
教育にとっていちばん大切なのは、教える側が裏切られ続けることだ、と思っています。裏切られる、とはつまり子どもたちのためにどこまでも徹底的に準備や努力を尽くし、思いを尽くし、そのうえでそれを彼ら彼女らの弱さ故に踏みにじらせていく、ということです。
もちろんその中には故意に踏みにじるという、養子が受け入れてくれた養父母に対する示すような愛情確認行為もあるかもしれません。しかし、殆どの場合、故意に踏みにじろうとするまでもなく、教わる側は教える側の思いを自らの弱さ、情けなさ故に踏みにじってしまうものです。僕自身もそのような苦い経験が過去にあります。そして「そのように必死に用意してくれたものを自分は踏みにじってしまった」という苦い思い以上に、その後の自己を鍛えてくれるものはありません。
だからこそ教師は目の前の生徒たちが自分の努力を軽い気持ちで踏みにじる、まさにそのときのために全てを徹底的に準備していくのです。そのように踏みにじることが自分の弱さ、愚かさ、準備や覚悟の足りなさゆえであることを彼ら彼女らが真に学ぶその日のために。これはまた本来親も同じでしょう。踏みにじられるために、思いやれるかどうか。踏みにじられ続けることに倦まずに、思いやり続けられるかどうか。そこに教育への覚悟が問われ続ける、と言ってもよいでしょう。
それは即ち、「罪」の概念を神や社会規範から切り離す、という営みでもあります。「人間に原罪がある」などという突飛な前提を外部の権威を導入してとりいれることもなく、あるいは社会を維持するためにという社会の成立を前提とすることで人間を社会に従属させるのでもなく、しかし「罪」は、人と人との関係性を通じて個人が人間性を形成する一つの契機になります。自分が他の人の思いやりを自分の弱さ故に踏みにじってしまった、という思いほどに反省する機会はなかなかないからです。親子では距離が近すぎてなかなかにそのようなきっかけを作ることが難しいからこそ、教育にはその可能性があります。だからこそ、教える側に立つ我々はどのように裏切られようとも、こちらから見放すわけにはいかないのです。(この辺りはドストエフスキーの『罪と罰』は確かにわかりやすい作品だと思います。ドストエフスキーは彼の作品群を通してキリスト教精神を小説にしようとしたのではなく、人間性にまつわる最も深い部分をキリスト教から取り戻し、それ以外の言葉を探ろうとしたのだ、と僕は解釈しています。)
まあ何が言いたいかというと、朝が苦手なセンター試験直前の大学受験生が朝から勉強できるようにするために正月明けから毎朝8時に塾に来ているわけですが、何回も寝坊され、今日もまた2時間も遅刻された、というお話でした。それでもまた明日、僕は朝8時に塾にいようと思います。
根本敬さんの紹介してくれた、「でもやるんだよっ!」の精神ですね!頑張ります。
もちろんその中には故意に踏みにじるという、養子が受け入れてくれた養父母に対する示すような愛情確認行為もあるかもしれません。しかし、殆どの場合、故意に踏みにじろうとするまでもなく、教わる側は教える側の思いを自らの弱さ、情けなさ故に踏みにじってしまうものです。僕自身もそのような苦い経験が過去にあります。そして「そのように必死に用意してくれたものを自分は踏みにじってしまった」という苦い思い以上に、その後の自己を鍛えてくれるものはありません。
だからこそ教師は目の前の生徒たちが自分の努力を軽い気持ちで踏みにじる、まさにそのときのために全てを徹底的に準備していくのです。そのように踏みにじることが自分の弱さ、愚かさ、準備や覚悟の足りなさゆえであることを彼ら彼女らが真に学ぶその日のために。これはまた本来親も同じでしょう。踏みにじられるために、思いやれるかどうか。踏みにじられ続けることに倦まずに、思いやり続けられるかどうか。そこに教育への覚悟が問われ続ける、と言ってもよいでしょう。
それは即ち、「罪」の概念を神や社会規範から切り離す、という営みでもあります。「人間に原罪がある」などという突飛な前提を外部の権威を導入してとりいれることもなく、あるいは社会を維持するためにという社会の成立を前提とすることで人間を社会に従属させるのでもなく、しかし「罪」は、人と人との関係性を通じて個人が人間性を形成する一つの契機になります。自分が他の人の思いやりを自分の弱さ故に踏みにじってしまった、という思いほどに反省する機会はなかなかないからです。親子では距離が近すぎてなかなかにそのようなきっかけを作ることが難しいからこそ、教育にはその可能性があります。だからこそ、教える側に立つ我々はどのように裏切られようとも、こちらから見放すわけにはいかないのです。(この辺りはドストエフスキーの『罪と罰』は確かにわかりやすい作品だと思います。ドストエフスキーは彼の作品群を通してキリスト教精神を小説にしようとしたのではなく、人間性にまつわる最も深い部分をキリスト教から取り戻し、それ以外の言葉を探ろうとしたのだ、と僕は解釈しています。)
まあ何が言いたいかというと、朝が苦手なセンター試験直前の大学受験生が朝から勉強できるようにするために正月明けから毎朝8時に塾に来ているわけですが、何回も寝坊され、今日もまた2時間も遅刻された、というお話でした。それでもまた明日、僕は朝8時に塾にいようと思います。
根本敬さんの紹介してくれた、「でもやるんだよっ!」の精神ですね!頑張ります。
- 関連記事
-
-
受験の功罪について。
-
練習は試合のように、試合は練習のように。
-
オッカムの剃刀。
-
裏切られ続けるために。
-
『め組の大吾』
-
『罪と罰』は代表作なのか。
-
お久しぶりです。
-



