名場面がありました。
受験についてもこれは言えると思います。どんなにきついチャレンジであっても、それでも本人がやりたいのであれば、こちらではそれが成功するためにどうすべきかを考えるしかありません。それができるかできないかは、どんなにこちらが経験を積み、スキルや知識を蓄えたとしても、神でない限り断言できるわけがないからこそ、それを止めるわけにはいきません。またそれは、逆のことにもあてはまります。すなわち、どんなに現在の状況から一年後の合格が見えているような受験生であっても、100%受かるかはわかりません。それも神ならぬ我々には断言できることではありません。だからこそ、チャレンジを笑うことも、成功を保証することも、どちらも等しく人間の能力の限界に対して謙虚な姿勢のない、思い上がった態度だといえるのだと思います。
しかし、「チャレンジをしても失敗したら元も子もない」とチャレンジすることに否定的なのが日本人の国民性であるようにも思います。それだけでなく、自分がどこかでそのようなチャレンジを避けて生きていることへの負い目があるからこそ、チャレンジしては失敗した人を見るたびに、みんなでよってたかって叩いたり陰口を叩くという卑怯な反応が多いように思います。僕は大学受験至上主義者で、付属校から大学に上がるのはせっかく優秀な子たちを中高6年間かけてダメにしていくおぞましい制度だとしか思いませんが、チャレンジをすることを恐れる風潮はどんどん強くなり、有名校は低年齢から顧客を抱え込もうとするのが現在の社会の傾向です。
しかし、自身の努力によって突破しようとチャレンジする若い世代が減れば減るほどに、この社会の活力はどんどんやせ細っていき、やがて滅びます。仮に大学受験がなくなり、名門校はすべて私立の幼稚園からの持ち上がりでしか入れず、その中にいればどんなにサボっても上に上がれるようになるものの親の資力がなければそのようなコースは選べない、という社会に近づけば近づくほどに、社会の中での階層間移動が減ることによるものだけでなく、この社会は活力を失い、社会が一つの社会として存在する意義を失うのです。だからこそ、勇気を持ってチャレンジをし、そのために必死に努力する全ての姿は美しいだけでなく、とても大切な存在であるといえると思っています。
誰が笑おうとも僕だけは、一人一人のチャレンジを応援し、支え続けたいと思います(もちろん、それを現実化するだけの努力をせずに高望みをすることは、「形式的にはチャレンジをしている」という事実に甘えて実はチャレンジをしていないので、それではダメだと思いますが)。
その中でも、芹沢達也という主人公のライバル(『才遊記』では準主人公)が本当に素晴らしい名言ばかりを出すのですが、その中に素人の状態からラーメン屋を開業しようとする登場人物が出て来るエピソードがあり、彼にラーメン屋のコンサルタントである芹沢がそれを止めずに無謀なままやらせようとして、それを彼の部下が「コンサルタント料をもらえるからって必ず失敗するとわかっている案件に手を貸すのは職業倫理的にどうなのか!」と詰め寄るのに対して、芹沢が答えた言葉が「我々が神ではなく、100%どうなるかがわからない以上、やるという人間にやるなと言ってはならない。」というものでした。傍から見て無謀なチャレンジであったとしても、それを本人がやると決断した以上は、それをどのように成功させるかどうしたら成功へと近づけられるかを考えるのがコンサルタントの仕事であり、まるで全知全能の神であるかのように「そんなの絶対失敗するからやめなさい」と言ってはならない、と部下に教える名場面がありました。
受験についてもこれは言えると思います。どんなにきついチャレンジであっても、それでも本人がやりたいのであれば、こちらではそれが成功するためにどうすべきかを考えるしかありません。それができるかできないかは、どんなにこちらが経験を積み、スキルや知識を蓄えたとしても、神でない限り断言できるわけがないからこそ、それを止めるわけにはいきません。またそれは、逆のことにもあてはまります。すなわち、どんなに現在の状況から一年後の合格が見えているような受験生であっても、100%受かるかはわかりません。それも神ならぬ我々には断言できることではありません。だからこそ、チャレンジを笑うことも、成功を保証することも、どちらも等しく人間の能力の限界に対して謙虚な姿勢のない、思い上がった態度だといえるのだと思います。
しかし、「チャレンジをしても失敗したら元も子もない」とチャレンジすることに否定的なのが日本人の国民性であるようにも思います。それだけでなく、自分がどこかでそのようなチャレンジを避けて生きていることへの負い目があるからこそ、チャレンジしては失敗した人を見るたびに、みんなでよってたかって叩いたり陰口を叩くという卑怯な反応が多いように思います。僕は大学受験至上主義者で、付属校から大学に上がるのはせっかく優秀な子たちを中高6年間かけてダメにしていくおぞましい制度だとしか思いませんが、チャレンジをすることを恐れる風潮はどんどん強くなり、有名校は低年齢から顧客を抱え込もうとするのが現在の社会の傾向です。
しかし、自身の努力によって突破しようとチャレンジする若い世代が減れば減るほどに、この社会の活力はどんどんやせ細っていき、やがて滅びます。仮に大学受験がなくなり、名門校はすべて私立の幼稚園からの持ち上がりでしか入れず、その中にいればどんなにサボっても上に上がれるようになるものの親の資力がなければそのようなコースは選べない、という社会に近づけば近づくほどに、社会の中での階層間移動が減ることによるものだけでなく、この社会は活力を失い、社会が一つの社会として存在する意義を失うのです。だからこそ、勇気を持ってチャレンジをし、そのために必死に努力する全ての姿は美しいだけでなく、とても大切な存在であるといえると思っています。
誰が笑おうとも僕だけは、一人一人のチャレンジを応援し、支え続けたいと思います(もちろん、それを現実化するだけの努力をせずに高望みをすることは、「形式的にはチャレンジをしている」という事実に甘えて実はチャレンジをしていないので、それではダメだと思いますが)。
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