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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

2018年度受験を振り返って(特別版)

特別版です。5年前に塾を卒業し、その後塾でも講師として生徒たちの心の支えになってくれていたK・S先生がこの3月で講師として2度めの卒塾をされます。そのK・S先生がとうとう、「受験を振り返って」を書いていただきました!(苦節5年…)しかも、9000字の大力作です。是非お読みいただければ嬉しいです!


慶應義塾大学文学部合格(進学)         K・Sさん(目黒星美高3)
(肩書は受験生当時のものです。)

 わたしはたいへんよく部屋をちらかす。

 これを読んでくださっているあなたがいま想像したちらかった部屋に、あと三倍ものを増やし、さらにその三倍の紙ゴミを増やし、それらを適正な場所に片付けずにすべて床にぶちまけてほしい。おおよそそれがわたしの部屋です。

 そうなると、使ったものが時系列順に地層状になっている、のかと思いきや、なぜかいきなり小学生のときもらった手紙が最上層に転がっていたり、逆に昨日着た服が本の山の下から出土したりする。わたしは部屋の管理者としての意識が欠如しており、それを自然現象を見るようなきぶんで見ている。雨が降ったり地面が割れたりするのがしかたないのと同様に、わたしの部屋がちらかるのもしかたない、というきぶん。

 高校二年の春、はじめて嚮心塾に見学に来たとき、塾はたいへんよくちらかっていた。面談をしてくれる柳原先生の顔は半分本の山に埋もれていて、わたしが向かいに座ると、先生はわたし側の本だけをざっと横に押しのけた。押しのけられたぶんの本は元に戻されるでもなく、何日経ってもそのままだった。

 それでこの塾に入ろうと決めた。そして、二年ののち、第一志望だった慶應の文学部に合格することになる。



 合格からこの合格体験記を書き始めるまで、五年経ってしまった。そのうち後半の三年は嚮心塾で講師として働いていた。

 先生にときにせっつかれ、ときに本気でがっかりされつつも合格体験記を書かずに来た理由、というか言いわけはたくさんあるのだが、嚮心塾で受験生として過ごした時間があまりに濃密すぎた、ということが大きい。塾にいるあいだ、本当に膨大なことを感じ、考え、養っているという体感はあるのだが、いかんせん受験勉強が本業だから、それらの大半はできるかぎり保留状態で自分の中に置いておく。そうすると、受験が終わったあと、手元にはまだ言語化されていない思索のもとみたいなものだけが大量に残される。さて、受験期間は終わりましたよ、といって、受験勉強よりはるかに難しくはるかに広範な人生全体への宿題を渡され、塾を放り出される感じだ。

 受験を終えてしばらく、これが本当に手に余った。とくに「合格体験記」を書けといわれると、いや、すいません、嚮心塾で学んだことがあることだけはわかるんですけど、いまのわたしに総覧できる感じじゃないんです、となる。なにかを書くということはなにかを書かないということで、まだ自分のなかで消化しきっていないけれど確かにあることを、書かなかったためになかったことにしてしまいそうで怖かった。

 以上がこの合格体験記が五年のブランクを経ている言いわけである。



 この春、わたしは講師としても嚮心塾を離れることになり、気分としては二度目の卒塾になる。まとめてしまうこと、取りこぼしてしまうことをおそれる気持ちはそんなに変わらないものの、ようやくなにかしらを書き残す気になった。たぶん、これまでは講師として直接受験生たちに自分の受験体験を話せたけれど、それがもうできなくなることを惜しむ気持ちによるものだろう。なにかを書くことはなにかを書かないということで、それはとても怖いけれど、わたしがいつ死ぬかもわからないので、先生へのごくごくささやかな恩返しも含め、会えなくなる前に書けることだけでも残していきたいと思う。





 受験期間中はつねに自分のどうしようもなさに苦しめられた。

 受験は終わりのタイミングが決まっており、いつか結果がはっきり出ることがわかっている。そして、自分が努力する以外に結果を出す道はないともわかっているのに、日々の成果は分かりづらく、ともすれば毎日が惰性の中へ溶けていってしまう。わたしと同時期に塾に通っていた友人は、このことを「受験は死に似ている」と表現した。受験生であるあいだ、わたしたちはつねに一年しかない余命に追われつづける。人生が必ず死で締め括られるのと同様、受験生活はかならず合格か不合格のどちらかで

