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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

詩とは何か。現実とは何か。

中学受験が一段落し、次は高校受験です。そうこうしているうちに私立医大受験が佳境を迎えつつあり、また私大受験がいよいよ忙しくなってきました。そんな中、今日は唐突ですが詩について書こうと思います。

言葉というものはどうしても不完全で片手落ちになるので、それが表現したいものを表せていないイライラを内包するものです。一方で言葉によって事実を摘示するという機能だけではなく、言葉によって事実が作られていく、という唯名論的な作用も言葉にはあるわけです。詩はこの言葉のもつ2つの特徴をフルに使っているものではないか、と考えています。

つまり、言葉の「どんなに正確に言い表そうとしても正確には言い表せやしない」という性質を逆手にとり、「では(事実の摘示としては)全く的はずれなものにその言葉を向けたとき、果たしてそれは何者をも表していないか。」とチャレンジする試みが詩であると思います。そんなふうにチャレンジしてみると、全く的はずれなものに向けたはずの言葉が何らかの現実を描いていたりするものです。そのように全く的はずれなものに向けられたはずの言葉に隠れていた「現実」を私達が見出すとき、詩は生まれ、私達の胸に迫ります。

これはもちろん、的外れでありさえすればよい、ということではありません。言葉を事実の摘示から外そうとすることで、(ベルクソンが『笑い』で書いたような)機械的なものから剥がれ落ちる瞬間を捉えた笑い、というものを引き起こすこともあります。事実の摘示から言葉が離れるとき、それは「現実」とずれているがゆえに、おかしみを湛えます。しかしある現実からずれたはずのその言葉が、それとは違う隠れていた現実を浮かび上がらせるとき、おかしみだけではなく、そこに詩が生まれています。

面白いのは、このようにして詩を通して現実を感じるときは、私達が現実を普通に受け入れるときよりもより自身がその現実を自身で発見したものであるかのように積極的に受け止めることになるということです。詩的現実は言葉によって作られた現実であるにもかかわらず、それが私達の無意識下にあり言語化できていなかった現実と響き合うことで、目の前にある具体物以上に私達にとって意味を持つようになります。

このような詩的言語の役割が古くから現在まで変わらないというのは、私たちが「現実」の多様性を非常に狭く局限して普段は生きているということの現れではないかと思います。それは日常の生活の必要性という個人的な動機による局限もあれば、あるいはここまでの人間の文化や科学、芸術が与えてきた「現実」の意味付けというもっと大きな主語による局限もあります。そのようにして意味が与えられ、決められ、そしてそれ以上の意味はないとされる「現実」の中に、実はまだまだいくらでも気がついていないけれども大切な意味が隠れているわけです。そこに気づかせてくれるのが、詩的言語であるのだと思います。

言ってみれば詩とは記号化され、内包を失った一つ一つの「現実」に新たな意味を見出すことです。言語の性質から詩の話を書き出しましたが、そのように意味を局限され内包を失った「現実」に新たな意味を見出そうとする行為は言語によらないとしてもなお、詩的行為であると思います。もちろんそれは芸術と言い換えても良いです。大切なのは現実を記号化しないこと、現実の多様性に常に心を開き続けていくことだと思います。この社会の中で使われる「現実的」という言葉はこの意味で現実の多様性には目を背けた意味しかもっていないことが殆どであるので、「現実的」という言葉は「現実風(げんじつふう)」であって、現実そのもではありません。「お笑い風」がお笑いそのものではないように。現実は「現実的」も「非現実的」も全てを飲み込んで、人間にとっては無限の多様性を持ち続けます。それを我々人間の愚かさ故に現実がわかったかのようにならないためのツール、それが詩であるようにも思います。(昔なだいなださんが「非人間的なのも人間だと理解することが大切だ。」ということを書いておられましたが、「非現実的」であることも現実だと理解しようとしていくことが大切だと思います。(こう書くとオカルトチックで誤解を招きそうですが!))

というのは長い枕で、昨日教えてもらった卒塾生がやっているこのアカウントの写真が本当に詩的だなあと、思って見ながら感心していました。良かったらぜひ見てもらえると嬉しいです!
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