
表題通りにかけ算の順序論争に終止符を打てるかどうかは別として、考えねばならないところまで議論を前進させられればと思います。
まず、この掛け算の順序論争についてざっと説明すると、小学校の算数のテストで以前から問題になっている「不正解」が、今またtwitterでも議論が再燃しているようです。それは、たとえば
「一人がバナナを2本ずつ持ってきました。それが5人集まると、バナナは全部で何本でしょう?」という掛け算の文章題に対して
2×5=10 が正解とされ、
5×2=10は不正解とされバツになる、という問題についてそれでバツをつけられた親御さんが小学校の先生の採点に衝撃を受け、twitterでアップする、というところから再び議論が再燃しているように思います。
この派生型として、「太陽が動く」と答えさせて良いのか論争もあるのですが、とりあえず掛け算に話を絞りましょう。これに関しては東北大の黒木玄先生(あの、「黒木のなんでも掲示板」の黒木先生です!)がtwitter上でも「掛け算に順序をつけて教えたほうがいい」論者を徹底的に攻撃するのでも有名です!
さて、お前どっち派やねん?というところをまず明らかにしていくと、僕はもちろんこのような採点には反対です。掛け算が可換(交換可能)であること、例えば友人の谷口君がfacebookで書いてくれているように、ベクトルとスカラーの区別がある場合には掛け算の順序には意味があるけれども、そうでない場合には意味が無いことも全く正しいと思います。ただ、これに関してはこの「当然可換だろ!不正解にすんな!」というアプローチをずっととり続けてもアカンような気がします。(うまい!)
なぜならこのようにかけ算の順序にこだわる小学校の先生が相手をしているのは、上記の文章題を読んだ時に当然掛け算が頭に思い浮かぶ層ではないからです。上記の文章題を読んでも「一体これは何算なの?」とよくわからない層が日本には確実にいて、そしてそれは黒木先生や谷口君を含めた、いや、そんな数学専門の大学教授とかまで行かなくてもある程度教育のある層にとっては意味の分からないバツなのですが、しかしそのような指導を必要とする層は必ずいます。その子たちに演算が何となくではなく、意味を考えて成り立つことを伝えるためには、実は先の文章題で「5×2=10ではダメですよ!」ということを伝えなければならないフェーズが必ず存在します。そのことを大学の先生達や教育レベルの高い高学歴の人たちはわからないがゆえに、このような指導を目の当たりにしてショックを受けているといえるのではないでしょうか。
もちろん、このような採点はその教育的効果を考えたとしても、そもそも誤っていることもまた事実です。しかし、そもそも先の文章題から掛け算を作れない子に対して、可換だろ!と言っても無理でしょう。「順番がどっちでもいい」という教え方をされて、子供が最初に考えるのは数や演算のイメージが湧くことなく「ああ、適当に掛け算の式を作れば良いのだな。」ということであって、「可換だな。」とはならないからです(さらにそこまで小学校の先生が説明できるかを考えれば恐らく殆どの小学校の先生には難しいでしょう)。そのような採点をすれば、できない子が全く理解できないままに式を立てるのを見過ごすことになってしまいます。
もちろんそうはいっても、先の文章題が掛け算になるのは当たり前だと思える層で、かつ、掛け算が可換であることまでをわかっているできる子たちは当然、このような理不尽な採点に苦しめられます。(まあ、そもそもできる子たちは小学生でも学校の先生がどれくらい勉強を出来ないかがよくわかっているでしょうから、あまり気にしないという可能性も高いとは思いますが。)
だからこそ、ここでのこの問題の焦点は「なぜ一人ひとりに適切なレベルの教育が提供できていないのか」ということであり、掛け算の式を一通りに決めることの妥当性やその指導の有効性をすべての人にとって問うことではありません。先の文章題から意味を感じながら立式をできない子にとっては「掛け算の順序」という限界のある考え方もそれなりに重要ですし、それができるようになっているのであれば可換であることを伝え、さらにはベクトルとスカラーの違いなど可換でない場合も考えさせ、とやっていけばよいとは思いますが、それらすべてについて、その指導を受ける生徒が今どのプロセスにいるかということがわからなければ、それらが「適切な指導」であるかどうかには何も批判ができません(まあ、この「不正解」をtwitterに上げて問題視する時点で、そもそもある程度高学歴の親であるというバイアスがかかってしまうので、その層の中での議論であれば、そもそも「あの文章題を見て掛け算であることが思いつかない」という可能性自体が排除されてしまっている上での議論ですから、当然「可換だろ!」で議論が収束してしまうでしょう。しかし、その議論の「収束」はあまり解決策にはなっていません)。