締め括られる。

 そう強く意識しているにもかかわらず、自分は決して自分の思うようには動かず、苦しむ。絶対にやったほうがいいとわかっているテキストがなぜか進まない。目の前のタスクでいっぱいいっぱいになってしまい、「勉強している」ということそれそのものに満足しそうになってしまう。苦手な分野(わたしはまとまった問題を解くのが好きで、見直しやこまごました文法事項が苦手だった)からつい遠ざかろうとしてしまう。サボっていることが自分でわかっているのにそれをなかなか直視できず、毎日の勉強記録をつけられなくなる。

 ようやく「よし、今日からは気合をいれなおしてがんばるぞ!」と一念発起した翌日、また手を抜き、ごまかし、逃避し始める自分への失望。勉強をしているとなんとなく、現状の「できない自分」から、どこかのタイミングで奇跡的に「できる自分」へと生まれ変わって合格する、ような錯覚にとらわれるが、そんなことは起こらない。ともするとサボり、一度覚えたことでもしばらく経てば抜け落ち、あんなにケアレスミスに気を付けようと誓ってもふたたび油断する、二月に受験会場に行かなければならないのは、他でもないそういうどうしようもない自分だ。そのことは、いくら過去問の点数をあげても変わらない。

 だから、わたしにとって受験生活は、つねにそういう自分と付き合い、くりかえし失望しつづけることだった。



 嚮心塾にいるとき、わたしはしばしば立って勉強したり、床に座って勉強したりした。立って勉強するのはどうしても眠たいとき、床に座るのは紙を大きく並べて日本史の年表やなんかを総覧したいとき、あるいは、本当に心が折れてしまって、泣いている顔を他の生徒に見せたくないとき。わたし以外の受験生も、数時間おきに座る席を変えたり、ギターを持ち込んだり、椅子の座面に立ったり、ブランコに乗りに行ったり、プラナリアを飼ったり、各々ちょっと度を過ぎるくらい自由に振る舞っていた。

 そういうとき、先生がわたしたちを見る目は、わたしがちらかった自分の部屋に向ける目に似ているような気がする。わたしの部屋がひとりでにちらかるように、あるいは雨が降るように、椅子の座面に立つやつは立つ、という距離感。先生はそういうとき、べつに咎めるでもなく、ふらっと理由を聞きに来る。「眠いんです」と答えると、なるほど、という感じで戻っていく。

 ごく自然な対応に聞こえるかもしれないが、わたしが先生以前に出会ってきた多くの教師は、そこで「いや、勉強はきちんと座ってしなさい」というばかりだった。そして、そういう教師の中に、「そもそもなぜ勉強は座ってしなければいけないのか」と立ち止まって考えたことのある人はほとんどいない。それでわたしはつねに教師に飢え渇いており、柳原先生の存在は新鮮な水のように思えた。

 先生は、わたしたちのすべてを理解し、コントロールするなど絶対に不可能であるということを、はなからわかっているらしい。(これも当たり前に聞こえるが、このことをわかっていない教師のいかに多かったことか)かといって、自然現象のようなわれわれに対し、先生があきらめているわけでは決してない。すべてを理解することはできないとわかった上で、「僕は椅子には立たないけれど、君は立つんだね」というごくごく小さな理解を蓄積していってくれる。また、いくらそういう小さな理解を重ねてもすべてを理解できたわけではないとわかっているから、理解しようとしつづけることをやめない。そしてその集積を、たえず生徒の受験勉強や、より根本的で個人的な問題の解決にまで役立てようとしてくれる。

 そういう先生のあり方が、当時のわたしにとって本当に快かった。でもそれは、なんでもかんでも許される、肯定してもらえることの快さではなく、誰にでもあてはめられるきまりごとでない、ひとりひとりに向けられた知性でもって付き合ってもらえるという快さだった。ただ自由にしていいというのではなく、先生はかならず、椅子に立つ理由を聞きに来る。ときに、椅子に立つ以上に突飛な眠気を克服する方法を新たな選択肢として差し出してくれさえする。

(これを読んで、「椅子に立つくらいうちでも認められますよ」と言ってくださる先生方、では、「高校に行きたくない」という生徒に対しても、同様に「椅子は座るものだ」というような固定された視座をただちに捨てることができますか。柳原先生がわたしにしてくれたのはまさにそういうことでし

た。)



 先生のそういう眼差しに晒されていると、次第に自分でも自分自身を自然現象のように眼差す視点を獲得する。自分さえ自分のすべてを理解しコントロールすることはできない、という感覚、そして、そこに立脚し、では、どうしていこうか、とあらためて問い直す感覚。

