
今年の受験生の「受験を振り返って」を読んでいくと、様々な発見があってとても面白いです。毎日接してきた彼ら、彼女らの中でこのような言葉が生まれてくる、というだけでも一年間必死に取り組んできたことが報われる思いをしています。
その中でも、今年東大に合格した子の文章には嚮心塾の本質的なところが表されていると思い、感心しました。引用すると、
「私の思考プロセスを読み解いてその弱点を補うためにどうすればよいかレクチャーしてくださいました。これは、先生にとっては生徒がわからないところを教えるよりも難しく手間のかかる作業だと思いますが、このやり方をまねして地学の他の分野や別の科目に応用することで勉強への取り組み方が改善され、入試で通用する力をつけることができました。」
(引用おわり)
僕はよく生徒たちに話すのは「知識を聞くな。本に書いてあることを聞くな。そこは調べろ。」そして「本に書いてないことを聞け。」です。これはより高度な知識、ということではなく(どのような高度な知識も検索範囲を広げれば本に書いてある知識です。)そこに至るプロセスや考え方の部分をこそ、聞いてもらいたい、ということです。さらに言えば、
自分がなぜ努力をしていてもこのようにうまく行かないのか、自分の思考プロセスをチェックして盲点を探していくこと、
そこを探しても自力で見つけられないのであればそのことについて僕に聞くことを求めています。
それを一つの教科について考えることができるようになれば、それを他の教科に応用することもまた可能です。
人間には必ず思考プロセスにおいて特有の傾向があるからです。そのような特徴によって出て来る長所と短所を自分自身で把握すればするほどに自分がどのようなミスを犯しやすいのか、どのような陥穽にはまりやすいのかがよく分かるようになってきます。
どのような受験生も志望校の合格、という目標のために必死に努力しています。しかし、自分では最適だと思って勉強しているその仕方が、局所的、あるいは短期的には最適であったとしても、最終的な目標の実現にとってはかえってマイナスである、ということもまた多々あるわけです。だからこそ、僕の仕事はその局所最適性、あるいは短期最適性をより全体、あるいは長期の最適性へと向かう方向へと軌道修正をすることであると思っています。
というこの説明ではまだ片手落ちで、長期的な最適性のために短期的な最適性を追求したほうが良い場合もまたあります。それは局所と全体での最適においてもまた言えます。そもそも短期・あるいは局所の成功体験がなければ人は努力などできないものです。だからこそ、そのような成功体験がない子にとっては仮にそれが受験勉強全体から見れば遠回りになろうとも、まずはそのように短期・あるいは局所最適解を導く方法を指導します。しかし、そのような成功体験に閉じこもり、その短期・あるいは局所最適を目指す傾向が小さな成功にこもるようになり、最終的な目標を阻害する局面になってきた場合には、そのような短期・あるいは局所最適しか目指していない彼ら・彼女らの思考プロセスに批判を加えていきます。
このようにして、受験勉強を通じて小さな成功を積み重ねていくこと、しかし小さな成功がより大きな成功を妨げていないかどうかを絶えずチェックすることなどを思考習慣として身につけていく、ということができれば受験勉強もスムーズにいきます。一人一人に必要なものが違うだけでなく、同じ子であってもその発達の段階によって何が必要であるのかが変わってくる、ということが本当に難しいところであると思います。
このような手法は結局プログラムを書くことと似ているのかな、と思っています。
このような指導ができる嚮心塾というのは相当稀有な存在なのでは…と自負はしているのですが、なかなか評価されません。しかし、同時にこのような指導法というのは大きな限界を持っている、という事実にもまた直面しています。それは、自分で考える習慣のある子には大きく貢献できるものの、その習慣がない子にはほぼ役に立たない、ということです。だからこそ、このような指導法は指導対象が優秀であればあるほどより効果が大きいという、指導上の限界もあります。(アスリートやプロ棋士や学者さんを指導できると一番効果的かもしれません。)
本来は自己の思考プロセスを可視化してチェックする、ということ自体はどんな子にとっても有効な手法であると思っています。しかし、残念ながら幼いころにはあれこれと考えていたはずの子たちが小学生、中学生くらいには自分で考える、ということができなくなってしまっている、もしくはそれをいけないことだと思ってしまっているというケースも多いのです(特に親御さんが厳しいとそうなってしまう傾向が強いと思います)。
ネットによって何でも検索できる時代に、塾や予備校の価値などどこにあるのか。それこそ優秀な社会の先生や理科の先生、数学の先生のどんな素晴らしい講義も、ネットで検索して調べることのほうがより正確な内容に行き着けてしまうのがこの時代であると思います。僕が持っている知識もまた、生徒たちがネットを駆使して調べることのほうが(調べ方さえ間違えなければ)正確であるに決まっています。その中で教師が子どもたちに教えるべきこととは何か。それは「自分で考え、自分で調べる」というただそれだけの姿勢であると思っています。そして、「自分で考える」とは「自分で考えること自体についても考える」ということをも含みます。そうでなければ考えれば考えるほどに、目指すべき目標からはどんどん遠くなってしまっている自分をチェックすることができないからです。そのような契機に嚮心塾が、少しでもなることができていれば、本当に嬉しいと思っています。
