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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

「教育」が虐待に変わるとき。

児童虐待のニュースは跡を絶ちません。そのたびに心を痛める人も多いこと、なんとかしたいと思い、手の足りていない児童相談所の拡充を少しでも目指すべきだ!と主張することはもちろん抗うべくもなく、正しいと思います。しかし、そのようなあくまでも外からの取り組みを進めるだけでなく、「虐待」がなぜ起こるのか、について虐待する親を「人でなし!」などと批判する前に、彼ら彼女らの気持ちを理解していくことがとても大切であると考えています。

これに関して、糸口となるのはこのような事件が発覚するたびに、虐待をしていた親から「教育だと思っていた。」「しつけだと思っていた。」というコメントが繰り返されることだと考えています。つまり、彼らは(当たり前ですが)虐待をしようと思って虐待をしていたわけではなく、子供に「教育的指導」「しつけ」をしているつもりであるのに、それが結果として子供を死に至らしめてしまった、ということになります。だからこそ、彼らの考える「教育」や「しつけ」がどこから虐待へと転じてしまっているのかを考えることは、彼らと何ら変わることのない私達自身にとっても、大切なことであるのです。

では、教育と虐待の境目とはどこにあるのでしょうか。もちろん、暴力を振るう、とか食事を抜いたり減らしたりするといった具体的な行為については、明確に虐待であるといえるでしょう。しかし、そのように一般的に「虐待」として共通理解が得られやすい行為を列挙していく方向でなく、もっと抽象化して定義するとすればそれは、「現に効果が上がっていない教育をずっと続けること。」と定義できるように思っています。すなわち、現に効果が上がっていない教育方法を続けることは、虐待である、という認識をもつことが大切であると思います。

教育やしつけという目的を持ち、それを通じて我が子の「問題点」を直そうとするのであれば、仮に暴力をふるったり、食事を抜いたり、という方策が自分の子供にとってその当初の親が問題視した行動を減らす方向へと機能しているかどうかを絶えずチェックするはずです。そしてそれによってその子の行動が改善していればよいですし、そうでなければまた別の手段を考えていく、ということが教育やしつけであると思います。(もちろん、これには「効果的な体罰ならそれを容認するのか」という問題があります。これに関して難しいのはたとえば暴力や食事を抜くなどの虐待行為によって外見上はそのような子供の「問題」行動が収まる、という短期的成果を得てしまうこともある、ということです。僕自身はそれがあくまでも外見上の成果でしかない、という点でこれを否定しますが、長くなるのでそれはまた別の機会に書きたいと思います。)

しかし、実際にはそのようなチェックはほとんど為されていないのが現状であると思います。そのような自分がそれしか知らないような教育方法・しつけ方法で子供の行動が改善するはずであると思いこんでいる親からすれば、うまく改善されない、という事実に対して「自分の教育方法と努力は正しい。それによって改善しない子供が悪い。」という気持ちになっていきます。このような気持ちになれば、当然「だからこそ、自分が子供に暴力をふるったり食事を抜いたりすることは、そのように自分の言いつけをちゃんと聞かない子供にとっての罰であり、正当である。」という自己正当化のサイクルが生まれてきます。

すなわち、自分の「しつけ」や「教育」に効果がないことを自分の方法に問題があるかどうか、他の方法を試してみるべきか、という可能性には考え至らずに、「自分の方法は正しい(だって、これしか私は知らないのだから。)。だとすれば、それで改善しないのはこの子が悪い。」という思考プロセスを経て、「だから「問題」行動を改善しようとしないこの子にとって、自分の行う「しつけ」が多少苦しみや痛みを伴うものであったとしても、それはこの子が悪いのだから、仕方がない。」と変質していきます。そして、さらには自身がそのような「正当な暴力」を振るうことのできる立場にいることに、喜びさえ覚えるようになります。

私たちの人生は、苦しい。苦しみながら虐げられ、様々なことを我慢して生きているわけです。その中で「正当な暴力」を振るえる立場を(仮にそれが自らの思い込みに過ぎないとは言え)得てしまえば、それを止めるだけの自制心などないことは、たとえば昨日オウムの受刑者7人の死刑が執行されたときに、松本麗華さんに浴びせられた言葉の暴力を見ればよくわかるでしょう。そのようにして、人は暴力が「正当」であれば、それに手を染めたがってしまいます。

