
今更ながらの感想なのですが、昨年10月に井の頭公園で劇団マタヒバチの『ホワイトゴーブラック ババババーン』というテント芝居を見てきました!
マタヒバチ自体は過去のどくんごツアー参加者の役者さん達が所属しておられるということで、存在はずっと知っていたのですが今年初めて見させていただきました。
本当に楽しく、またすごく作り込まれていて本当に素晴らしいお芝居でした。とにかくセリフがとてつもなく多い!それなのに頭で考えるというよりはしっかりと目の前の芝居を見させてもらえるような身体がしっかりしていて、それに感心させられました。また、一つ一つの場面を楽しめるように、ということだけでなく、縦糸としてのストーリーがあり、そのことから生まれる緊張感や風刺というものも感じさせてくれる芝居でした。
僕はどくんごばかり見ているので、いわゆる「ストーリーを追っていく芝居」というのにはあまり興味がなく、まあそれを見るなら本を読めばいいや、となってしまうので、マタヒバチも見る前は楽しめるかどうか心配だったのですが、一つ一つの場面がしっかりと工夫が凝らされていて。それら一つ一つの場面が、ストーリーや設定を忘れさせるほどのインパクトがあったと思います。その点ではどくんご好きの方は必ず楽しめると思います。
一方で、かろうじてつながっていく縦糸としてのストーリーや設定が批評性をもっているところもまたよいと思いました。説教くさくなく、しかし、しっかりと毒がある。見ていて楽しいだけでなく、何か後にひっかかりを残すような芝居になっている。それは縦糸があるからこその仕掛けであり、そのような独自性を追求するチャレンジングな取り組みに勇気を持って踏み込んでいて、それもまた本当に素晴らしいとも思いました。
マタヒバチの芝居を見て考えさせられたのは、物語やセリフが批評性をもつとき、観客から見て役者と自分との同一視がどこまでできるかどうかが、その批評の刃が自分に向くかどうかを大きく分けるということについてです。もちろん、ここでいう「同一視」とは完全に一体とみなすことではなく、同一の部分を見つける、ということです。共感する、と言い換えてもいいかもしれません。演者のセリフの中に、観客が自分自身を見いだせなければ、そのセリフの批評性は結局閉じた批評であり、観客自身を刺すものにはなりません。一方で役者に自己と同一の部分を見つけるためには、役者に感情移入しなければなりません。
だからこそ、批評性を持つ、考えさせる芝居が正しく機能するためには、実は共感を生むための(広い意味での)装置がなければならないと思います。マタヒバチの一つ一つの場面は本当に面白かったのですが、いくつかの場面では「面白い!」が共感へとは繋がっていきにくい気がしました。それ故に虚構の中に自分たちが身につまされる共感できる部分を見つけ、そしてそれがさらに批評をより痛切なものにする、というその一連のダイナミズムが少し弱いかな、と思ったところもあります。もちろん、これはとてつもなく難しいことです。どくんごはまさにそのような共感を誘発する装置としてとてつもない域にあると思いますが、それでも批評性をあの中にテキストとして入れようとすると、とたんに難しくなってしまうようにも思います。
登場人物に観客が共感できるか、ということを言い換えれば、登場人物の感じている必然性が観客に伝わるのか、ということでもあると思います。今年のどくんごで例を出せば、「行かなければ!」という言葉の必然性が最初は滑稽に聞こえながらもだんだんと哀しみと共感を喚び起こしていくように、です。文脈がないからこそ共感ができる場面はどくんごの真骨頂ですが、文脈を作ることで全体的な批評性が強くなったとしても共感は遠のきがちである(それもマタヒバチのあの熱量と密度をもってしても、です。本当に一人一人の役者さんの熱量も力量も半端なかったです)、というのは本当に難しいところだな、と強く感じさせられました。
ごく個人的な意見を言えば、僕は批評性をテクストやストーリーそのものに求めなくても良いのかな、と思っています。いやもちろん、批評性があることそのものは極めて大切です。政治運動や社会運動から切り離された芸術がもはや抜け殻としてコンテンツとして消費されるしかないのと同様に、批評性をもたない演劇、というのはもはや何の意味もないわけです(それさえあればよい、というわけではもちろんないです)。これはまた「全ての良い音楽は(社会に虐げられる側の苦しみを歌った)ブルースでなければならない」(by忌野清志郎)とか「全ての文学は虐げられる側の苦しみを描いている文学でなければならない」(by 太宰治)とかと同じことです。
一方で共感がただの共感で終わらずになぜか批評性を帯びていく、という瞬間は確かにあるわけで、それは決してテキストやストーリーを突出させない創作においてもまた可能であるのでは、と思っています。もちろんそれはとてつもなく難しいことであるとは思うのですが。(これは芝居に限らず人と人が接するときは常に難しいですよね。。伝えたいことを受け取ってもらうためには共感可能になってもらわなければならない。一方でそのような状態というのは批評に開かれる関係性にはならずに、むしろ批評を排除する関係性になりがちです。「言葉が必要ない関係性になるのは、言葉を伝えるためだ!」と思って僕も毎日もがいているのですが、長い時間生徒たちと接していてもなかなかに難しいです。それを一つの舞台の中で「できるかも!」という瞬間が作れているだけでもどくんごやマタヒバチの芝居の凄さがよくわかります。)
ともあれ、とてつもない量の試行錯誤の末に練り上げられていることのよくわかる、本当に素晴らしい舞台でした!もっと何回も見たかった!何より、本当に難しいことに必死に取り組んでいこうとしているという点で、ずっと応援し続けたい劇団だと思いました。また来年も是非見に行きたいと思います!
