嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

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劇団どくんご『愛より速く 2号』公演の感想

だいぶ感想を書くのが遅くなってしまったのですが、劇団どくんごの『愛より速く 2号』公演を観てきました!今年は前半と後半で役者さんが一人入れ替わり、もう折り返しの『愛より速く FINAL』の公演が現在東北から南へと下ってきている状況です。両方観てから書いた方がいいかな、でもそうするとツアーのかなり終わりの方になってしまうな、と悩んでいるうちにもう北陸、そして関東へとツアーが下ってきていて、あわててこのタイミングで2号公演の感想を書きたいと思います。

僕が観たこの何年かの中で、間違いなく今年がベストであったと思っています。もちろん全ての年が本当に素晴らしかったのですが、しかし今年は「本当に、本当にとてつもなかった!」と思いました。

芸術に何を求めるのか、というのは本当に難しいことであると思っています。巧みに仕組まれた精緻な構造物としての完成度にその価値を求めるのか、それともその精緻さすべてを「仕組まれたもの」としてぶち壊すような初期衝動の爆発を求めるのか、それは人によっても違うでしょうし、また同じ人であってもどのような心の状態にあるかによってどちらの方がより深く刺さるかが変わってくるものであると思います。もちろん、初期衝動が精緻な構造への動機として機能し、精緻な構造への動機が初期衝動を改めて喚起し、というその相互作用がある事自体は全ての芸術が実際にとっていく発展の仕方であるとしても、たとえば精緻さを追求すればするほどに、「少なくとも自分は初期衝動のままには創作を続けていない」というただそのことだけを理由として自己を正当化するという失敗に陥ってしまいがちです。一方で洗練を自らに許すことなくストイックに初期衝動だけを表現し続ける、ということ自体にもまたいずれ限界が来ます。繰り返される「初期衝動」は、もう既に初期衝動ではありえなくなるからです。そこでは自らの意図で洗練を拒んだはずでありながら、精緻さを今更求められない、あるいは求めても得られなくなり、精緻ではないことから初期衝動が存在することを類推してもらうしかない、という落とし穴にはまることになってしまいます。

どくんごのとった道は、この難題に対して、常に一人ひとりの初期衝動を活かしていきながら、しかし精緻に構築していく、ということであり、即興の初期衝動と精緻な戯曲の巧みな構成とのその両者を徹底的にせめぎ合わせている、ということであると思っています。「役者がやりたいことをやる」即興と「一人の脚本家が精緻に作り上げた作品に皆が参加する」ということのそれぞれの素晴らしさと限界とをよくわかりながら、しかし、その両者をただ混ぜ合わせるのではなく、互いに屹立させ、混在させ、それらがどちらがどちらかすらもわからなくしていく中で、それを観る私たちは、精緻な構造を意味から読み解くのでもなく、初期衝動に共感からほだされるのでもないような見方を回復させられます。それが脚本家のいないどくんごにとって「演出家」の役割の大きさを示しています。一人一人の役者さんがやりたいことをしながら、しかし、それが一つの劇へとなっていくというこの奇跡的な業こそがまさにどくんごには、演出家しか「いてはならない」理由であるのだと思います。

言い換えればどくんごは、役者さんを追い込みに追い込み、役者さんの限界をその底から引き出してくる一つの装置になっていると思います。だからこそ、そこでのアドリブにはただ面白い、というだけでなく、その役者さんの人間性が引きずり出されます。そこに我々は深く感動するのです。

一方でこのような形式はどうしても、精緻ではない言葉も生み出します。即興であるからこそ生まれる言い間違いや聞き間違い、思いのすれ違いによって舞台上の空気が緩和する瞬間は当然あります。あるいはどくんごだからこそ起きる、公演地によっての様々な違い、ぶれが必ずあります。それをどう捉えるか、というところで評価も分かれるのかもしれません。しかし、このように徹底的に作り上げようとして、それでも作り上げ得ないところにこそ、えも言えない悲しみとおかしみが溢れ出てくるように僕は思います。それは我々がその構造の精緻さに感銘をうけるすべての人工物もなお、どのような天才にも予想できないような要素によって影響を受け、なんならすべて台無しになってしまうかもしれないという私たち人間自身の存在の不確かさ、危うさをすっくと引き受けて懸命に演じられているように感じられます。小さく区切った中での完璧さをついつい求めてしまう私達の、必死の努力ゆえに可能な部分の小ささと、それに反してその外に広がる不可能さに満ちた外界の圧倒的な豊かさ、それを思い知らせることで私達を元気にさせてくれる、そのような力をどくんごの舞台は持っています。

