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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

言葉は誰のものか。

ご無沙汰をしています。通常の新年度のバタバタに加え、今年は何かとトラブルが多く、ようやく塾が軌道に乗り始めたところです。「忙しいからブログを書く気になれない」というのは嘘で、忙しいときほど書きたい題材は山ほど浮かんでくるのですが、しかしその前にやらねばならないと自分で自分を縛るものが多く、それとどちらを優先するかでブログを後回しにしてしまったところがあります。

目の前の人に対する義務や責任を果たすことで、目の前にいない人に対する義務や責任を放棄することにつながる、というこの社会の失敗を、僕もブログを更新しないことで加担してしまっていたと言えるでしょう。もちろん目の前の義務や責任を果たすことが目の前にいない人への義務や責任を決して正当化し得ない、ということはまた事実です。それに関して正当化しうると思ったことはないのですが、一方で目の前の生徒たちに対する自分の無力さを感じれば感じるほどに、そこでの力をつける努力にどうしても集中したくなります。特に教育という仕事はやっていけばやっていくほどに、どんなに自分自身が力をつけても自分の至らなさ、失敗の多さを思い知らされるものであるからこそ、そのようになりがちです。

もちろん、塾での懸案事項が劇的に改善をしたわけではありません。相変わらず、まだまだ手が足りていないところは多いと思います。まあ、両方とも再び進めていきたいと思います。

端的に言えばこのブログは、「嚮心塾に来る必要のない人」のために書いている、とも言えるでしょう。もう既にminorityとしての人生をもがき苦しんでいる人、その中で何とか自分の人生を形にしようとしている人々に、このような僕でも何とか生きている、ということを伝えるために書いています。もちろんある部分においてminorityとして抑圧を受けている人々が、別の部分においてはまさにmajorityとしてその部分におけるminorityである別の人々へと抑圧を与えている、などということはよくあることです。その人がある部分においてminorityであることによって、その人のmajorityである部分までの人格のすべてが肯定されるものではありません。しかし、僕はそれがたとえ欺瞞であると言われようとも、minorityの立場に立ち続けたいと思いますし、自分の中のmajorityである部分における暴力性に対して、絶えず敏感でありたいと思っています。

唐突ですが、言葉は誰のものでしょうか。言葉を使えるようになるには学問をある程度修めなければならないという以上、それは知識人のものです。しかし、その言葉を誰よりも必要としているのは、権力に連なる知識人ではなく(権力に言葉は必要ありません。むしろ国会の審議での安倍首相のように「何も実のあることは答えないで押し通す」という戦略は権力側のみに許されたものです)、むしろそこから疎外されていく人々にこそ言葉は必要となります。その点で、言葉を高度に習得するためには既存の知識体系に浸かり、その中でエリートとして訓練を受けなければならない(なぜなら知識というものはそのようなエリートの選抜と育成のためにずっと使われてきたからです。)一方で、そのような知識や語彙を使うことで初めて可能な正鵠を射る言葉、というものは社会からはみ出たものによってこそ、とてもよく用いられうる、という矛盾があるように思います。

もちろん、これは科挙の失敗による「人生の落伍者」こそが漢詩という世界において、素晴らしい詩人たちとなっていった、ということがわかりやすいその具体例でしょう。漢詩があれだけ発達するためには語彙や知識を駆使する知的能力を持つ人々が、その時代の俗世の中で報われない必要があったと言えるのでしょう。もちろん、これが当事者にとって、あるいは後の人類にとって不幸なことであったのか幸せなことであったのかは簡単には判断できないとしても、です。

あるいは日本の近代文学を見ても、夏目漱石から始まって、芥川龍之介、太宰治や有島武郎とどの作家も落ちこぼれた超エリートです。高い教養とそれにも関わらずの社会からの疎外こそが、彼らを作品に向かわせることになったと言えるでしょう。

言葉を自在に使えるようになるためには教養が必要だとしても、その言葉を時間や場所を超えて真に活かせるのはその教養を鍛える仕組みから疎外されていった人々である、というこの矛盾を私たちはどのように考えれば良いのでしょうか。言葉は弱者にとっての最後の武器、としての意味しか持たないのでしょうか。そこでの一人一人の悲劇としか言いようのない悲惨な人生からなるけものみちのような頼りない隘路を通ってしか我々が人間性を回復できないのだとしたら、果たしてその悲しい事実を我々はどのように評価をすればよいのでしょうか。