しんどいことしかありませんが、もう少し、塾を続けていきたいと思います。
その中でも、今年東大に合格した子の文章には嚮心塾の本質的なところが表されていると思い、感心しました。引用すると、
「私の思考プロセスを読み解いてその弱点を補うためにどうすればよいかレクチャーしてくださいました。これは、先生にとっては生徒がわからないところを教えるよりも難しく手間のかかる作業だと思いますが、このやり方をまねして地学の他の分野や別の科目に応用することで勉強への取り組み方が改善され、入試で通用する力をつけることができました。」
(引用おわり)
僕はよく生徒たちに話すのは「知識を聞くな。本に書いてあることを聞くな。そこは調べろ。」そして「本に書いてないことを聞け。」です。これはより高度な知識、ということではなく(どのような高度な知識も検索範囲を広げれば本に書いてある知識です。)そこに至るプロセスや考え方の部分をこそ、聞いてもらいたい、ということです。さらに言えば、
自分がなぜ努力をしていてもこのようにうまく行かないのか、自分の思考プロセスをチェックして盲点を探していくこと、
そこを探しても自力で見つけられないのであればそのことについて僕に聞くことを求めています。
それを一つの教科について考えることができるようになれば、それを他の教科に応用することもまた可能です。
人間には必ず思考プロセスにおいて特有の傾向があるからです。そのような特徴によって出て来る長所と短所を自分自身で把握すればするほどに自分がどのようなミスを犯しやすいのか、どのような陥穽にはまりやすいのかがよく分かるようになってきます。
どのような受験生も志望校の合格、という目標のために必死に努力しています。しかし、自分では最適だと思って勉強しているその仕方が、局所的、あるいは短期的には最適であったとしても、最終的な目標の実現にとってはかえってマイナスである、ということもまた多々あるわけです。だからこそ、僕の仕事はその局所最適性、あるいは短期最適性をより全体、あるいは長期の最適性へと向かう方向へと軌道修正をすることであると思っています。
というこの説明ではまだ片手落ちで、長期的な最適性のために短期的な最適性を追求したほうが良い場合もまたあります。それは局所と全体での最適においてもまた言えます。そもそも短期・あるいは局所の成功体験がなければ人は努力などできないものです。だからこそ、そのような成功体験がない子にとっては仮にそれが受験勉強全体から見れば遠回りになろうとも、まずはそのように短期・あるいは局所最適解を導く方法を指導します。しかし、そのような成功体験に閉じこもり、その短期・あるいは局所最適を目指す傾向が小さな成功にこもるようになり、最終的な目標を阻害する局面になってきた場合には、そのような短期・あるいは局所最適しか目指していない彼ら・彼女らの思考プロセスに批判を加えていきます。
このようにして、受験勉強を通じて小さな成功を積み重ねていくこと、しかし小さな成功がより大きな成功を妨げていないかどうかを絶えずチェックすることなどを思考習慣として身につけていく、ということができれば受験勉強もスムーズにいきます。一人一人に必要なものが違うだけでなく、同じ子であってもその発達の段階によって何が必要であるのかが変わってくる、ということが本当に難しいところであると思います。
このような手法は結局プログラムを書くことと似ているのかな、と思っています。
このような指導ができる嚮心塾というのは相当稀有な存在なのでは…と自負はしているのですが、なかなか評価されません。しかし、同時にこのような指導法というのは大きな限界を持っている、という事実にもまた直面しています。それは、自分で考える習慣のある子には大きく貢献できるものの、その習慣がない子にはほぼ役に立たない、ということです。だからこそ、このような指導法は指導対象が優秀であればあるほどより効果が大きいという、指導上の限界もあります。(アスリートやプロ棋士や学者さんを指導できると一番効果的かもしれません。)
本来は自己の思考プロセスを可視化してチェックする、ということ自体はどんな子にとっても有効な手法であると思っています。しかし、残念ながら幼いころにはあれこれと考えていたはずの子たちが小学生、中学生くらいには自分で考える、ということができなくなってしまっている、もしくはそれをいけないことだと思ってしまっているというケースも多いのです(特に親御さんが厳しいとそうなってしまう傾向が強いと思います)。
ネットによって何でも検索できる時代に、塾や予備校の価値などどこにあるのか。それこそ優秀な社会の先生や理科の先生、数学の先生のどんな素晴らしい講義も、ネットで検索して調べることのほうがより正確な内容に行き着けてしまうのがこの時代であると思います。僕が持っている知識もまた、生徒たちがネットを駆使して調べることのほうが(調べ方さえ間違えなければ)正確であるに決まっています。その中で教師が子どもたちに教えるべきこととは何か。それは「自分で考え、自分で調べる」というただそれだけの姿勢であると思っています。そして、「自分で考える」とは「自分で考えること自体についても考える」ということをも含みます。そうでなければ考えれば考えるほどに、目指すべき目標からはどんどん遠くなってしまっている自分をチェックすることができないからです。そのような契機に嚮心塾が、少しでもなることができていれば、本当に嬉しいと思っています。
しんどいことしかありませんが、もう少し、塾を続けていきたいと思います。



