
積極的な指導・管理≠積極的な勉強。
嚮心塾では、基本姿勢として、生徒の自主性を出来る限り信頼したいと思っています。なぜなら、たとえば塾が「積極的に」塾生の登塾日を管理しても、そこで塾生は強制されて消極的に通うだけであり、それは全体として良い方向へと向かいはしないからです。塾に行って勉強することが自分にとって必要であることを本人が理解するという過程を省略しても、究極的にはうまくいかないと僕は考えています。また、予備校などは講義を「積極的に」行ってくれて、通うだけでとても勉強した気にはなれるのですが、しかし、それを聞き続けるというのは楽な勉強方法であり、それを喜んでいるうちは自分で勉強をするつもりのない受験生であるといえます。もちろん、これらもケースバイケースで、中には塾に通うことを義務づけてあげた方が上手くいく場合もありますし、勉強を強制してやらせることが必要な場合もあり、嚮心塾でもそのようにすることもあるのですが、ただ、そのような「積極的」方策を行う場合であっても、その功罪を見極めて慎重でなければならないと思います。
当塾では中学受験をする小学生でさえ、6年生になると徐々に自発的に勉強をしてくれるようになっています。世界王者を何人も育てたボクシングの名トレーナー、エディ・タウンゼントさんはよく、「彼は何も教えない。ただ、(選手の心に)火をつけるだけだ。」と評されました。嚮心塾では生徒の心に「火」をつけ、さらには必要に応じて様々なことまで教えており、実際にその成果が上がるお子さんも(エディさんの門下生に占める世界王者の割合よりは)遙かに多いとは思うのですが、受験勉強そのものがボクシングよりも、受動的にその中に閉じこめられ、競わされ、ランキングをつけられてしまうという性質のものであるが故に、勉強へのmotivation(動機)もやはりボクシングジムの門下生ほどは高くなりにくい生徒も多く(当たり前のことですが)、このようなやり方がいまいち理解をしていただけないことがよくあります。
このような手法、主張に対してよくなされる反論として、「現実にそのようにやってみたが、やっぱり上手くいかなかった。子供なんてそんなものだ。そんな理想論では甘えを許すばかりだ。」というものがあります。しかし、このような「現実論」はいくつかの失敗から出した性急な結論を、唯一の真理と思いこんでいる、という失敗を招きがちです。もちろん、このような性急な結論を出さざるを得ないのは、受験の時期は決して子供の自発的な成長を待ってくれないからです。特に、中学受験や高校受験では「志望校に入れないから浪人します」とはいきにくいために、親御さんはますます焦りを感じざるを得ないのも致し方のないところです。これは何よりもまず、就職とリンクした日本の大学受験自体が、このようなやり直しのききにくいシステムであることこそが問題であるのです。しかし、そのように焦ることがかえって、肝心の受験自体にも悪影響を生んでいる場合も多々あるということを忘れてはならないと思います。
親であれ、教師であれ、「育てる」とはどういうことであるのか。それを僕は「社会の圧力からこの身を通じて全力で自分の子供を守った上で、『そのようにさぼっていていいのか』と子供達に真剣に考えてもらうこと」であると考えています。「外部からの圧力を断ち切った上で、子供達の心の中へと投げかけて、考えてもらう。」とでも言いましょうか。そのようにしていく覚悟と、勇気とが、すべての育てる立場に立つ大人にとって、不可欠なものだと思います。徹底的に「子供達を守った上で、しかし甘やかさない」、という覚悟です。
話を元に戻すと、教える側の「積極的な指導」が必ずしも生徒の「積極的な勉強」を促すとは限らないどころか、むしろ逆であることが多いように思います。もちろん、教える側がずっとお茶を飲んでいて、何も教えない、というやり方でも運営できるような教育の場は、そもそも導入段階で生徒に求めるレベルがかなり高いところにある、というのもまた事実です。そのようなやり方にあぐらをかいているのでは、やはり間口の狭い塾になってしまうでしょう。嚮心塾では、そもそも机に向かうのが苦痛である、あるいは鉛筆を持つのも苦痛である、という子達にも、こちらが汗をかき、徹底的に力になりたいと思っております。しかし、ある一人の子との関係において、leturer(講義をする人)やentertainer(楽しませる人)あるいは、administrator(管理する人)としての教師という関係性から僕自身が抜け出していき、よき伴走者となれるとき、僕はeducator(教育者・引き出す人)になれていると感じています。そのように、一歩一歩をしっかりと自分の意志で歩み、努力をして学習していく場としての、嚮心塾に、興味をもっていただけるとうれしいと思っております。 2009年9月19日
