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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

普段温厚な人がキレると、なぜ私たちは怖く感じるのか。

素朴な疑問として、普段温厚な人がキレるとなぜ私たちは怖く感じるのかについて、考えてみたいと思います。

もちろん、まず最初に言えるのは「いつもと違う」ということがこれから起こる事態の予測可能性を大きく下げる、という事実に対して恐怖を感じるという理由です。人間は基本的に繰り返すこと、ルーティーン化することで自らの注意力を落としてでも目の前のことに対処できるようにすることで日常生活を送っています。だからこそ、その今までの習慣が通用しなくなる事態に関しては、根本的に恐怖を感じやすいからです。それは今までに習慣化してくる中で不要としてきた自身の注意力を再び喚起しようとする自己防衛本能のようなものであると思います。

ただ、これだけが理由ではないのかな、と僕は思っています。普段温厚な人がキレる時、私たちは「彼or彼女が怒っているのは、彼or彼女の側に怒る原因があるのではなく、私の側に怒らせる原因がある。」という事実に思い当たらされる、ということも大きいのではないかと思います。裏を返せばいつでもなんでも、細かいことにプリプリ怒っている人は、目の前の人に対して「怒るべき事実が今ここに存在している」ということを伝えることができません。普段怒らない人が怒るからこそ、それが怒っている主体の属人的な要素ではなく、怒るべき(あるいは怒られるべき)事実がここにある、という事実の提示に繋がるのであると思います。その「怒られるべき」事実の提示に対して自分から反省がなされれば健全ではあると思うのですが、反省をする、というのは大人になればなるほどできなくなるものですから、自分が反省すべきことはない、という前提に立った上で、目の前に提示された事実の解釈として「怖い」という反応が起きるように思います。

このことを教育に引きつけて話せば、普段から何もかもを厳しく取り締まる先生の言うことは生徒たちにとっては「何もかもをきちんとやらねばならないのだ!」という気づきには全く繋がるどころか、「あの人はそういうウルサイ人だね!まあ、気にしなくていいや。」という反応になります。逆に自分たちに自由を認めてくれたり何でも任せてくれる先生が「でも、これだけはきちんと守れ!」という時には、どのように幼いあるいはやんちゃな子供であっても「これは守らなければならないルールだ!」と必ず認識します。厳しい注意が注意する側の属人的な要素であるのか、それとも大切な事実の提示であるのかを彼らは賢くも判断している、ということになるわけです。だからこそ、親や教師にとっていちばん大切なことは、いかにガミガミ言わないか、言うとしてもその頻度をいかに落とすことができるか、であるのです。

このように教育的効果を考えれば、怒る、あるいは注意するというのは出来る限り頻度を落とした方がはるかに効果的である、という結論になります。「うちの子は何回言っても言うことを聞かない!」ではなく、「うちの子に何回も言えば言うことを聞くわけがない」のです。「何回も言う」ことが、そのことへの注意や関心を低下させ、それが重大な事実の提示ではなく、単にその人がうるさい人だから怒っているのだ、という結論につながってしまうのだと思います。大切な注意をより効果的にするためには、普段から注意する頻度を出来る限り少なくすること、子どもたちの自発性を出来る限り尊重した上で、それでもここは直さなければならない、というところに関しては決して譲らずに注意をしていく、ということが必要であるのです。

ここまではまあ当たり前の結論なのですが、さて、なぜ親や教師は何回もガミガミと怒ってしまうのでしょうか。もちろん、これには様々なくだらない理由もあります。算数の掛け算の順序の強制や、分数の線や筆算の線を引くのに定規を使わせる、などはその代表例でそれらは主にその指導の合理性を度外視して、子供たちに盲目的な従順さを学ばせるための指導になってしまっていると思います。
これらの論外な指導はひとまず脇において、その「ガミガミ」を起こしてしまう理由の中で一番問題であるのは、「完璧主義であること」です。そして、その完璧主義とは子供のためではなく、主に教える側のためであることがとても多いと感じています。子供達が何か「正しくない」ことをしていると、自分が気になって仕方がない。あるいはそれを今指摘しておけば教える側の自分の責任は果たしたと逃れることができる。だから、それを直させなければ気が済まない、というものです。このような矯正は主に「間違いは間違いなのだから、早く直した方が結局その間違いを続けなくて良い!」という考え方に基づいているという意味では基本的には子供たちへの愛情に基づいているとも言えます。

しかし、僕の実感としては、子供たちが間違いを犯している時、その間違いには必ず必然性があります。だからこそ、その間違いを形式的に矯正することは子供たちにとっては「理解できていないものを受け入れる」ことにつながってしまうのだと思います。ここでも大切なのは、間違いの指摘がそれを注意する側の属人的な判断だと思われないように、間違いを指摘することが「事実の提示」になるように気をつけていくことです。それが事実の提示になるためには、もちろん理解をしてもらえるように説明を尽くしていくことも大切であるのですが、そもそもそれでは通用しないという事実を子供たちが感じられるようになるまで、教える側がじっと待つことが必要となるのです。

このように書くと「もう十分待った!それなのに気づかないんだから教え込むしかないではないか!」という反論ばかりが起きるようにも思うのですが、教えていて反省させられことが多いのは、自分を含めた教える側がその「待つ」ということがいかにできていないか、いかに結論を急いでは子供たちに考えさせないことをしてしまっているか、ということの方です。「事実の提示」をしていくためには、事実をして子供たちに語らしめねばなりません。それはまた、子供たちの試行錯誤を徹底的に認めていく、ということでもあります。


温厚である人が怒りを表明するときには、我々はその人の怒りが属人的ではないこと、事実に基づいていることを類推します。同じように、子供たちに私達が注意をすることが、決してその注意が属人的ではないこと、事実に基づいていることを類推させられているのか。それを親としても教育者としても絶えず反省していかねばならないと思っていますし、そのような親子の行き違いから子供のことを良かれと思ってガミガミ言ってしまっては結局子供にとっても親にとっても不幸になってしまっているご家庭に対しても、しっかりとこのことが伝わるように仕事をしていきたいと思っています。
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