子供に嘘を教えるな!という反論も僕はよくわからなくて、そもそも科学とされるもの自体が「嘘」の塊ではないでしょうか。導出された理論に我々が自分自身の理解を追いつこうとするとき、そこでは必ず仮想的な意味をそこに付与しています。ある意味で理解をする、ということは限界のあるモデルを自分の中に受け入れることと同義であると思います。もちろん、そのような単純化、モデル化が現実(あるいは既存の理論)と食い違うところにこそ、次の科学の可能性があるのではありますが、その意味では数学者だって「嘘」を自分の理解の助けにしているのではないか、と思います。別に数学者だけを槍玉に挙げなくても、ですね。すべての人間の科学は「仮説」を立てては、それと現実や既存の理論とのズレを見て、さらに修正をしていく、という発展の仕方をとっています。その中で「2本が5人分あるから」という考え方は、明白な限界を備えているとはいえ、一つの仮説を立てることによって現実と演算の世界との結びつけ方を学ぶ一つの理解の仕方であると思います。だからこそ、それが「我々が自明としている理論体系と矛盾する!」とめくじらを立てる前に、それが誰のためには有益で、誰のためには有害であるのか、ということをもっと考えるべきであるのだと思います。
つまり、問題は一人一人の理解の発達段階に沿った教育がなされているかが極めて怪しいこと、理解が進んでいる子と理解が遅れている子のどちらを優先するか、という際には必ず理解が遅れている子に合わせるように学校教育が制度設計をされていること、そしてそのような制度設計のもつ危険性に現場の教員が自覚的でなかったり、弾力的な運用をできるだけの力量もない小学校の先生が多いことにあるのではないでしょうか。
まあ、それにしても思うのは教育の難しさですよね。ある時期に有益な教育は、同じ子に対しても発達段階が変われば有害になります。一人一人が現時点で発達段階が違うだけでなく、時々刻々とその子にとって必要な教育が変化していくわけです。こんな難しいことを学校の先生に任せようと思えるのが僕はちょっと無理があるように思えます。
もちろん、このような議論が起こることも学校制度の内部にいる先生たちにとっては「そういう議論がある」ということを知るだけでも不正解のバツをつける前にためらわせるという意味では有益なことです。しかし、そもそも丁寧に採点したとしても、自分の担当するクラス全員の掛け算への理解が「この子は掛け算の立式の意味がわかった上で可換なので逆にしている!」とか「この子は掛け算の立式の意味がわかっていないから、何となく書いている!」とか把握できているものなのでしょうか。。そんな奇跡のような先生は(いないとは言いませんが)ほぼいないのではないかと僕は思います。大切なのは、このような議論が盛り上がることで、「順序の違う掛け算に「バツをつけない」ように採点方針を変える」ことではなく、ひとりひとりの生徒の理解の仕方を教師が真剣に探求していく姿勢がないこと、このようにレベルの違う子たちを集団教育によって一律に教育することの功罪を考えること、なのではないでしょうか。それがないままに今の採点方針だけ変わってもまた他の弊害が生まれるだけであるように思います。(まあ、可換な演算が順番を変えられてバツになる、という「文明国にあるまじき教育水準の低さ」を体裁だけ整えることにはつながるのかもしれませんが、それはまあ枝葉のことです。)
最後に、この議論で僕が改めて思い知らされたのは、勉強が苦手な子と接する機会自体が勉強ができる人にとっては本当に少ないのだな、という事実です。社会の分断はこのようにして、互いへの共感を欠いた制度設計を生み出してしまう危険があると思っています。「できない」側からは「お前のように勉強のできるやつに何がわかる!」と排斥されながらも、それでも僕は「できない」側に果敢に(!)立ち続けたいとは思っています。
まず、この掛け算の順序論争についてざっと説明すると、小学校の算数のテストで以前から問題になっている「不正解」が、今またtwitterでも議論が再燃しているようです。それは、たとえば
「一人がバナナを2本ずつ持ってきました。それが5人集まると、バナナは全部で何本でしょう?」という掛け算の文章題に対して
2×5=10 が正解とされ、
5×2=10は不正解とされバツになる、という問題についてそれでバツをつけられた親御さんが小学校の先生の採点に衝撃を受け、twitterでアップする、というところから再び議論が再燃しているように思います。
この派生型として、「太陽が動く」と答えさせて良いのか論争もあるのですが、とりあえず掛け算に話を絞りましょう。これに関しては東北大の黒木玄先生(あの、「黒木のなんでも掲示板」の黒木先生です!)がtwitter上でも「掛け算に順序をつけて教えたほうがいい」論者を徹底的に攻撃するのでも有名です!