 前述の「どうしようもなさ」と付き合っていくとき、いちばん支えになったのがこの感覚だった。わたしは往々にしてサボり、慢心し、くじけてしまう、どうやらそれはそういうものらしい。そこであらためて、では、どうしていこうか、と考える。

 そこで出てくる具体的な対策はだいたい地味なもので、結局「早起きをする」「英語長文を読めるようになるために単語を覚える」「ケアレスミスをなくすために見直しをする」というめちゃめちゃに当たり前の結論にたどり着いたりするのだが、意外とそういうところのほうが自分で気が付くのは難しかった。わたしは先生に言われるまで、自分が解いた問題を上から下までざーっと眺めることを「見直し」だと思っていた。「集中がもたない」という生徒の相談が、「眼鏡の度があっていない」という結論で解決したこともある。そんなふうに、先生はわたしたちの問題に基礎も基礎から付き合い、気が遠くなるような細かな修正を重ねていく。

 そもそも「見直し」「暗記」とはなんであるか、ということを、はじめは先生の介助つきで共に疑ってみる。そのうち、ひとりでも疑うくせがついていく。すると今度はより抽象的に、「理解すること」「努力すること」「考えること」などを捉えなおそうと試みることができる。いちおう合格体験記らしいことを書いておくと、そういう考え方を経験できたことが、自分が第一志望に合格できたもっとも大きな要因であると思っている。

 失望しつづけ、疑いつづけ、修正をくりかえす。わたしもまたひとつのちらかった部屋であった。



 さて、「わたしたちがそもそも持っているどうしようもなさ」という問題に向き合うのはしんどいが、受験生として当事者でいるぶんにはまだ楽だった。より困難なのは、講師としていままさに自分の「どうしようもなさ」とぶつかっている生徒に話をするときだ。

 嚮心塾で講師として勤め始めたころ、先生に「もっと勉強の邪魔していいよ」と許可をもらい、わたしは嚮心塾では主に生徒にちょっかいを出すことを職務と思っていた。これは先生から見よう見まねで引き継いだもので、先生は勉強に関係のないことでも生徒にちょっかいを出してはコミュニケーションをはかり、よりよい勉強方法をサジェストしたり、あるいは信頼関係を築くのに役立てる。わたしはとくに勉強計画を立てるわけでもないのになぜかそのパートだけをこまごまと務めていた。そうすると、先生より立場が近いからか、ときどき受験生活に関する弱音を聞く。

「やる気が出ないんですけど、どうしたらいいですか」

 はじめのうちはこの質問に対し、①やる気が出ない原因を考え、②それに対する具体的な対処を考える、というケース対応的な答え方をし、それにときどき自分の体験談を挟む、というスタンスをとっていたが、それだけでは不十分だった。それで一度はやる気が戻ってきたとしても、そこまで間をおかずにあっけなく再び減退してしまう。またそもそも、本人がやる気が出ない原因を正確に理解できていることはごく少ない。というかまず、対処できるほど正確な原因があること自体が少ない。

 だから、どちらかというと「何度やる気がなくなってしまっても、再びやる気が戻ってくるのを信じて待ちつづける方法」や、「やる気のない日の乗り切り方」を生徒と一緒に考えることが多くなっていった。これを生徒に伝えなければいけないのは、なかなかしんどい。「もしやる気が戻ったとしても、またなくなるよ! でも、がんばろうね!」といわれても、受けとめづらいだろう。

 受験はつらい。やる気は何度でもいなくなるし、思ったよりも成果はわかりやすくない。自分だって同じような環境で受験をしているから、受験がつらいことは本当によくわかる。ただそれが「わたしにできたんだからあなたにもできるよ!」だとか、もっと悪ければ、「わたしもつらかったんだから、あなたもつらい思いをしないと!」とかいうメッセージになってしまわないよう、つねに気を払っていた。生徒ひとりひとりが違うように、わたしと生徒とも違う。

 できることなら、「こうすれば受験はつらくないよ!」というふうに教え、導きたい。でも受験はつらく、それでも、がんばりつづけなければいけないのだ。そう教えなければいけないことが、ときに本当にかなしくなった。これが、「人生はつらく、それでも生きつづけないといけない」というようなことを暗示しているように思えるときさえあった。

 受験生でいるときの孤独感を、ときどきひりひりと思い出す。柳原先生というすぐれた指導者を持ち、またわたしが床にくずおれる横で椅子の座面に立つ戦友とも呼ぶべき受験友だちを持ちながら、わたしは孤独だった。これは、結局受験会場に行くときにはひとりぼっちで、最後は誰にも助けてもらえない、自分で乗り越えるしかない、という実感によるものだった。

