
twitterで脈絡もなく、いくつかつぶやいているのは、ブログで書きたいことのための備忘録にしている状態です。今日もバタバタと忙しい中で、そんな中から書きたいと思います。
ドストエフスキーの代表作と言えば、『罪と罰』!と答える人も多いです。
アンケートを取ればそれが多数派なのでしょうが、一時期ドストエフスキーばかりを読んでいた僕にしてみれば、あれは
代表作ではなく、むしろ「ドストエフスキーお試し版」が『罪と罰』であり、「本当に救いのない作品ばっかり垂れ流して、こんなの誰が読むんだ!という作品ばかりですが、しかし、中には最後が重々しくなくちょっと綺麗にhappy endingなものもありますよ!ほら!『罪と罰』!」という位置づけの作品であると思っています。
だから、あれを読んでドストエフスキーを語る、というのはだいぶずれてしまいます。彼の作品はむしろ、『悪霊』とか『地下室の手記』とか、どうしようもない、何の救いもない物語を描くことにこそ、出て来る各々がそれぞれに必死に生きながらもしかし、どうしようもない悲惨さに打ちのめされていく、というそのあまりにも残酷な現実を描いているからこそ、価値がある作品になっていると思っています。
(と書いてみると、ドストエフスキーって自然主義なのね!エミール・ゾラっぽいのね!
という誤解を新たに生んでしまうのがまた厄介なところなのですが、ゾラの自然主義は「この社会の悲惨さ」をテーマにしているという特徴があるのに対し、ドストエフスキーは「人間の本来持つ運命の悲惨さ」を描き出すことに長けている作家であると思っています。私たちは愛情や良心が足りないから、悲惨な目に合うのではなく、むしろ愛情や良心をもっているからこそ、自ら悲惨な運命を選び取っていかざるをえない、というその人間存在自身の悲惨な運命を彼は描いているからこそ、彼の真骨頂はあります。)
このように、広く一般に「代表作」と思われているものも、その作家の作品全体を見てみると、その作家の本質を理解するのにはむしろ妨げになる、というものも多いです。もちろん、本質が何か、など一義的に決まるものでもないので、ディズニーファンが「パレードがディズニーランドの一番の目玉!」と言って場所取りにあくせくするのを尻目にライト層はアトラクションに乗るように、一方は『罪と罰』最高!もう一方は『悪霊』最高!と思っておけば、良いとも言えます。どちらもディズニーランドであるのと同様に、どちらもドストエフスキーです。僕がそこについついこだわってしまうのは、やはり自分自身が人生をかけて他の人にメッセージを伝えたいと思っているからこそ、そこが誤解されて伝わることをどうしても嫌だなあと思ってしまう、というエゴゆえであるかもしれません。
(同じように、『走れメロス』は太宰治の代表作なのか問題など、これは言い出せばキリがないことではあるのですが、ここでやめておきます。)
伝えるべきメッセージは広まっていくとすれば誤った形でしか広まっていかない。もちろん、広まっていくのが誤った形であったとしてもごく少数の人に正しいメッセージが伝わればまだ良いでしょう。しかし、それすらもまあ難しいわけです。そのような残酷な現実を目の前にして、それでもメッセージを発し続けるということにどのような意味があるのでしょう。
この問題へのアプローチの一つはそれを伝えるために言語を鍛えていく、ということです。教えていていつも痛切に感じるのですが、言語能力が高い子どもたちというのは端的に言えば、周りから理解されていないという苦しみを抱えながら成長してきた子どもたちです。それは多くの場合はまずは親からであり、兄弟からであり、学校の先生や友人からでしょうが、その誤解に苦しんできた人間が、何とかその誤解を乗り越えて理解してもらおうともがいてきた挙句に言語能力が発達する、ということになっています。
