
「結局手に入らないものなら望まなければ良かった。」という後悔というものは誰でもしてしまうものです。それを求めるがゆえに、しんどくなるのであれば、最初から何も求めていないかのように生きることの方が楽に思えます。
そのように何もかも、自分に手に入らなさそうなものは「どうせ手に入らない」と決めつけてそのためには少しも努力をしない、しかし努力をしていないとそのように自分が諦めていることが周りにもバレてしまうから、努力をしているふりをする、という受験生もこれだけ長く教えていると、いるものです。自分が傷つかないために、自分が正しく鍛えられる努力を出来る限り避けて、努力をしているふりをしているうちに、何が努力であるかさえ自分でよくわからなくなってしまい、その「ふり」から抜け出そうにもどうしようもなくなってしまう。これもまた一つの悲劇です。
だからこそ、このような子たちを目の前にしたとき僕は、そのような「ふり」を辞めるように言います。しかし、これだけでは全く不十分です。その子達はそもそも自分を鍛えることを自分では望んでいないからこそ、「努力をするフリ」を一つこちらが見抜いては改善しようとしたとしても、また別のところでそれをやるだけです。24時間、365日受験生をチェックすることはどのような教師にもできないからこそ、彼ら彼女らの努力をするフリを具体的に見抜いて修正していくだけではなく、彼ら彼女らがそれを修正して自らが生きていくために正しい力をつけることを望んでもらえるようにしていかねばなりません。そのように受験生の内的動機と外的手法が両方とも鍛えられて初めて受験は合格するものです。逆に言えば、その本人の内的動機を鍛えることなくして、外側から指摘をするだけで合格させることは(もちろんどのレベルを目指すかにもよるのですが)高いレベルではまず無理であると思っています。また、その受験生の内的動機をmotivateすることについては、嚮心塾はその名(心と嚮(む)き合う)の通り、他の塾や教育機関ではできないことをしているとは思います。
しかし、です。そのようにmotivateされて、自分自身の人生のために自ら作った諦めの「殻」から出ては、自分の努力と力で人生を切り開こう、と努力を始めた子たちの全てが良い結果を得られるわけではありません。当然そのようにせっかくやる気を出して真剣に取り組んだにも関わらず、望む結果を得られなかった受験生が毎年出てきます。その子達に僕がやっていることは、彼ら彼女らがせっかく諦めていたものを蒸し返し、掘り起こし、その気にさせ、そしてそれなのに手に入らないという事実を突きつける、という最も残酷なことをしてしまっているわけです。もちろんそうならないようにこちらでもあれこれと必死の準備や努力を行います。受験生自身の努力が決して空回らないように、あれこれと工夫をして毎日頭を悩ませます。しかし、それでもなおそのような受験生を生み出してしまっていることは事実であり、僕自身の抱え続けなければならない罪であると思っています。
その罪は全面的に僕にあることを認めた上で、それでもなお、僕はいずれ彼ら彼女らが自分の作った諦めの「殻」から抜け出ようとしてもがいたこと、そのもがいたことがうまく形には繋がらなかったかもしれないけれども、そこでついた力、戦った記憶は、決して無駄ではないことに気づいてもらえる日がいつかは来るのではないか、と思ってこのアプローチを続けています。そこに僕や嚮心塾を思い出す必要はありません。ただ、しんどいことしかない私達の人生の中で、その記憶が少しでも彼ら彼女らの足元を照らす何かになってくれるのではないか、ということについては信じています。
今年も華やかな合格者を塾として宣伝せざるをえないのとともに、本当に頑張ったけれども望む結果が得られない受験生をゼロにすることもできません。しかし、その頑張りは強がりや自己正当化ではなく、本当に決して無駄ではありません。
いつかその事実が伝わるように、彼ら彼女らが生きていってくれたら、と思います。
そのように何もかも、自分に手に入らなさそうなものは「どうせ手に入らない」と決めつけてそのためには少しも努力をしない、しかし努力をしていないとそのように自分が諦めていることが周りにもバレてしまうから、努力をしているふりをする、という受験生もこれだけ長く教えていると、いるものです。自分が傷つかないために、自分が正しく鍛えられる努力を出来る限り避けて、努力をしているふりをしているうちに、何が努力であるかさえ自分でよくわからなくなってしまい、その「ふり」から抜け出そうにもどうしようもなくなってしまう。これもまた一つの悲劇です。
だからこそ、このような子たちを目の前にしたとき僕は、そのような「ふり」を辞めるように言います。しかし、これだけでは全く不十分です。その子達はそもそも自分を鍛えることを自分では望んでいないからこそ、「努力をするフリ」を一つこちらが見抜いては改善しようとしたとしても、また別のところでそれをやるだけです。24時間、365日受験生をチェックすることはどのような教師にもできないからこそ、彼ら彼女らの努力をするフリを具体的に見抜いて修正していくだけではなく、彼ら彼女らがそれを修正して自らが生きていくために正しい力をつけることを望んでもらえるようにしていかねばなりません。そのように受験生の内的動機と外的手法が両方とも鍛えられて初めて受験は合格するものです。逆に言えば、その本人の内的動機を鍛えることなくして、外側から指摘をするだけで合格させることは(もちろんどのレベルを目指すかにもよるのですが)高いレベルではまず無理であると思っています。また、その受験生の内的動機をmotivateすることについては、嚮心塾はその名(心と嚮(む)き合う)の通り、他の塾や教育機関ではできないことをしているとは思います。
しかし、です。そのようにmotivateされて、自分自身の人生のために自ら作った諦めの「殻」から出ては、自分の努力と力で人生を切り開こう、と努力を始めた子たちの全てが良い結果を得られるわけではありません。当然そのようにせっかくやる気を出して真剣に取り組んだにも関わらず、望む結果を得られなかった受験生が毎年出てきます。その子達に僕がやっていることは、彼ら彼女らがせっかく諦めていたものを蒸し返し、掘り起こし、その気にさせ、そしてそれなのに手に入らないという事実を突きつける、という最も残酷なことをしてしまっているわけです。もちろんそうならないようにこちらでもあれこれと必死の準備や努力を行います。受験生自身の努力が決して空回らないように、あれこれと工夫をして毎日頭を悩ませます。しかし、それでもなおそのような受験生を生み出してしまっていることは事実であり、僕自身の抱え続けなければならない罪であると思っています。
その罪は全面的に僕にあることを認めた上で、それでもなお、僕はいずれ彼ら彼女らが自分の作った諦めの「殻」から抜け出ようとしてもがいたこと、そのもがいたことがうまく形には繋がらなかったかもしれないけれども、そこでついた力、戦った記憶は、決して無駄ではないことに気づいてもらえる日がいつかは来るのではないか、と思ってこのアプローチを続けています。そこに僕や嚮心塾を思い出す必要はありません。ただ、しんどいことしかない私達の人生の中で、その記憶が少しでも彼ら彼女らの足元を照らす何かになってくれるのではないか、ということについては信じています。
今年も華やかな合格者を塾として宣伝せざるをえないのとともに、本当に頑張ったけれども望む結果が得られない受験生をゼロにすることもできません。しかし、その頑張りは強がりや自己正当化ではなく、本当に決して無駄ではありません。
いつかその事実が伝わるように、彼ら彼女らが生きていってくれたら、と思います。
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