それはひとえに、どうにも形にならない一人ひとりの原初的な衝動を何とか形にしおえてもなお、まだまだどうにも互いに折り合うことのできない一人ひとりの舞台上の登場人物が、互いに理解できないとしても共感や共存はできるということがその細やかで懸命なやりとりから伝わり、そして最後は皆が…というこのどくんごの構成自体に、私達が求めてやまない社会のあり方を思い知らされるからであるように思います。本当のことを喋れるわけでもないし、仮にうまく喋れたからといって伝わるわけでもないし、と諸々のことを諦めていく中で、それでも何とか一緒に生きていきたい、と思いながらもどこかでそれを諦めている私達もまた、このような交歓ができる瞬間をどこかでずっと求め続けている、という私達自身の奥底にある願いを強く思い知らされるように思います。「全く異なる者同士が、共に生きていくための技術こそが「政治」である。」という言葉を借りれば、どくんごの舞台はまさにその意味において「政治的」であると思っています。

毎年毎年、本当にどの役者さんも素晴らしいのですが、一方で即興で出てくる言葉の鋭さ、というのはどうしても毎回変わってきてしまいます。もちろん、これも鋭ければ良い、意味が有りげなのが良い、ということではなく、意味と無意味との間をどのように飛び交うか、というところにその役者さんの人生のすべてが凝縮して現れる、本当に恐ろしい即興であると思います。その中で、たとえば若い役者さんゆえの即興の怖さを感じる瞬間は去年の『愛より速く』を観ていて確かにありました。これは外山恒一さんの雑誌を読ませていただいて、舞踏青龍会の原田さんのご指摘でなるほどと首肯させられたところです(もちろん、これについて僕が言うのも極めておこがましいことは当然のこととして、です)。ただ、僕はここにこそ、どくんごの素晴らしさがあるとも思っています。創設からのまさにどくんごの思想と実践を体現されてきた役者の方々がする即興との違いがあるとしても、そのような若さを(もちろん徹底的にブラッシュアップしていった上で)受け入れようとしていくこと、この点においてどくんごは一つの思想に、あるいは言葉を変えれば一つのシステムになったと思っています。それは即興において、それを即興と全体とを貫く針として成立させるだけの言葉が出て来ない瞬間があるとしてもなお、それを受け入れて演出して一つの舞台にしていく、という覚悟に基づいた行為であり、まさに民主主義の原点というか、民主主義と共に死のうという覚悟を決めている、というところが本当にとてつもないことであると僕は思っています。即興と精緻な構築物とがせめぎあうこの形式において、即興がゆるくなるということがどれだけの恐怖であるのか。もちろん毎年毎年、その年の演目を演じる役者さん自身が誰よりもそのプレッシャーを感じておられて皆さん本当に死に物狂いでやっておられると思うのですが、それでも毎年新しいメンバーを迎えてそのように続けよう、というその覚悟にこそ、少しの安定のために多くの自由を投げ売りしてしまう私達の覚悟のなさを思い知らされるようなものすごい覚悟を、演出のどいのさんの姿勢からは知れば知るほどに感じさせられます。それは、人生をかけて必死で実現しようとしているその理想すらも、他者に委ねる、という覚悟であるのです。委ねるとは人任せにする、ということではありません。自分の全存在をかけて追求するものを、しかし他者と共有しようとしている、ということです。共に生きる、ということへのとてつもない覚悟の凄みがそこからは立ち上がっているように思います。

その上で、今年のどくんごに話を戻せば、本当に濃密で、思想として肉体を離れたものが再び受肉したかのような凄みを感じました。久しぶりに得た肉体の自由さを満喫するかのように、叙情が溢れ出ていて、必死さが当たり前のようにあふれていて、そして何よりも再び人間を愛そうと思えるようになる、本当にとてつもない舞台でした。さいたま公演は9月8,9,10日(追記9日はもう売り止めになってしまったそうです!)です。もう予約も少なくなってきているらしいので、是非多くの方に観てもらえたらうれしいです!

僕自身も教育に携わろうと考えたのは、何よりも、これが一番(先の「異なる他者がどのようにともに生きていくのかを模索する技術」という意味での)「政治的」な行為であると考えたからでした。一人一人に自分たちの中で大切にすべきものに自信をもつことと、それをブラッシュアップしていくこと、その中でどのように他者とともに生きていくのかを模索していくことには教育しかないと思っています。しかし、その覚悟という点において、どくんごの取り組みは本当に大きな心の支えと共に、自分自身が決して中途半端なことができないという励みとなっています。毎年毎年、見れば見るほどにその自分自身の覚悟を問われ直されるという意味で、本当にありがたい経験をさせていただいています。本当に今年もありがとうございました。日々目の前の生徒たちとどのように共存していくべきであるのかを真剣に悩みながら、僕ももっと頑張っていきたいと思います。
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