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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

「お笑い風」とお笑い。

あまりにも忙しいので、最近はテレビ番組を以前ほどは見ることができなくなってきているのですが、それでも毎週必ず見ているのがテレビ東京の『ゴッドタン』です。これさえ見ておけば、芸人さんの世界の情報を早めにわかるのでは!と思い、毎週録画して見ています(良い子にはあまりお薦めしませんが、)。眉村ちあきさんなど、注目すべき人を取り上げるタイミングが早く、とても勉強になります。

そのゴッドタンでだいぶ前ですが、「お笑い風(おわらいふう)」という言葉が流行りました。これは(お笑いコンビ)ハライチの岩井勇気さんが提唱した概念です。今や芸人さんが出ていないテレビ番組を探すほうが難しく、朝の情報番組から昼のワイドショー、そして夜のバラエティー番組と、どの番組にも芸人さんが必ず出ているわけですが、それらの番組に出ている芸人さんは結局VTRを見て気の利いたコメントを言ったり、ほんの少し笑いをとったり、というだけであくまで「添え物」としての働きしかしていません。そのような露出の仕方を岩井さんは「お笑い風」と呼び、コントや漫才でしっかりとネタを作り込むのではなく、そのような「添え物」として気の利いたコメントをできる芸人さんだけがテレビ業界で売れることを憂え、そして何よりそのような「添え物」の今や第一人者になったハライチの相方澤部さんの売れ方に対する不満をとうとうと述べていました。「本気でお笑いをやりたい芸人は、結局売れないで、お笑い風を我慢できる芸人だけが売れる。」という彼の主張はとても本質を突いていました。

これはたとえばその両方をこなすおぎやはぎさんや劇団ひとりさんのような人たちにも言えることです。たとえば彼らがゴールデンやプライムタイムの番組に出ていればちょっと気がよくて面白い人くらいの印象しかないわけですが、ゴッドタンでの彼らはとてつもなく面白く、天才的で、また徹底的に攻めた笑いを目指します。ゴッドタンにかぎらず、深夜帯での尖った笑いもゴールデンでのいい人そうなふるまいも両方をできる人もいるのでしょうが、面白い漫才やコントは作れても、ゴールデンタイム用のバラエティーの仕事ができずに大きくはブレイクしない、という芸人さんも多いのかもしれません。(もっともハライチの岩井さんはそこから「腐り芸人」という地位を確立し、自分が「お笑い風」を許せない、ということをも芸風として活かそうとしているわけで、本当にたくましい限りです)

この問題というのは「最近のバラエティ番組ってのはこれだからつまらないんだ!」と批判的になるまでもなく、昔から悩ましい問題であり続けているように思います。多くの人に受け入れられるものはどうしても角(かど)が立たないものになりますし、芯を食った言葉からは遠くなります。とはいえ、少数派向けのみに本当の言葉を語り継いでいくことは果たしてその解決策になっているのか、それだけで社会に何か良い影響を及ぼせるのか、という問題です。古くは最澄と空海の頃から顕教(けんきょう)と密教(みっきょう)の違いとして、多くの人に広まっていく宗教(顕教)と一部の人にしかその秘奥を伝えない宗教(密教)の違いとして存在しました。また、もっと前にはプラトンだって「大事なことはアカデメイア(彼の主催する学園ですね。)でしかしゃべらない。大事じゃないことだけ私は本に記す!」と言って密教的なものと顕教的なものを使い分けていたわけです(それにしてはプラトンは著作の数が異様に多いですが)。

どちらが優れている、どちらが劣っている、というのはもちろんないわけですし、どちらも社会にとって必要なものであることは間違いがありません。しかし、どうしても閉じていて少数の人々に伝承されたり評価されたりするもの、というのは社会からの迫害や無理解に苦しむことが多く、また開いていて多くの人に広まっていくものとのチヤホヤのされ方、お金の集まり方が大きく違う、といううらみつらみはあります。それがあまりにも非対称すぎて少数派の方を選ぶ側には被害者意識が生まれがちです。これは僕自身もとてもよくわかる気持ちです。

まあしかし、そもそもそこで少数派の方を選ぶ人、というのはそちらに関心が強いので、最初から多くの人に広まる道は歩けないことが多いのではないかと思います。岩井さんなら「ネタの面白さ(ハライチのネタは全て岩井さんが書いているそうです)」を追求したいからこそ、それとは無縁のバラエティ番組に出るのにはなかなか食指が動かなかったのでしょう。となると、自分が結局何をしたいのか、ですよね。僕も嚮心塾を開く前にはお誘いを頂いて、「出資するんでうちの経営する塾で塾長としてやりませんか。」的なありがたいお話も頂いたのですが、全くその気にはなれませんでした。僕は(ラーメンマニアではあるのですが)日高屋とか幸楽苑とか本当にすごいと思っていて、あの値段であのクオリティのものを提供できるのは、一つのvalueであると思うのですが、では自分が日高屋や幸楽苑のような会社を作りたいかといえば、全くその気はないですし、また全く向いていないと思います。塾をやるとしても同じで、たとえばある程度の指導のクオリティを保ちながら多校舎展開をしている塾があれば、それはそれで本当に素晴らしいことだと思いますし、そのような塾は必ずこの社会に必要だとは思いますが、一方でそれを自分がしたいともまたできるとも思っていません。おそらくそれを僕がやろうとすれば、必ず失敗するでしょう。岩井さんがVTRを見ながらワイプ画像で抜かれるときの笑い顔が作れずに、番組に呼ばれなくなるのと同じように。(「ここでしかできない教育を」「講師を増やすことでは決して真似出来ない教育を」と追求してきた結果として、嚮心塾はとてもユニークな、ここでしかできない指導ができ、かつそのことで生徒たちが大きく力をつけられるようにはなってきているとは思うのですが、しかしまあ多校舎展開は(自分に嘘をつかない限り)絶対にできなくなりました。密教確定です。そして、儲かる道もなくなったなあとは思います。)

大切なのは、広まっていくものはその背後に閉じているもののありがたみを感じ、閉じているものはその裾野を広まっていくものが耕してくれていることのありがたみを感じる、という相互作用があるかどうか、ではないかと思います。その相互作用があれば、両者が両者ともに社会的役割を果たしていることが、つながってくるようにも思いますし、両者がいがみ合えば結局それは社会全体にとっても不幸なことです。これはハライチの澤部さんと岩井さん、あるいは一ツ星ラーメン店とチェーンのラーメン店、多校舎展開の塾と一つしかない塾などだけではなく、たとえば科学ジャーナリズムと科学との関係性、とか企業と大学の関係性とか、さまざまなことにも言えるのではないでしょうか。広まっていくこと、あるいは閉じていることそのものを互いに批判し、いがみ合うのではなく、お互いがお互いの手の回らないところを支え合っていて、そのうえで相互にフィードバックがなされるべきである、という共通理解があることがとても大切だと思います。

冒頭に挙げたゴッドタンでは澤部さんが「俺がお笑い風の番組に出るのは、ハライチをみんなに知ってもらって岩井の漫才を見てもらうため!」というラブコールでこの相互作用があることを示唆して伏線が回収されるわけですが、コンビ愛に基づかなくても、そのような相互作用が起こりうるのがより健全な社会ではないかと考えています。
(そして、僕も劇団ひとりさんのように、「お笑い風」も「お笑い」も両方できる人になりたいです!このあたり、まだまだ修行が足りません。)
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