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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

「不適合」とは。

自分自身を振り返って最近よく反省するのは、自分がいかに偏っているか、です。明白にわかりやすい筋道を示せていると思っていても、それが相手に理解できないだけでなく、真剣に考えることすらなく却下されるときに、どうしてもバカにしてしまいます。

これだけ書くと、塾の教師としては失格なようにしか聞こえませんが、塾の生徒に対しては(彼ら彼女らの「鎧」となっているプライドを剥がすために戦略的にそのような態度を取ることはあったとしても)基本的にそのようなことはありません。

問題は、やはり大人に対して、なのですね。子どもたちに対しては無限の忍耐をも辞さないつもりではあるのですが、大人達に対してはどうしても、「もっと悩めよ!」「もっと考えろよ!」と冷たく突き放しがちになってしまいます。

もちろん、謙虚に自分自身の考えの足りない可能性について、常に考え抜いて努力されているような方々に対しては、こちらもやはり頭を垂れるしかありません。僕自身が若い頃に世の中に勝手に絶望していたよりははるかに多くのそのような先達がいらっしゃる、ということはここまで生きてきた中で確信できることであると思っています。ただ自分のことを「世間の人よりは賢い」と思ってそれ以上の思考を停止している大人に対しては、どうしても苛烈な対応をしてしまいがちです。

話をもとに戻せば、ある明白な筋道の提案をそれでも考えることすら拒絶する、というのはそれが彼ら彼女らのコミュニケーションの「型」に適合していない、ということでもあります。用意された「型」に適合しないものについてはそもそも考えないようにしておく方がコミュニケーションの、あるいは人生も「効率」はよくなるわけです。

しかし、そのように「既存の型」に適合することを突き詰めていけば、結局なんのための人生であるのかはよくわからなくなっていきます。そして、子どもたちが彼ら彼女らを愛しているはずの親御さんに苦しめられるのは、そのように「既存の型」に適合することばかりを求められてしまうからです。

まあ、学習塾の講師とか予備校の先生とかは社会不適合者です(皆さん、僕に言われたくはないでしょうが!)。学校の先生や大学の先生とはわけがちがいます。経済的に不安定なだけではなく、役に立たなければ切り捨てられ、何一つ権威や権力とは無縁の職業です。僕もまたいつ路頭に迷うかわかりません。

しかし、そのような周縁に生きる人間だからこそ、既存の型を押し付けられて苦しむ子どもたちに共感し続けることもまたできるのでしょう。
それはやがて、その子どもたちが成長して大人になり、社会に適合していき、彼らとは違う人間になっていっても、それでも彼らの子供時代を守ったことにはいくばくかの意味があるのだと思います。

そして、もちろん酒を飲んでパチンコしての不適合では説得力もないのかもしれませんが、既存の社会では評価し得ない、しかし必要な努力をしていくことは、既存の社会に不適合であったとしても、新たな社会を紡ぐきっかけになるかもしれません。

もちろん嚮心塾では、一人一人の生徒に、親御さんにお金を出してもらっても通う価値のある大学に合格してほしい、という思いで一心に鍛えています。その目的はそこだけをとれば、一人一人の塾生に「社会に適合」してもらうために全力を尽くす、と言えるでしょう。しかし、それだけでなく、そこでの彼ら彼女らの努力と結果が社会に適合することを超えていくこともあるかもしれません。そのように彼ら彼女ら一人一人の頑張りが、既存の社会に適合するだけではなく、新たな社会を紡ぎ始める一歩となることに対しても、心から応援し続けたいと思っています。

その上で、僕自身は自分自身の努力でもっとできることがないかを、丹念に探し続けて行きたいと思っています。最初に書いたことも、言ってみればこちらの努力によって改善の余地はいくらでもあります。型にはまったコミュニケーションの隘路からでも、少しでも正しい内容を伝えていけるように、少なくともこちらからは決して諦めないように。もっと自分自身を律して伝えていくことで、形式しか見ることができない大人たちにも、何とか実体を伝えていけるように、努力を続けたいと思っています。
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