あるいは忌野清志郎さんが生前によく書いていたように、「全ての良い音楽はブルースである(blues、すなわち人間の生きる上での憂鬱(blue)を歌ったもの)」だとしたら、今生きている表現者としての私たちもまた、自分の生きる上での苦しみを表現するために、生きるために培った技術や知識を総動員することになります。それが良い芸術であり、良い作品であることは確かであると僕も思いますし、そのようなものが一人一人の人生にとってかけがえの無いものであるとも思いますが、それは果たして敗北者が日々自分を慰める以上のことになっているのでしょうか。

知識や技術が権力の基盤となって久しいこの社会においてもなお、少なくとも言葉は弱者のためのものであり続けます。しかし、そのような言葉が弱者を慰撫することにしかつながらないのであれば、それは人々に寄り添われる言葉がカタルシスを生むことによって、この権力構造を別の形で支え続ける装置にすぎなくなるのかもしれません。その危険性に対して悩みのない全てのbluesは、やはり大したbluesではないのだと思います。もちろんこれは言葉に限らず、芸術全般に言えることです。芸術が芸術として存在価値を認められ、生きる場所を与えられている社会というのは、もはや芸術によっては何も成し遂げ得ない社会であると言えるでしょう。カミーユ・ピサロが言った「ルーブル(美術館)は芸術の墓場だ!」というときの「ルーブル」が社会全体へと拡大していっただけであるように思います。

俗世から疎外された知識階級からうまれた弱者の武器としての言葉がやがて、この社会においてその一定の価値を認められていくがゆえに、弱者のためのものですらなくなっていく、というこの事実の悲しさといったら、耐え難いものがあります。

話を広げすぎました。結論を述べれば、僕は真理の一端をうがつ本当の言葉とは、それが生まれるまでにそのような悲しい来歴をもとうとも、今ある現実に対して極めて無力であろうとも、それが多くの場合単なる慰撫として誤用されようとも、しかし、そのような言葉自体には意味があるかもしれないと思っています。逆に言えば、人類の本当の終わりとは、このような残酷な現実に心が負けて、本当の言葉を紡いでいこうと思えなくなったときであると思います(もちろん、ここでいう「言葉」は言語だけでなくて他の媒介物でも構いません)。人間の知性とは、人類社会を良くしていくためにあるのはもちろんですが、それだけでなく僕は人類社会を看取り、それへの弔辞を述べるためにもある、という役割もとても大切なのではないかと思っています。私達が良くしようと努力を重ね、議論を重ねても、それでも人間は同じ過ちをより大きなスケールで繰り返しては、結局破滅の道に行くのかもしれません(もちろん行かないのかもしれません)。あるいは自らの手で滅ぼさないとしてもいずれタイムリミットがきて(今の予想では50億年後には太陽の膨張と消滅に巻き込まれます。それまでの間に太陽系から脱出するすべが見つからなければ)滅びることはどちらにせよ、(それこそ私達一人一人が誰も自らの死を免れ得ないのと同様に)決まっているし、既に私たちはそのことをわかっているわけです。しかし、そのようになろうとも、本当の言葉を紡ごうとする努力は、少なくとも他の知的生命体にとっては無駄ではないかもしれません。だからこそ、どのような状況であろうと本当の言葉を紡ごうとする努力を諦めるわけにはいかないと僕は思います。ずいぶん飛躍しましたが、だからこそブログもまたしっかり書いていきたいと思います。

以上、「ブログ書くの、久しぶりだよね。」ということから長々と書きました!

そして、表現が様々なものへと絡め取られることに絶望しきっているとしても、それでも表現することを諦めたくないと思っているすべての人にとって、劇団どくんごの劇はとてつもない勇気を与えてくれます!今年は東京公演が今のところまだ未定なので、往路の公演は東京近郊だと6月23,24日の木更津公演か、6月27、28日の横浜公演です!本当におすすめです!塾でも横浜公演にみんなで見に行く予定です。
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