
未成年の薬物摂取や飲酒、禁煙についてこれほどまでに厳しい日本の社会が、ゲームに関してはほぼ野放しに子供達に買い与えられる/子供達が買えるようになっているというのは、僕は非常に恐ろしい片手落ちであると考えています。現にたばこの広告については、欧米のまねをして、ようやく規制がされてきましたが、テレビゲーム、携帯ゲーム機についての広告の規制など、まったくありません。それが、どれほどまでに恐ろしい現状を生み出しているのかを、小学生以上のお子さんをお持ちのご家庭であれば、よくご存じであると思います。
しかし、自分のお子さんのゲーム漬けの現状に眉をひそめる親御さんも、それが少年時代という過渡期の一過性のものであると考え、あるいは、同級生がみなそのような状況である中で自分の子供だけゲームをやめさせて仲間はずれになったらかわいそうだと考え、厳しくやめさせることはできていないのが大多数であると思います。しかし、このような対応を僕は実際に子供達に接して彼らの意見を聞いている者として、非常に危険な対応であると思わざるを得ません。なぜなら、ゲームをしない大人達はあまりにも今のゲームについて知識がなさ過ぎるからです。
まず、現在人気のゲームはたいてい「クリア」という概念がきわめて希薄になってきています。大筋のストーリーの中で「クリア」というものがあったとしても、「追加クエスト」を行うとレアアイテムを手に入れられ、さらにその追加クエストが通信によってかなり長い期間更新されるようです。僕も小学生の時には、ドラクエをやっていたのですが、僕らの世代では「終わった(クリアした)ドラクエのレベルを上げる」という行為はある意味、友達の居ない寂しい子が暇つぶしにしていて、しかもそれが友達にばれたら、ばかにされるような類の行為でした。しかし、今は「終わったドラクエをやり続ける」のが当たり前であるのです。ゲーム会社はこの不況の中でゲームを売る、という目標を一本のソフトでどこまでもやりつくすことのできる「お得な」ソフトにすることで、達成しようとします。しかし、その結果として、子供達の目に映るのは、ゲームの中の世界だけ、ということになるのです。ゲームの中での達成感のために、他のことに対してはきわめて消極的になってしまいます。
さらには、携帯ゲーム機の進化があります。携帯ゲーム機は登場したてのときに比べて、遙かに画像も良くなり、どこにもちこんでも隠しながらゲームが出来るようになってきてしまっています。家でゲームをするのと同じようなqualityのゲームが出来るので、家で親に「ゲームやりすぎだ!」と怒られたなら「公園にいって遊んでくる!」と言って、公園で携帯ゲーム機で遊ぶことも出来てしまいます。このようなゲームをする場所に限りがないことの恐ろしさを、どれほどの親御さんが把握できているでしょうか。端的に言えば、学校などの拘束がなく、親が子供に直接目をかけていない時間の全ては、ゲームにつぶれている可能性すらあるのです。
このような危険なものを「どのように使うかは消費者の自己責任」として、野放しにされているというのが僕は現代の子供達の悲劇であると考えています。その、かわいそうな彼らの現状について、大人達にもっと理解を深めてほしい、というのが普段子供達と接している僕の願いです。そして、そのようなゲームを次から次へと生み出しては大量に広告をしているゲーム会社は、やがて日本社会が若い世代が現実と向き合わないが故に崩壊する時になってはじめて、自分達のしてきたことの意味が分かるのではないでしょうか。
そのようになる前に何とかしていきたいと思っては、日々生徒達には嫌がられる毎日を送っています。
嚮心塾(きょうしんじゅく)を、そのようなゲーム三昧の日々からの隔離され、勉強その他のやらねばならないものに向き合うための施設として、機能させていきたいと考えています。それが上手くいく場合もありますし、逆に
無力に終わる場合もありますが、あきらめずに、やっていきたいと考えています。
(六月九日の追記)
今朝の朝日新聞の朝刊(東京版)に、ゲームの業界団体の方の意見が載っていました。考えねばならないポイントとして、
①水俣病において、被害を拡大させながら有機水銀の垂れ流しを止められなかった理由として、被害者達が「チッソの出す有機水銀が水俣病の原因となっている」ことを証明することを当初は求められていた、ということがあります。それを完全に確定するまでは有機水銀を含む排水を止める必要がない、という判断こそがさらなる公害病の拡大を招いてしまったのです。ゲームも同じような問題点を抱えていると思います。ゲームが子供達の成長にとって有害である、ということを証明するなどということが、果たして可能なのでしょうか。しかし、それがなされるまでは「ゲームが子供達にとって有害かどうかはまだ科学的にわかっていない」という口実で、実際に被害が拡大していってしまいます。
②水俣病において、チッソは化学肥料を作る工程で有機水銀を排出していました。しかし、ゲームにおいてさらにこの問題が難しいのは、ゲーム会社にとってはその有害かもしれないゲーム自体が商品である、という事実です。何らかの対策によって解決する問題ではなく、ゲーム会社の存在理由そのものがもしゲームが有害であるということが証明できたとすると、問われることになってしまいます。したがって、ゲーム会社にとって、「ゲームが有害である」という事実を認めることはきわめて困難であると思います。それはたばこやお酒の問題にも似ていますが、より似ているのは麻薬であるかもしれません。いや、むしろゲームはこれらのものと違い、身体的症状が出にくい分だけ、より中毒症状の発見が遅れる分、さらに危険であるように思います。つまり、このような問題を業界の自主規制に任せることで改善しようとしていくことはきわめて難しく、行政による規制を必要としなければならないのかもしれません。
③「親がゲームをやらせすぎないよう気をつけろ(つまり、親が怠慢だ!)。」という主張は、それなりに正しいものを含んでいます。「みんなが持っていて、友達の輪に入れないとかわいそうだから。」という理由からゲームを買い与えて、その後ずっとそれを後悔し続ける、ということもよくあることですから、そもそも買い与えないのが一番だ、という主張も正しいと思います。しかし、それを言うなら、たばこも酒も年齢制限を作らずに売り、それに子供達が中毒になったら「親がそれらをやらせすぎなければ、いい。」という話になってしまいます。あるいは麻薬も禁止しなくても良い、という理屈になってしまうのではないでしょうか。中毒性のある有害なものに対する親の責任と、生産者の責任とは決してどちらかだけしか認められないものではありません。むしろ、両方とも必要なものです。ゲーム会社が自らの作る商品の中毒性とそれ故の有害さを認めないが故に、おのおのの親たちは、「魅惑的なゲームソフトの洪水」とそれが大資本によって滝のようにテレビで宣伝されるというきわめて不利な環境の中で、自分の子供達がそれに「ハマる」ことを防ぐという、きわめて重大な責任を孤立して担うことになっているのが、現状なのではないかと僕は考えています。しかも、それらのゲームがどれだけ「終わりのない」ものであるかを親たちは具体的には知らないまま、です。このような絶望的な状況をよく理解した上で、それでも「子供がゲームをやりすぎるのは親のせいだ!」とだけ
言うことは、僕は無責任な態度でしかないと思います。
があると思います。
しかし、何よりもまずこれが大変重大な問題で、一人一人の子供達にとっての将来を左右してしまう問題なのだ、
という意識をもつことが大切だと思います。あのゲームのテレビCMの異常なまでの多さに対して違和感を持たないとしたら、かなり感覚が麻痺してしまっているといえるのではないでしょうか。気をつけたいものです。
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