 ところが、生徒を受験本番に送り出すとき、これを凌ぐ孤独感に襲われておどろいた。本当にがんばってほしいのに、最後の最後はひとりぼっちで送り出すしかない。わたしが生徒の苦しみを代わりに背負うことはできないし、これまではできるかぎり言葉を尽くしてきたけれど、最後にはつきつめればただ「がんばれ」と言うしかできない。

 ひるがえって、わたしが孤独な受験生であったとき、柳原先生がどれほど深い孤独の中にいたのか、考える。当然どれほど考えてもそれがわかる日は来ない。

 そして、そのことが希望のように思える日が、いまのわたしにはある。





 ところで、「受験は死」ではなかった、というのが、大学生になったわたしの出した結論だった。

 先にも書いたが、受験直後、手の中に残ったもののあまりの膨大さ、そして不透明さに、わたしは打ちひしがれた。努力する経験もした、考え、疑う習慣もついた、だから受験勉強から解放されれば、もっと意義ある勉強や創作に打ち込める……と思って受験生活を乗り切ったのに、そううまくはいかなかった。

 考え、疑う習慣がついたのは、いいことばかりではない。つねに自分のしていることに懐疑的になるところまではまだいいが、わたしの場合はそのせいで他人に対して強い疎外感を抱え、ときどき塾に遊びに行っては泣くはめになった。これはわたしばかりの問題ではなく、卒業した生徒から同様の相談をよく受ける。塾では常時真剣に考えながらしゃべってよかったのに大学ではそれが許されなくて居づらいとか、浪人生活を終えて高校の時の友だちと再会したら、会話の内容に意味がないように思えてさみしかった、とか。私を含めたみんな、漠然と「もっと真剣に生きなければいけない」とつねに自分を責めたて、周囲への違和感を抱えつづけている。それなのに、わたしの場合、ありあまった危機感のようなものをなにに向ければいいのかわからず、ただ焦りの中に毎日を空費する期間が続いた。

 死後の世界だ、とわたしは思う。ひとつの目標に向かって努力しきったあと、それとひとつづきの世界がぱっと目の前に現れる。これまでは終わりがはっきりと見えていたけれど、今はそうではない、今度こそはるか遠い本物の「死」が終わりとして存在するばかりで、他にはなにもない。そうなったときに、何をもって自分を奮い立たせ、生命を空費しないように力を注ぐことができるのか。さいわい、というべきか、嚮心塾で過ごした時間で、いかに自分がすぐに怠け、逃避する生き物であるか、ということもよく学んでいる。それを引っぱって努力し続けることが、いかにしんどく、孤独なことであるかも。

 そんな中あらわれる受験後の世界が、どれほど果てしなく、残酷に見えることか。

 この世界が待ち構えているという一点だけで、受験は死とはまるきり違った。



 思い起こせば、最初からそれはわかっていたはずだ。

 塾に入ったころ、わたしの英語と日本史の偏差値は35ほどしかなく、早慶どころかMARCHを受けることさえ想像もしていなかった。勉強のモチベーションもそんなに高くなかったし、高校の留年を免れつつ入れる女子大に入ればいいかな、という気分でいた。もともとあまりステータスに興味がないからか、学歴がほしいと思ったことは一度もなかった。塾の合格実績欄を華やかにすることだけを考えれば放っておいたほうがよほどいいような、いわば「コスパの悪い」生徒だったと思う。実際、当時通って

いた高校の教師にはそのように見限られ、放っておかれているという体感があった。

 そのわたしに、先生は「確かに学歴ですべてを判断できると思い込むのは浅はかだ」と前置きした上で、それでも学歴があることでいかに生きていきやすくなるかを説得した。同じことを語っていても、学歴があるというだけで聞いてもらえることがある。「本当のこと」を見、語ろうとするなら、いくら君自身が学歴という価値基準それ自体を浅はかだと思うにしても、その価値基準を採用している人と接する時のために、説得力は身につけていたほうがいい、と。そのとおりだと思った。

 わたしははじめから、受験後の人生を生き抜くために先生に教わり、勉強をはじめ、大学を受けたのだった。

 受験本番直前、「このまま終わりが来なければいい」と強く思ったのをよく覚えている。わたしはクリアした参考書を机の上に山積みにしていた(片付けがへた)。その山がこのままどんどん高くなっていって、学力をどんどん上げて、塾だけで暮らしつづけられればいいと思った。それは受験の結果が出てしまうことをおそれたからでもあったし、それ以上に、受験というわかりやすい基準を失ったあとにも自分が生きていかなければいけない底恐ろしさを、うっすら感じとっていたからではなかったか。