このように彼らの心理をたどれば、彼らと僕らの心理はひとつづきです。我が子の子育ての中で、ここに書いたようないらだちを感じずに育ててきました!というのは僕は偽善者でもない限り言えないのではないか、と自分自身の子育てを振り返っても思います。子供は大人の言うことなど聞きません。そもそも大人が何を「問題」と見ているかもよくわかりません。それを理解してもらうための手段を尽くすことなく、自分の既存の手段で伝えようとしては全く伝わらずにイライラする。そこから虐待まではほんのすこしの道のりです。だからこそ、ひどい虐待が明るみになっていたときに、そのような虐待をしてしまった親を「非人間」扱いすることこそが、僕は間違いであると思います。

あるいは、です。たとえば多くの「進学校」で出されている宿題の中には、「教育」とはいえず「虐待」としかいいようのないもの、この宿題をやることで生徒にどのようなプラスの効果があるのかわからないような「写経」のような宿題がたくさんあります(「問題集の膨大な数の問題をすべて解いて、わからなかったら解答を写しなさい。」という類の宿題です。こんな雑駁な分量だけ多いやり方によって、生徒に力がつくわけがありません。)。そして、それをやってくることをむりやり生徒に強いる先生方も残念ながら、多いのです。これらもまた、自分の教育方法が本当に効果的かどうか、目の前の生徒に合っているかどうかを吟味しないまま、「この方法しかない!」と信じ込んではそれを無理矢理子供たちに強制している、という意味では、虐待であると言えるでしょう(さすがにそれを「努力しない子達が悪いのだから正当な暴力だ!」と教師が認識している、とまでは思いたくありませんが。。でも残念ながらそのようになってしまっているケースもあると思います。)。子供たちの時間を、彼ら彼女らにとって無意味な作業で奪ってしまう、ということがどれだけ大きな罪であるのか、だからこそ教育に携わる人間は、親であれ教師であれ、自分のやり方が目の前の子供達にとって効果を上げられているのかどうかを、まず自分自身が誰よりも厳しくチェックし続けていかねばなりません。

教育は、このように容易に虐待へとなりえます。だからこそ、今自分がしていることが、本当に目の前の子供達のためになっているのかを、絶えず疑い続ける姿勢が親にも教師にも重要であるわけです。

この仕事をしていると、いかに親や教師の独りよがりの熱意や愛情が、子供たちにとって単なる虐待にしかなっていないかを思い知らされます。その中で肉体的な死に至るものは少ないのですが、子供たちの心や将来、その他様々なものをその「虐待」によって殺してしまっている、というケースがとても多いと思っています。言い換えれば、ほとんどの学校や家庭において、広義の「虐待」は起きています。

もちろん、僕自身もまた、その失敗から逃れられるわけではありません。これだけ教育のことばかり考えてきてそれに取り組み続けてきてもなお、「今の叱り方は単なる虐待でしかなかった。失敗した。。」と思う判断ミスも多くあります。だからこそ教育というのは本当に難しいことであるという認識をみんなで共有した上で、伝えたいことが子供たちにどう伝わっているのか、逆にどう伝わっていないのかを懸命に目を凝らして見続け、伝わらないときにはその伝え方の手法を考えたり他の人から学んでいくことが大切であると考えています。

人間は基本的に、自分の見たいものしか見ない生き物です。自分が懸命に努力して、それでも伝えるべきものが伝わらないとすれば、それを相手の努力が足りない所為にしたくなります。しかし、それこそが教育を虐待へとおとしめる入り口であるのだと思います。そこで自分自身の手法に問題があり、他の話し方、他の実践の仕方から何とか伝えるべきものを伝えられないか、鍛えるべきものを鍛えられないかを絶えず反省し、徹底的に探し続けることでしか、自分が愛しているはずの我が子や教え子を自分の手や言葉でただ苦しめるだけになる、という悲劇を避けることはできません。

僕自身も少しでも自分の行う指導が虐待に陥らないようその精度を少しでも高めていくとともに、このことを何とか伝えていけるように、必死に各ご家庭や学校の先生にも向き合い、子供たちを守っていければと思っています。
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