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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

成功は失敗のもと。

「失敗は成功のもと」という言葉はよく使われます。それだけでなく、このブログでも何度も書いてきましたし、たとえば現在配布しているパンフレットでもそのことについて書いています。(「何度も、間違えよう。」)これについては一般に広まっている考え方でありながら、その実践がなかなか難しい、という意味でもその重要性について繰り返し強調していかねばならないことであると思います。

ただ今回はそれとは逆のことについて書きたいと思っています(ですので、ブログタイトルは間違いではありません!)。

一般に成功は失敗のもとでもあります。これはどういうことかといえば、人間の失敗にはたいてい彼らがそうする理由があり、そしてそれは殆どの場合彼らがそのような態度、行動、考え方で過去に成功してきているのがその理由である、ということです。つまり、過去においてそのようなやり方である程度の成功を収めているからこそ、そのやり方がいつでもどんな場合でもうまくいく!と思い込み、そのやり方を継続していく中でその過去の成功したやり方がうまくいかないような状況に変わっているのにも関わらず、同じやり方を続けて失敗を続けてしまう、ということです。

具体的に勉強に関して言えば、たとえば単純に暗記さえ頑張れば中間テストや期末テストはなんとかなる、という成功体験を繰り返してきた結果として、はるかに範囲が広くはるかに難易度が高い受験に関しても「とりあえず覚えればいいんでしょ?」というように取り組んでは失敗する、ということはとても多いのです。逆に(それよりはケースとしては少ないのですが)理解をすることを徹底してきたがゆえに、「理解していれば覚えていなくても大丈夫!」と覚えることを軽視し、時間のきつい入試ではそれゆえに間に合わなくなる、という失敗もあります。

これは別に受験勉強に限りません。サッカーでも強引にシュートを狙うフォワードよりも周りのプレイヤーを使えるタイプのフォワードになろう、ということで成功してきたプレイヤーがその考えにとらわれ、そうは言ってもシュートを打つべき場面で打たないがゆえに大成しない、ということもあります。あるいは将棋は自陣の固さがまず大事でしょ!と固めてから殴り合うことで強くなってきた棋士が、昨今のソフトの発達以降の自陣が薄いままに進めていく将棋に適応しにくい、ということもあります。どの世界でも、それこそ超一流のプロであっても、今までの自分の成功を形作ったものが、状況が変われば自分の失敗の源泉となってしまうこともまた多いのです。それほどに「これさえやっていれば永遠に大丈夫!」と言えることなど、どのような分野においてもありません。だからこそ、考え続け、変わり続けていかねばなりません。

嚮心塾でやっていることは、だからこそ、その一人一人の「成功体験」の効用と限界を見定め、その成功体験のままに任せていい部分と、それでは通用しない部分とを指摘しながら、受験生一人一人が過去の成功にとらわれて自分が身につけるべき努力の方向性を勝手に局限しないように、丹念に押し広げていく作業であると言えるでしょう。その点で、「成功は失敗のもと」であることをどれだけ教える側が自覚できているかどうかが重要となります。

ただ、この「成功は失敗のもと」もまた、口で言うのは簡単なのですが伝えることが極めて難しいものです。なぜなら、そのような成功はその受験生にとっては自己のidentityにも繋がっているからです。40年間足を棒にするような聞き込みで犯人を捕まえてきた刑事さんが(そんな方が本当にいるのかは知りませんが)聞き込みよりもむしろtwitterをチェックする方が犯罪捜査に役立つようになったとしても、そこに対応することは単に先入観があるから難しいというだけではなく、自己の人生を否定するのに近い感覚をもつと思います。たとえば大学受験生のようにまだ18歳くらいの子たちであっても、そのような「これを否定したら自分ではない」という思い込み故に努力をしても力がつかない、という悪循環に陥っていることが多いのです。

そしてそれは、彼らのidentityに関わる部分であるからこそ、そのような指摘を聞いてもらうためにはそれを指摘する側との強い信頼関係が必要になります。彼らのidentityを否定したいわけでも、枠に入れて無理やり自分の理想に近づけたいわけではなく、純粋にそのような過去の「成功」にこだわること自体が次の限界を産んでいることを指摘して受け入れてもらうためには、そのアドバイスが単に教師の側の都合や偏見ではなく、本当に受験生本人にとってそれが必要であると教える側が判断していること、またその主張には少なくとも伸び悩んでいる彼にとって試すべき価値があるかもしれない、ということを理解してもらう必要があるのです。

この信頼関係を築いていくのが本当に難しい、というのが教えていての実感です。そして、この信頼関係を築くのを非常に難しくしているのは、そもそも子供たちにとってほとんどの周りの大人は教える側の都合、あるいは偏見、好みなどによって、子供たちに大人達が成功したやり方を(何の根拠もなく)矯正させようとしてくるケースがとても多い、という不幸な事実ゆえでもあります。

だからこそ、まずは子供たち自身の成功体験やidentityに寄り添い、それに対して僕自身が偏見もなく、むしろ肯定的に評価し、その成功体験とそれから導かれる彼らの方法の効用については最大限に評価していった上で、その限界を指摘する、というプロセスをとっていく必要があるわけです。(ちなみにこの「成功は失敗のもと」という点に注意深くあれば、アドバイスをする人が先輩であれ、兄弟であれ、親であれ、教師であれ、自分の成功体験を語るということがいかに生徒にとっては有害であるのかにも思い至るはずです。その成功体験はそもそも状況が違うだけではなく主体が違うわけで、自慢話以上の何かのヒントになることの方がむしろレアケースであると思います。むしろ失敗体験の方がアドバイスとしては有益なことが圧倒的に多いです。)

さらに話を広げれば、子供たちが「何かを理解できない」ということは、だいたい「何かを理解できている」がゆえであるのです。いや、これは子供たちに限りません。大人たちについてもそれは言えるでしょう。自分にとって理解できないものを真に理解できなくしてしまっているのは、自分が既に理解している何かに帰着させて考えよう、という考え方です。もちろん多くの場合において、自分が理解している何かに帰着させて考える、ということは多くの成功体験を生むわけですが、同時にその「既に自分が理解できているもの」に帰着できないものについては拒絶するという姿勢につながります。「理解は無理解のもと。」でもあるわけです。しかし、その「既に自分が理解できているもの」に帰着できないものをこそ、受け入れ、意味を考え、咀嚼していく作業こそが実は、過去の自分の延長ではない自己の可能性を開くためには、とても重要であると思っています。どのような理解にも効用と限界があることを、常に意識していかねばなりません。

ともあれ、今年もまた一人一人のちっぽけな成功体験に閉じこもって生きることのない受験生生活を受験生達が送れるように、そしてそれをまず伝えられるだけの信頼関係を築いていけるように、日々努力していきたいと思っています。
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