
もちろん、「いくら人格が信頼できる人であってもワールドカップで勝てる監督じゃなければダメだ。」とか、「そもそもそのような人格への同情論が日本のサッカーファンの見る目を鈍らせることが日本のサッカーのレベルを停滞させるのだ。」などという批判はできると思います。しかし、「目の前のワールドカップで勝つことを最大目標にする」という努力を4年ごとに繰り返し、そのために、監督をその4年間の中で最大のパフォーマンスを起こせそうな人に選び、そしてワールドカップ後はそれがまたリセットされた状態でゼロからスタートするということをいくら繰り返しても、僕はあまり成長がないと思うのです。批判をするにせよ、擁護するにせよ、岡田監督を育てよう、という教育的視点をもつファンがいったい何人いるのかが、僕は疑問であるのです。
たとえば、僕は98年のワールドカップで、当時の岡田監督がカズ(三浦知良選手)を直前にワールドカップの代表から外したときは、「カズを外してまで日本代表が勝っても仕方がないのが、この監督はわからないのか。」とがっかりした覚えがあります。その失敗を、岡田監督自身はこの12年間で学び、今回代表に川口能活選手を入れたのだと勝手ながら思っています。僕はそのような岡田監督自身の成長にこそ、興味があるし、何よりもすばらしいことであると思います。
その意味では、どのワールドカップも、どのオリンピックも、それがそれに関わる選手や監督にとって成長をする契機とならないのであれば、たとえ優勝してもあまり意味がないのでは、と思ってしまいます。もちろん、高い目標を掲げるからこそ、何となく参加するよりも遙かに成長する、という事実も当然のことです。しかし、高い目標を達成することに目がくらんで、そこまでの過程で人々を使い捨てようとするのであれば、やはりその代償は大きいと思うのです。僕自身は、サッカーというのは、戦争の代替品としてヨーロッパが開発した深い文化の一つであると思いますが、それが文化としての意味を損なわずに日本に根付いていくためには、やはりサッカーを契機として、人を育て合う、という視点が大切なのではないかと考えています。
もちろん、育て合う、といっても、相手に本気で頑張るつもりがなければ、その信頼はただ裏切られるだけであるでしょう。その信頼の根拠として、僕が大切だと思うのが、冒頭に述べた(岡田監督の)「人格」であるのです。「この人は我々の期待する結果を出すはずだ。」という気持ちは、信頼では決してありません。単なる投機的な予測でしょう。「たとえ結果として我々の期待とは違う結果になっても、そのことに対して心苦しいと本心で感じ、それをまた彼自身の成長の糧としてくれるはずだ。」という思いこそが、真の信頼であると思います。日本のサッカーファンは、もちろん僕も含め、そのような姿勢でワールドカップを見られるとよいのでは、と思っています。
教育とは、生徒に裏切られることが仕事です。生徒を信頼しては、その信頼が裏切られることを繰り返す。その痛みを裏切る本人に痛切に感じてもらうことを通じて、強制されて行うのではない、心からの努力が生まれると思っています。
この前、エンゼルスの松井秀喜が、1500打点を達成したときに、彼のヤンキース時代の名監督であるトーリ監督(現在はドジャースの監督)が、こう言ったそうです。
「誤解を恐れずに言えば、彼(松井)はファンではなく、ただチームのことを考えている。その姿勢をアメリカのファンは尊敬しているのだ。」
私たちは、そのようなファンでありたいものです(もちろん、「岡田監督はチームのことを考えていない!」という批判はありだとは思いますが)。



