
入試において一番大切なことは、絶望をしないことです。
過去には(2日制の入試で)「もう今日の試験で失敗したので、明日は受けずに東京に帰ります。」という生徒を2年連続で電話で必死に説得して、次の日の入試を受けさせた経験もあります(しかも二人とも阪大医学部に受かりました!)。
このように明確に言葉に出してくれればまだこちらも対処のしようがあるのですが、ある教科の試験ができなくて、もう無理だと落ち込んでしまい、そして次の教科に対しては全く集中ができずにボロボロになってしまう、ということはどうしても毎年起きてしまいます。
それを防ぐためには、「最後まで諦めるな!」とか「受験は最後まで諦めない受験生が合格する!」と言い聞かせるだけでなく、まずは生徒たちに、より正しい現実を認識できるように鍛えていく必要があります。
即ち、自分がある教科をできなかったとしてその理由は
①その教科のテストが難しい。
②難しくはないが、自分が失敗してできなかった。
③難しくはないし、失敗をしてもいないが実力がなくてできなかった。
の3つの場合があります。
①の場合には、自分ができないことを全く気にする必要はなく、みんなもできていない以上、この次の科目で頑張れば
それで合格に近づくことになります。
②の場合には、そこで他の受験生と比べてビハインドはできてしまいましたが、しかし、それをクヨクヨしても失敗した教科の点数が上がるわけではないので、次の教科のテストの準備をしたほうがよいことになります。
③の場合には、そもそもどの教科も自分の実力が足りなくて受けている受験生は元からサボっている受験生ですから、何かしらできる教科があるはずです。先程できなかった教科が終わった状況で残っている教科は自分にとっては比較的得意な教科である可能性が高いのですから、次の教科のテストに集中すべきです。
このように、どの場合であったとしても、この状況でやるべきことは、「次の教科を頑張る」ことでしかありません。それが自分の中でどれほどあたり前のこととして定着しているかによって、このような状況での対応力が変わってきます。
とサラサラと書いてきたのですが、では嚮心塾ではそれをしっかりと説明しているから、そのような絶望は起こりにくいんですね!と言われると、自信のないところです。人生がかかる場面で失敗をしたときに、その延長線上で悲観に陥ることの方がはるかに楽なので、どうしてもそのように受験生はなりがちです。失敗をしたときこそ自分を俯瞰することが大切だとこちらが口を酸っぱくして何度も説こうとも、本人が絶望したければ絶望をしてしまいます。そこからどう抜け出してもらうか、そのための必死の説得を何年もやってきてはいるのですが、それでもなお、うまく伝わる場合と伝わらない場合とがあります。
ただ、うまく伝わる瞬間のためには、先に上げたような頭で理解できる説明の仕方だけではなく、こちらが本気でその子の人生に良かれと思ってそう言っているとが伝わることが最低限必要だとは思っています。つまり「絶望するな。」という言葉が、「絶望しないほうが合格する!」を越えて「(僕が諦めていないのに)君が勝手に絶望するな。」という意味になっているかどうかが勝負である、ということです。その理不尽な指摘が、理不尽ではないと思えるほどに教えている側と生徒が同じ目標を持てているかどうかが鍵であるように思っています。
魯迅の言うように絶望も希望と同じく、虚しいものであることはおそらく事実であるのでしょう。
でも、そんなことはみんななんとなくはわかっていて、それでも絶望をしたいのは、絶望をした自分でも共感されるかどうかを確かめたくなるからでしょう。だからこそ、「絶望をしない!」と決意することは自身が人生の受け取り手から、能動的に生きる主体になることであると思います。しかし、その最後のひと押しの、全面的に自分の人生を引き受ける瞬間には教育という行為の働く余地があるのでは、と思ってこの仕事を続けているわけですが、まだまだそう簡単にはできず、なかなかうまくいかないことばかりです。ただ、最後まで諦めないように取り組んでいきたいと思います。
