
受験というと、どうしてもマイナスのイメージが強いとは思うのですが、僕はこの仕事に関わる前から、受験については肯定的です。もちろん、親が無理やりやらせる中学受験など、親子の断絶以外の何も産まないとは思いますが、受験勉強に子どもたちが自分で頑張って取り組もうとすること自体は、自分の人生がどうあるべきかについて思い悩むきっかけができること、さらにはその結果自分を律して一つの目標に向かって努力できるようになること、更には仮にしっぱいしたとしてもなお、勉強の力は残るわけでそれはその子にとっては必ず次のステップでの財産になることなど、やり方さえ間違えなければこれほど有意義な時間はないと思っています。
そしてそれは受験に「成功」した子にとってだけではありません。受験に「失敗」した子たちにもそのようなプロセスは必ず次のステップで活きてくる力を与えてくれると思います。というと、綺麗事のように聞こえるかもしれませんが、僕は本気でそう思っています。努力をして、力がつき、そして何なら悔しい思いまでして次のステップに進むことができる。自分が努力しながらもその努力では足りていないことまで痛感しながら次のステップに進めるのであれば、それはまた必ず本人の成長につながっていきます。それを信じることが親や教師の役目であり、失敗を「こうしていれば…」と責めることでは決してありません。
有名な学校の付属校が増え、受験をする機会が減っていくこと、特に一番大切な成長の機会である大学受験がそのような有名校の生徒確保の囲い込みと、推薦入試やAO入試による(アメリカの大学のような)恣意的・主観的な基準での選考へとなっていく、さらには英語の四技能試験の雑多で玉石混交の民間試験の導入のように、試験制度が一発勝負を避ける代わりに実力以外の他の要素(端的に言えば家庭の経済力の格差)によって決まるようになってしまえば、結局社会の活力は全体として低下していってしまうと僕自身は確信しています。
子どもたちがどんなに頑張っても自分の努力だけでは自分の進みたい道へと行けない社会にしていくことは、社会の階層間移動を妨げることで社会の公平性への信頼を掘り崩すものです。もちろん、現在でも私立医大の学費が払える家庭は少ないとか、東大生の親の平均年収は高いなど、既にそのような格差の再生産はだいぶ進んでいるわけですが、それが徹底的に進んだ後にこの社会に残るものは何であるのか、そのことに我々はあまりにも自覚が足りていないのでは、と思います。
どのような社会をデザインしていくか、などという大きな問いを立てなくても、一人の子供が受験に向けて準備を始める前と始めた後とでどれほど大きく成長しているかを比べれば、そのような機会を自分の子から奪うことを末恐ろしく思えると思うのですが…。なかなか、そのような意識は共有されていないようで、受験、特に大学受験は出来る限り忌避するものと思われがちです。ですが、僕は少なくとも自分の子どもたちには、必ず大学受験をさせてあげたいし、させてあげなければならない、と思っています。
大人が子供に絶対にしてはならない罪深いことは、伸びゆこうとする芽としての彼ら、彼女らに「天井」を作ることです。
受験を「良い学校に入るためには避けて通れないけど、落ちるかもしれない嫌なもの」としてだけではなく、子どもたちにとってとても貴重な機会だと見ることのできる見方がもっと広まればいいのに、と思っています。「(学校歴で就職にゲタをはかせてもらって)将来サボるために、今目の前の受験を頑張る」という矛盾する動機を懸命に子どもたちに説くのではなく、「今後の人生の頑張り方を覚えていくために、受験を頑張る」という考え方を大人がするだけでも、子どもたちは驚くほどに目の前の課題に真剣に取り組むのでは、と考えています。
そしてそれは受験に「成功」した子にとってだけではありません。受験に「失敗」した子たちにもそのようなプロセスは必ず次のステップで活きてくる力を与えてくれると思います。というと、綺麗事のように聞こえるかもしれませんが、僕は本気でそう思っています。努力をして、力がつき、そして何なら悔しい思いまでして次のステップに進むことができる。自分が努力しながらもその努力では足りていないことまで痛感しながら次のステップに進めるのであれば、それはまた必ず本人の成長につながっていきます。それを信じることが親や教師の役目であり、失敗を「こうしていれば…」と責めることでは決してありません。
有名な学校の付属校が増え、受験をする機会が減っていくこと、特に一番大切な成長の機会である大学受験がそのような有名校の生徒確保の囲い込みと、推薦入試やAO入試による(アメリカの大学のような)恣意的・主観的な基準での選考へとなっていく、さらには英語の四技能試験の雑多で玉石混交の民間試験の導入のように、試験制度が一発勝負を避ける代わりに実力以外の他の要素(端的に言えば家庭の経済力の格差)によって決まるようになってしまえば、結局社会の活力は全体として低下していってしまうと僕自身は確信しています。
子どもたちがどんなに頑張っても自分の努力だけでは自分の進みたい道へと行けない社会にしていくことは、社会の階層間移動を妨げることで社会の公平性への信頼を掘り崩すものです。もちろん、現在でも私立医大の学費が払える家庭は少ないとか、東大生の親の平均年収は高いなど、既にそのような格差の再生産はだいぶ進んでいるわけですが、それが徹底的に進んだ後にこの社会に残るものは何であるのか、そのことに我々はあまりにも自覚が足りていないのでは、と思います。
どのような社会をデザインしていくか、などという大きな問いを立てなくても、一人の子供が受験に向けて準備を始める前と始めた後とでどれほど大きく成長しているかを比べれば、そのような機会を自分の子から奪うことを末恐ろしく思えると思うのですが…。なかなか、そのような意識は共有されていないようで、受験、特に大学受験は出来る限り忌避するものと思われがちです。ですが、僕は少なくとも自分の子どもたちには、必ず大学受験をさせてあげたいし、させてあげなければならない、と思っています。
大人が子供に絶対にしてはならない罪深いことは、伸びゆこうとする芽としての彼ら、彼女らに「天井」を作ることです。
受験を「良い学校に入るためには避けて通れないけど、落ちるかもしれない嫌なもの」としてだけではなく、子どもたちにとってとても貴重な機会だと見ることのできる見方がもっと広まればいいのに、と思っています。「(学校歴で就職にゲタをはかせてもらって)将来サボるために、今目の前の受験を頑張る」という矛盾する動機を懸命に子どもたちに説くのではなく、「今後の人生の頑張り方を覚えていくために、受験を頑張る」という考え方を大人がするだけでも、子どもたちは驚くほどに目の前の課題に真剣に取り組むのでは、と考えています。
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