つまり、言語能力を鍛えるためには、孤独でなければなりません。孤独ではない人間には、言葉は必要がないからです。どのような勉強も基本となる言語能力が高いか低いかでその上達具合が大きく変わってしまうわけですが、そのような一般に「知性」と見られているもの、基本的な言語能力、というのは幼児期の孤独を代償として初めて得られるものであり、その孤独が深ければ深いほどに、その能力も鍛えられ、磨き抜かれる、ということになります(ちなみにここでいう「孤独」とは物理的なものではなく、精神的なものです。だからこそ「親がいる/いない」や「友達がいる/いない」はあまり関係がないものです)。その点では、知性とはつまり呪いであるのです。
そして、この知性という「呪い」は、それを発達させてきた過去が呪われていただけではなく、その人の未来をも呪います。そのような孤独を乗り越えようと言語能力が発達すればするほどに、自分の伝えたいものが伝わらないことに気づかされていきます。どのように鍛え上げた言語能力も、それが伝わる内面がない相手には伝えることができません。伝わるわけがない、しかし表現をしないわけにはいかない。しかし、表現をしたとしてもまずそれは伝わらないし、ごく少数に伝わったかと思えばそれとは比較にならないほど多くの人には誤解をされていく、ということになっていきます。
(さらには、その伝わるごく少数に対してもなお、些細な違いを見つけざるを得ないのが知性です。逆に言えば大同につき小異を無視できるのは、知性の働きではなく、蛮勇の働きでしょう。)
知性は自らの孤独から始まり、それを乗り越えようとして磨き抜かれた末に、自分をより一層孤独に陥らせるものです。
では、その孤独を乗り越えようとしてなお、書こう、話そう、伝えよう、という原動力は何であるのか。それこそが愛情であると僕は思っています。つまり、これをわからなければわからないでいい。何なら自分の方が間違っていて、こんなことをわからなくても、むしろわからない方が、人間は幸せなのかもしれない。しかし、それでもなお、自分にはこれをわからないで生きる人生を見過ごすわけにはいかない。こう書いてしまうととても押し付けがましいように思いますが、そのような気迫や愛情を感じる本だからこそ、ドストエフスキーの(僕が勝手にそうであろうと考えている)言い分も、少しは勝手に代弁したくなってしまいます。
翻って、自分はドストエフスキーのように語ることができているのでしょうか。伝えたくないけれども伝えなければならないと自分が感じるものを目の前にして、怯まずに語ることができていると言えるのでしょうか。あるいは、それを語ることによって、家族や生徒たち、その他すべての人からうしろ指を差されようともそれでも語る意欲を失っていないと言えるのでしょうか。
そう考えれば、恥ずかしいこと、徹底できていないことも多いのですが、それでも日々歯をくいしばって、相手のために伝えるべきと思うことを何とか伝えていこうと思います。
ドストエフスキーの代表作と言えば、『罪と罰』!と答える人も多いです。
アンケートを取ればそれが多数派なのでしょうが、一時期ドストエフスキーばかりを読んでいた僕にしてみれば、あれは
代表作ではなく、むしろ「ドストエフスキーお試し版」が『罪と罰』であり、「本当に救いのない作品ばっかり垂れ流して、こんなの誰が読むんだ!という作品ばかりですが、しかし、中には最後が重々しくなくちょっと綺麗にhappy endingなものもありますよ!ほら!『罪と罰』!」という位置づけの作品であると思っています。
だから、あれを読んでドストエフスキーを語る、というのはだいぶずれてしまいます。彼の作品はむしろ、『悪霊』とか『地下室の手記』とか、どうしようもない、何の救いもない物語を描くことにこそ、出て来る各々がそれぞれに必死に生きながらもしかし、どうしようもない悲惨さに打ちのめされていく、というそのあまりにも残酷な現実を描いているからこそ、価値がある作品になっていると思っています。
(と書いてみると、ドストエフスキーって自然主義なのね!エミール・ゾラっぽいのね!