マタヒバチ自体は過去のどくんごツアー参加者の役者さん達が所属しておられるということで、存在はずっと知っていたのですが今年初めて見させていただきました。
本当に楽しく、またすごく作り込まれていて本当に素晴らしいお芝居でした。とにかくセリフがとてつもなく多い!それなのに頭で考えるというよりはしっかりと目の前の芝居を見させてもらえるような身体がしっかりしていて、それに感心させられました。また、一つ一つの場面を楽しめるように、ということだけでなく、縦糸としてのストーリーがあり、そのことから生まれる緊張感や風刺というものも感じさせてくれる芝居でした。
僕はどくんごばかり見ているので、いわゆる「ストーリーを追っていく芝居」というのにはあまり興味がなく、まあそれを見るなら本を読めばいいや、となってしまうので、マタヒバチも見る前は楽しめるかどうか心配だったのですが、一つ一つの場面がしっかりと工夫が凝らされていて。それら一つ一つの場面が、ストーリーや設定を忘れさせるほどのインパクトがあったと思います。その点ではどくんご好きの方は必ず楽しめると思います。
一方で、かろうじてつながっていく縦糸としてのストーリーや設定が批評性をもっているところもまたよいと思いました。説教くさくなく、しかし、しっかりと毒がある。見ていて楽しいだけでなく、何か後にひっかかりを残すような芝居になっている。それは縦糸があるからこその仕掛けであり、そのような独自性を追求するチャレンジングな取り組みに勇気を持って踏み込んでいて、それもまた本当に素晴らしいとも思いました。
マタヒバチの芝居を見て考えさせられたのは、物語やセリフが批評性をもつとき、観客から見て役者と自分との同一視がどこまでできるかどうかが、その批評の刃が自分に向くかどうかを大きく分けるということについてです。もちろん、ここでいう「同一視」とは完全に一体とみなすことではなく、同一の部分を見つける、ということです。共感する、と言い換えてもいいかもしれません。演者のセリフの中に、観客が自分自身を見いだせなければ、そのセリフの批評性は結局閉じた批評であり、観客自身を刺すものにはなりません。一方で役者に自己と同一の部分を見つけるためには、役者に感情移入しなければなりません。
だからこそ、批評性を持つ、考えさせる芝居が正しく機能するためには、実は共感を生むための(広い意味での)装置がなければならないと思います。マタヒバチの一つ一つの場面は本当に面白かったのですが、いくつかの場面では「面白い!」が共感へとは繋がっていきにくい気がしました。それ故に虚構の中に自分たちが身につまされる共感できる部分を見つけ、そしてそれがさらに批評をより痛切なものにする、というその一連のダイナミズムが少し弱いかな、と思ったところもあります。もちろん、これはとてつもなく難しいことです。どくんごはまさにそのような共感を誘発する装置としてとてつもない域にあると思いますが、それでも批評性をあの中にテキストとして入れようとすると、とたんに難しくなってしまうようにも思います。
登場人物に観客が共感できるか、ということを言い換えれば、登場人物の感じている必然性が観客に伝わるのか、ということでもあると思います。今年のどくんごで例を出せば、「行かなければ!」という言葉の必然性が最初は滑稽に聞こえながらもだんだんと哀しみと共感を喚び起こしていくように、です。文脈がないからこそ共感ができる場面はどくんごの真骨頂ですが、文脈を作ることで全体的な批評性が強くなったとしても共感は遠のきがちである(それもマタヒバチのあの熱量と密度をもってしても、です。本当に一人一人の役者さんの熱量も力量も半端なかったです)、というのは本当に難しいところだな、と強く感じさせられました。
ごく個人的な意見を言えば、僕は批評性をテクストやストーリーそのものに求めなくても良いのかな、と思っています。いやもちろん、批評性があることそのものは極めて大切です。政治運動や社会運動から切り離された芸術がもはや抜け殻としてコンテンツとして消費されるしかないのと同様に、批評性をもたない演劇、というのはもはや何の意味もないわけです(それさえあればよい、というわけではもちろんないです)。これはまた「全ての良い音楽は(社会に虐げられる側の苦しみを歌った)ブルースでなければならない」(by忌野清志郎)とか「全ての文学は虐げられる側の苦しみを描いている文学でなければならない」(by 太宰治)とかと同じことです。
一方で共感がただの共感で終わらずになぜか批評性を帯びていく、という瞬間は確かにあるわけで、それは決してテキストやストーリーを突出させない創作においてもまた可能であるのでは、と思っています。もちろんそれはとてつもなく難しいことであるとは思うのですが。(これは芝居に限らず人と人が接するときは常に難しいですよね。。伝えたいことを受け取ってもらうためには共感可能になってもらわなければならない。一方でそのような状態というのは批評に開かれる関係性にはならずに、むしろ批評を排除する関係性になりがちです。「言葉が必要ない関係性になるのは、言葉を伝えるためだ!」と思って僕も毎日もがいているのですが、長い時間生徒たちと接していてもなかなかに難しいです。それを一つの舞台の中で「できるかも!」という瞬間が作れているだけでもどくんごやマタヒバチの芝居の凄さがよくわかります。)
ともあれ、とてつもない量の試行錯誤の末に練り上げられていることのよくわかる、本当に素晴らしい舞台でした!もっと何回も見たかった!何より、本当に難しいことに必死に取り組んでいこうとしているという点で、ずっと応援し続けたい劇団だと思いました。また来年も是非見に行きたいと思います!
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