嚮心塾では、基本姿勢として、生徒の自主性を出来る限り信頼したいと思っています。なぜなら、たとえば塾が「積極的に」塾生の登塾日を管理しても、そこで塾生は強制されて消極的に通うだけであり、それは全体として良い方向へと向かいはしないからです。塾に行って勉強することが自分にとって必要であることを本人が理解するという過程を省略しても、究極的にはうまくいかないと僕は考えています。また、予備校などは講義を「積極的に」行ってくれて、通うだけでとても勉強した気にはなれるのですが、しかし、それを聞き続けるというのは楽な勉強方法であり、それを喜んでいるうちは自分で勉強をするつもりのない受験生であるといえます。もちろん、これらもケースバイケースで、中には塾に通うことを義務づけてあげた方が上手くいく場合もありますし、勉強を強制してやらせることが必要な場合もあり、嚮心塾でもそのようにすることもあるのですが、ただ、そのような「積極的」方策を行う場合であっても、その功罪を見極めて慎重でなければならないと思います。
当塾では中学受験をする小学生でさえ、6年生になると徐々に自発的に勉強をしてくれるようになっています。世界王者を何人も育てたボクシングの名トレーナー、エディ・タウンゼントさんはよく、「彼は何も教えない。ただ、(選手の心に)火をつけるだけだ。」と評されました。嚮心塾では生徒の心に「火」をつけ、さらには必要に応じて様々なことまで教えており、実際にその成果が上がるお子さんも(エディさんの門下生に占める世界王者の割合よりは)遙かに多いとは思うのですが、受験勉強そのものがボクシングよりも、受動的にその中に閉じこめられ、競わされ、ランキングをつけられてしまうという性質のものであるが故に、勉強へのmotivation(動機)もやはりボクシングジムの門下生ほどは高くなりにくい生徒も多く(当たり前のことですが)、このようなやり方がいまいち理解をしていただけないことがよくあります。
このような手法、主張に対してよくなされる反論として、「現実にそのようにやってみたが、やっぱり上手くいかなかった。子供なんてそんなものだ。そんな理想論では甘えを許すばかりだ。」というものがあります。しかし、このような「現実論」はいくつかの失敗から出した性急な結論を、唯一の真理と思いこんでいる、という失敗を招きがちです。もちろん、このような性急な結論を出さざるを得ないのは、受験の時期は決して子供の自発的な成長を待ってくれないからです。特に、中学受験や高校受験では「志望校に入れないから浪人します」とはいきにくいために、親御さんはますます焦りを感じざるを得ないのも致し方のないところです。これは何よりもまず、就職とリンクした日本の大学受験自体が、このようなやり直しのききにくいシステムであることこそが問題であるのです。しかし、そのように焦ることがかえって、肝心の受験自体にも悪影響を生んでいる場合も多々あるということを忘れてはならないと思います。
親であれ、教師であれ、「育てる」とはどういうことであるのか。それを僕は「社会の圧力からこの身を通じて全力で自分の子供を守った上で、『そのようにさぼっていていいのか』と子供達に真剣に考えてもらうこと」であると考えています。「外部からの圧力を断ち切った上で、子供達の心の中へと投げかけて、考えてもらう。」とでも言いましょうか。そのようにしていく覚悟と、勇気とが、すべての育てる立場に立つ大人にとって、不可欠なものだと思います。徹底的に「子供達を守った上で、しかし甘やかさない」、という覚悟です。
話を元に戻すと、教える側の「積極的な指導」が必ずしも生徒の「積極的な勉強」を促すとは限らないどころか、むしろ逆であることが多いように思います。もちろん、教える側がずっとお茶を飲んでいて、何も教えない、というやり方でも運営できるような教育の場は、そもそも導入段階で生徒に求めるレベルがかなり高いところにある、というのもまた事実です。そのようなやり方にあぐらをかいているのでは、やはり間口の狭い塾になってしまうでしょう。嚮心塾では、そもそも机に向かうのが苦痛である、あるいは鉛筆を持つのも苦痛である、という子達にも、こちらが汗をかき、徹底的に力になりたいと思っております。しかし、ある一人の子との関係において、leturer(講義をする人)やentertainer(楽しませる人)あるいは、administrator(管理する人)としての教師という関係性から僕自身が抜け出していき、よき伴走者となれるとき、僕はeducator(教育者・引き出す人)になれていると感じています。そのように、一歩一歩をしっかりと自分の意志で歩み、努力をして学習していく場としての、嚮心塾に、興味をもっていただけるとうれしいと思っております。 2009年9月19日
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