という誤解を新たに生んでしまうのがまた厄介なところなのですが、ゾラの自然主義は「この社会の悲惨さ」をテーマにしているという特徴があるのに対し、ドストエフスキーは「人間の本来持つ運命の悲惨さ」を描き出すことに長けている作家であると思っています。私たちは愛情や良心が足りないから、悲惨な目に合うのではなく、むしろ愛情や良心をもっているからこそ、自ら悲惨な運命を選び取っていかざるをえない、というその人間存在自身の悲惨な運命を彼は描いているからこそ、彼の真骨頂はあります。)
このように、広く一般に「代表作」と思われているものも、その作家の作品全体を見てみると、その作家の本質を理解するのにはむしろ妨げになる、というものも多いです。もちろん、本質が何か、など一義的に決まるものでもないので、ディズニーファンが「パレードがディズニーランドの一番の目玉!」と言って場所取りにあくせくするのを尻目にライト層はアトラクションに乗るように、一方は『罪と罰』最高!もう一方は『悪霊』最高!と思っておけば、良いとも言えます。どちらもディズニーランドであるのと同様に、どちらもドストエフスキーです。僕がそこについついこだわってしまうのは、やはり自分自身が人生をかけて他の人にメッセージを伝えたいと思っているからこそ、そこが誤解されて伝わることをどうしても嫌だなあと思ってしまう、というエゴゆえであるかもしれません。
(同じように、『走れメロス』は太宰治の代表作なのか問題など、これは言い出せばキリがないことではあるのですが、ここでやめておきます。)
伝えるべきメッセージは広まっていくとすれば誤った形でしか広まっていかない。もちろん、広まっていくのが誤った形であったとしてもごく少数の人に正しいメッセージが伝わればまだ良いでしょう。しかし、それすらもまあ難しいわけです。そのような残酷な現実を目の前にして、それでもメッセージを発し続けるということにどのような意味があるのでしょう。
この問題へのアプローチの一つはそれを伝えるために言語を鍛えていく、ということです。教えていていつも痛切に感じるのですが、言語能力が高い子どもたちというのは端的に言えば、周りから理解されていないという苦しみを抱えながら成長してきた子どもたちです。それは多くの場合はまずは親からであり、兄弟からであり、学校の先生や友人からでしょうが、その誤解に苦しんできた人間が、何とかその誤解を乗り越えて理解してもらおうともがいてきた挙句に言語能力が発達する、ということになっています。
つまり、言語能力を鍛えるためには、孤独でなければなりません。孤独ではない人間には、言葉は必要がないからです。どのような勉強も基本となる言語能力が高いか低いかでその上達具合が大きく変わってしまうわけですが、そのような一般に「知性」と見られているもの、基本的な言語能力、というのは幼児期の孤独を代償として初めて得られるものであり、その孤独が深ければ深いほどに、その能力も鍛えられ、磨き抜かれる、ということになります(ちなみにここでいう「孤独」とは物理的なものではなく、精神的なものです。だからこそ「親がいる/いない」や「友達がいる/いない」はあまり関係がないものです)。その点では、知性とはつまり呪いであるのです。
そして、この知性という「呪い」は、それを発達させてきた過去が呪われていただけではなく、その人の未来をも呪います。そのような孤独を乗り越えようと言語能力が発達すればするほどに、自分の伝えたいものが伝わらないことに気づかされていきます。どのように鍛え上げた言語能力も、それが伝わる内面がない相手には伝えることができません。伝わるわけがない、しかし表現をしないわけにはいかない。しかし、表現をしたとしてもまずそれは伝わらないし、ごく少数に伝わったかと思えばそれとは比較にならないほど多くの人には誤解をされていく、ということになっていきます。
(さらには、その伝わるごく少数に対してもなお、些細な違いを見つけざるを得ないのが知性です。逆に言えば大同につき小異を無視できるのは、知性の働きではなく、蛮勇の働きでしょう。)
知性は自らの孤独から始まり、それを乗り越えようとして磨き抜かれた末に、自分をより一層孤独に陥らせるものです。
では、その孤独を乗り越えようとしてなお、書こう、話そう、伝えよう、という原動力は何であるのか。それこそが愛情であると僕は思っています。つまり、これをわからなければわからないでいい。何なら自分の方が間違っていて、こんなことをわからなくても、むしろわからない方が、人間は幸せなのかもしれない。しかし、それでもなお、自分にはこれをわからないで生きる人生を見過ごすわけにはいかない。こう書いてしまうととても押し付けがましいように思いますが、そのような気迫や愛情を感じる本だからこそ、ドストエフスキーの(僕が勝手にそうであろうと考えている)言い分も、少しは勝手に代弁したくなってしまいます。
翻って、自分はドストエフスキーのように語ることができているのでしょうか。伝えたくないけれども伝えなければならないと自分が感じるものを目の前にして、怯まずに語ることができていると言えるのでしょうか。あるいは、それを語ることによって、家族や生徒たち、その他すべての人からうしろ指を差されようともそれでも語る意欲を失っていないと言えるのでしょうか。
そう考えれば、恥ずかしいこと、徹底できていないことも多いのですが、それでも日々歯をくいしばって、相手のために伝えるべきと思うことを何とか伝えていこうと思います。
- 関連記事
-
-
オッカムの剃刀。
-
裏切られ続けるために。
-
『め組の大吾』
-
『罪と罰』は代表作なのか。
-
お久しぶりです。
-
「不適合」とは。
-
塾のホームページを作りました!
-



