
塾でお子さんをお預かりして鍛える中で一番多い悩みは、どの親御さんも愛情が強すぎる、ということです。こう書くとまるで「もっと子供を放ったらかせ!」と言っているようで語弊があるのですが、愛情が強すぎるとどうしても我が子に失敗をさせたくない、失敗をする前に何とか成功に導けないか、と先回り、先回りをしていくようになります。
しかし、人間というのは愚かなもので、手痛い失敗をして初めて自分の身につくことが多い以上、このように「転ばぬ先の杖」を徹底すれば徹底するほどに、そのように様々なことをarrangeされて育つ子達というのは、どうしても「考えなくて良い」部分を自分の人生に作ってしまっているからこそ、何が必要かがわからないままに言われたとおりの努力をすることになってしまいます。
たとえば受験勉強というのもそのようなツールとしてまさに人生を失敗しないための「転ばぬ先の杖」としてみんなが取り組んでいるわけですが、面白いものでその「転ばぬ先の杖」としての受験勉強の中では、「どれだけ多くの失敗をしたか」が受験生にとっては血肉となっていきます。逆に言えば、自分で試行錯誤を重ねる前に「正しい方法」を知りたがる受験生ほどに、力が伸びないことになります。
そしてそのような悪循環に陥っている子たちのためにこちらでいろいろな工夫をしていくときには、「失敗を叱らない」ということが一番大切です。自分がチャレンジをして失敗したとき、というのはその失敗の中にこそ自分が学ぶことのできる最良の教材があります。それなのに周りの大人が責めたり不快感を表明したり叱責したり、と子供に対して自分の感情のはけ口を求めて色々とぶつけてしまえば、子どもたちは失敗を味わうことができなくなり、失敗は「見つかったら叱られるから隠した方がよいもの」という誤った学習をしてしまうことになります。
子どもたちが失敗を味わえるように、大人たちは子どもたちの失敗を決してあげつらわないこと、そして子どもたちがその失敗を「自分の失敗」であると認識し、次にその失敗をしないためにはどうしたらよいかを真剣に悩むとき、それに対して何かしらアドバイスを必死に考えること。それらが大人が子どもたちにできる数少ないことではないかと思います。
どこまで子どもたちの「失敗」に対して見守ることができるか、というその一つ一つに親や教師が鍛えられていくようにも思います。子どもたちが自分の人生を生きられる力をつけていくためには、子どもたちが自分の人生を自分のものだと思わねばなりません。そしてそのためには、彼らの失敗を彼ら自身が失敗だと認識していかねばなりません。これだけ書くと当たり前のことなのですが、これが当たり前ではないことが非常に多く、そこが結局この社会の中で「自然」を回復するために様々な工夫を必要とする、というルソーの社会契約論を想起させられるなあと日々感じています。
見守り、そして鍛えていけるように頑張っていきたいと思います。
しかし、人間というのは愚かなもので、手痛い失敗をして初めて自分の身につくことが多い以上、このように「転ばぬ先の杖」を徹底すれば徹底するほどに、そのように様々なことをarrangeされて育つ子達というのは、どうしても「考えなくて良い」部分を自分の人生に作ってしまっているからこそ、何が必要かがわからないままに言われたとおりの努力をすることになってしまいます。
たとえば受験勉強というのもそのようなツールとしてまさに人生を失敗しないための「転ばぬ先の杖」としてみんなが取り組んでいるわけですが、面白いものでその「転ばぬ先の杖」としての受験勉強の中では、「どれだけ多くの失敗をしたか」が受験生にとっては血肉となっていきます。逆に言えば、自分で試行錯誤を重ねる前に「正しい方法」を知りたがる受験生ほどに、力が伸びないことになります。
そしてそのような悪循環に陥っている子たちのためにこちらでいろいろな工夫をしていくときには、「失敗を叱らない」ということが一番大切です。自分がチャレンジをして失敗したとき、というのはその失敗の中にこそ自分が学ぶことのできる最良の教材があります。それなのに周りの大人が責めたり不快感を表明したり叱責したり、と子供に対して自分の感情のはけ口を求めて色々とぶつけてしまえば、子どもたちは失敗を味わうことができなくなり、失敗は「見つかったら叱られるから隠した方がよいもの」という誤った学習をしてしまうことになります。
子どもたちが失敗を味わえるように、大人たちは子どもたちの失敗を決してあげつらわないこと、そして子どもたちがその失敗を「自分の失敗」であると認識し、次にその失敗をしないためにはどうしたらよいかを真剣に悩むとき、それに対して何かしらアドバイスを必死に考えること。それらが大人が子どもたちにできる数少ないことではないかと思います。
どこまで子どもたちの「失敗」に対して見守ることができるか、というその一つ一つに親や教師が鍛えられていくようにも思います。子どもたちが自分の人生を生きられる力をつけていくためには、子どもたちが自分の人生を自分のものだと思わねばなりません。そしてそのためには、彼らの失敗を彼ら自身が失敗だと認識していかねばなりません。これだけ書くと当たり前のことなのですが、これが当たり前ではないことが非常に多く、そこが結局この社会の中で「自然」を回復するために様々な工夫を必要とする、というルソーの社会契約論を想起させられるなあと日々感じています。
見守り、そして鍛えていけるように頑張っていきたいと思います。