過去には(2日制の入試で)「もう今日の試験で失敗したので、明日は受けずに東京に帰ります。」という生徒を2年連続で電話で必死に説得して、次の日の入試を受けさせた経験もあります(しかも二人とも阪大医学部に受かりました!)。
このように明確に言葉に出してくれればまだこちらも対処のしようがあるのですが、ある教科の試験ができなくて、もう無理だと落ち込んでしまい、そして次の教科に対しては全く集中ができずにボロボロになってしまう、ということはどうしても毎年起きてしまいます。
それを防ぐためには、「最後まで諦めるな!」とか「受験は最後まで諦めない受験生が合格する!」と言い聞かせるだけでなく、まずは生徒たちに、より正しい現実を認識できるように鍛えていく必要があります。
即ち、自分がある教科をできなかったとしてその理由は
①その教科のテストが難しい。
②難しくはないが、自分が失敗してできなかった。
③難しくはないし、失敗をしてもいないが実力がなくてできなかった。
の3つの場合があります。
①の場合には、自分ができないことを全く気にする必要はなく、みんなもできていない以上、この次の科目で頑張れば
それで合格に近づくことになります。
②の場合には、そこで他の受験生と比べてビハインドはできてしまいましたが、しかし、それをクヨクヨしても失敗した教科の点数が上がるわけではないので、次の教科のテストの準備をしたほうがよいことになります。
③の場合には、そもそもどの教科も自分の実力が足りなくて受けている受験生は元からサボっている受験生ですから、何かしらできる教科があるはずです。先程できなかった教科が終わった状況で残っている教科は自分にとっては比較的得意な教科である可能性が高いのですから、次の教科のテストに集中すべきです。
このように、どの場合であったとしても、この状況でやるべきことは、「次の教科を頑張る」ことでしかありません。それが自分の中でどれほどあたり前のこととして定着しているかによって、このような状況での対応力が変わってきます。
とサラサラと書いてきたのですが、では嚮心塾ではそれをしっかりと説明しているから、そのような絶望は起こりにくいんですね!と言われると、自信のないところです。人生がかかる場面で失敗をしたときに、その延長線上で悲観に陥ることの方がはるかに楽なので、どうしてもそのように受験生はなりがちです。失敗をしたときこそ自分を俯瞰することが大切だとこちらが口を酸っぱくして何度も説こうとも、本人が絶望したければ絶望をしてしまいます。そこからどう抜け出してもらうか、そのための必死の説得を何年もやってきてはいるのですが、それでもなお、うまく伝わる場合と伝わらない場合とがあります。
ただ、うまく伝わる瞬間のためには、先に上げたような頭で理解できる説明の仕方だけではなく、こちらが本気でその子の人生に良かれと思ってそう言っているとが伝わることが最低限必要だとは思っています。つまり「絶望するな。」という言葉が、「絶望しないほうが合格する!」を越えて「(僕が諦めていないのに)君が勝手に絶望するな。」という意味になっているかどうかが勝負である、ということです。その理不尽な指摘が、理不尽ではないと思えるほどに教えている側と生徒が同じ目標を持てているかどうかが鍵であるように思っています。
魯迅の言うように絶望も希望と同じく、虚しいものであることはおそらく事実であるのでしょう。
でも、そんなことはみんななんとなくはわかっていて、それでも絶望をしたいのは、絶望をした自分でも共感されるかどうかを確かめたくなるからでしょう。だからこそ、「絶望をしない!」と決意することは自身が人生の受け取り手から、能動的に生きる主体になることであると思います。しかし、その最後のひと押しの、全面的に自分の人生を引き受ける瞬間には教育という行為の働く余地があるのでは、と思ってこの仕事を続けているわけですが、まだまだそう簡単にはできず、なかなかうまくいかないことばかりです。ただ、最後まで諦めないように取り組んでいきたいと思います。
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