 塾だけで生きていっていいわけがない。では、どのように生きていけばいいのか。



 受験後の生徒に、前述した「塾を卒業してからつらいんです」という類の相談をされると、わたしは笑って、「先生に苦情言いな!」と返すことにしている。

 努力し尽くし、疑い尽くす感覚が身体に残る、というのは、嚮心塾が卒業生に残すもっとも残酷な遺産であると思う。つねに自分の至らなさを噛みしめることになるし、またそれを他人に求めてはいけないとわかっていても、誰かこの感覚を分かち合える友人がほしい、とくらいは思ってしまう。疑うことそのものが寄る辺を奪っていくこともある。そりゃあ、つらいだろうし、まあ、それは先生のせいといえばせいだから、苦情を言えばいい。

 でも、裏を返せばそれは、自分は「どうしようもなさ」を抱えながらも、それに打ち克つために力を注いだ経験を持っている、ということに他ならない。卒塾してからも、何度も自分の怠惰さや、考えの貧困さや、優しくなさに絶望するだろう。そういうときに、塾で同様に自分に深く失望し疑うたび、しかし再び希望を見つけ出してきたことがどれほどの支えになるか、わたしはよく知っている。やる気は何度でもなくなり、でもそのたびにちゃんと戻ってきただろう。そのことを、君もよく知っているはずだ。

 そして、ひとりぼっちで試験に向かう生徒たちのうつくしい背中を、思い出す。



 塾を卒業して五年、成長したところも、ぜんぜんしていないところもある。自分のどうしようもなさにぶつかっては打ちひしがれていることはなにも変わらない。それでも生きつづけなければならないのだ、ということを、ときどき考える。とっくのむかしに受験を終えて目標を失い、いまだに人生の目標などという大それたことは語れないけれど、それでも。

 人は誰でもひとつ火を持っていて、それによって誰かをあたためたり、照らして導いたりすることができるとしよう。だいたいの火は家族を養ったり、好きな人を守ったりすることに用いられ、ときどき遠くまで光を放つ明るい火を持つ人もいる。だれにも見つけられないまま消えていく火もあるだろう。柳原先生という人の火はそこまで大きくも明るくもない。嚮心塾は今年受験生が受かりすぎてつぶれそうらしいし、このブログも内容の真剣さに対してあまりにアクセスが少ない。でも、先生はわたしたちをあたためるでも、照らすでもなく、芯から芯へためらいなく自分の火を分けてくれる人だった。

 先生に教わったことや、嚮心塾で学んだあとの人生を、重く、抱え難く感じることもある。苦情を言いたくなることもまあ、ある。でも、わたしの火は先生に分けてもらったものだ。それだけは、どれだけ孤独の底にいる日でも、胸を張って言える。

 生きていくことは果てしなく、怖い。たった一年の受験生活でさえときに終わりが来ることを忘れ、目の前の毎日に呑まれてしまうこともあったのに、この冗長な人生を何を目指して生きていけばいいのかわからない。それでも、ふと、わたしもこれから誰かに先生の火を分けることができるだろうか、と

考える。



 最後に、塾で生徒として出会ってくれたみなさんへ。

 わたしは本当に仕事をしない、教わるばっかりの先生だったと思います。本当に感謝しています。他者であるかなしみを、そして喜びをいちばん教えてくれたのはみなさんでした。決してお互いになることのできないひとりきりの存在として塾でかかわりあえたことを幸せに思っています。わたしには決して生きられない人生を生きてください。

 たくさんの思索のもとを手に塾を放り出されたあと、柳原先生のような人がいなくて絶望するかもしれません。でも、ごくまれではありますが、先生と似たようなエネルギーを放っている人はほかにもいます。火を灯して暮らしていればかならず出会えると思います。そういう人のあいだを星座のようにつないで生きていけば大丈夫です。元気でね。

 そして、先生。踏みつぶされて死ぬのを待つしかない弱い生きものだったわたしに人間のガワをかぶせ、戦うことを教え、紙の上にとどまらないことばを与え、人間世界に送り出してくださって本当にありがとうございました。苦しいときには、先生が苦しんでいることを思い出します。そうするとなんの解決にもならないのですが、ただしずかに、まだ死なないでいようと思えます。二度目の卒塾はさみしいですが、これからもそのように生き延びていこうと思っています。本当にお世話になりました。
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