さて、お前どっち派やねん?というところをまず明らかにしていくと、僕はもちろんこのような採点には反対です。掛け算が可換(交換可能)であること、例えば友人の谷口君がfacebookで書いてくれているように、ベクトルとスカラーの区別がある場合には掛け算の順序には意味があるけれども、そうでない場合には意味が無いことも全く正しいと思います。ただ、これに関してはこの「当然可換だろ!不正解にすんな!」というアプローチをずっととり続けてもアカンような気がします。(うまい!)
なぜならこのようにかけ算の順序にこだわる小学校の先生が相手をしているのは、上記の文章題を読んだ時に当然掛け算が頭に思い浮かぶ層ではないからです。上記の文章題を読んでも「一体これは何算なの?」とよくわからない層が日本には確実にいて、そしてそれは黒木先生や谷口君を含めた、いや、そんな数学専門の大学教授とかまで行かなくてもある程度教育のある層にとっては意味の分からないバツなのですが、しかしそのような指導を必要とする層は必ずいます。その子たちに演算が何となくではなく、意味を考えて成り立つことを伝えるためには、実は先の文章題で「5×2=10ではダメですよ!」ということを伝えなければならないフェーズが必ず存在します。そのことを大学の先生達や教育レベルの高い高学歴の人たちはわからないがゆえに、このような指導を目の当たりにしてショックを受けているといえるのではないでしょうか。
もちろん、このような採点はその教育的効果を考えたとしても、そもそも誤っていることもまた事実です。しかし、そもそも先の文章題から掛け算を作れない子に対して、可換だろ!と言っても無理でしょう。「順番がどっちでもいい」という教え方をされて、子供が最初に考えるのは数や演算のイメージが湧くことなく「ああ、適当に掛け算の式を作れば良いのだな。」ということであって、「可換だな。」とはならないからです(さらにそこまで小学校の先生が説明できるかを考えれば恐らく殆どの小学校の先生には難しいでしょう)。そのような採点をすれば、できない子が全く理解できないままに式を立てるのを見過ごすことになってしまいます。
もちろんそうはいっても、先の文章題が掛け算になるのは当たり前だと思える層で、かつ、掛け算が可換であることまでをわかっているできる子たちは当然、このような理不尽な採点に苦しめられます。(まあ、そもそもできる子たちは小学生でも学校の先生がどれくらい勉強を出来ないかがよくわかっているでしょうから、あまり気にしないという可能性も高いとは思いますが。)
だからこそ、ここでのこの問題の焦点は「なぜ一人ひとりに適切なレベルの教育が提供できていないのか」ということであり、掛け算の式を一通りに決めることの妥当性やその指導の有効性をすべての人にとって問うことではありません。先の文章題から意味を感じながら立式をできない子にとっては「掛け算の順序」という限界のある考え方もそれなりに重要ですし、それができるようになっているのであれば可換であることを伝え、さらにはベクトルとスカラーの違いなど可換でない場合も考えさせ、とやっていけばよいとは思いますが、それらすべてについて、その指導を受ける生徒が今どのプロセスにいるかということがわからなければ、それらが「適切な指導」であるかどうかには何も批判ができません(まあ、この「不正解」をtwitterに上げて問題視する時点で、そもそもある程度高学歴の親であるというバイアスがかかってしまうので、その層の中での議論であれば、そもそも「あの文章題を見て掛け算であることが思いつかない」という可能性自体が排除されてしまっている上での議論ですから、当然「可換だろ!」で議論が収束してしまうでしょう。しかし、その議論の「収束」はあまり解決策にはなっていません)。
子供に嘘を教えるな!という反論も僕はよくわからなくて、そもそも科学とされるもの自体が「嘘」の塊ではないでしょうか。導出された理論に我々が自分自身の理解を追いつこうとするとき、そこでは必ず仮想的な意味をそこに付与しています。ある意味で理解をする、ということは限界のあるモデルを自分の中に受け入れることと同義であると思います。もちろん、そのような単純化、モデル化が現実(あるいは既存の理論)と食い違うところにこそ、次の科学の可能性があるのではありますが、その意味では数学者だって「嘘」を自分の理解の助けにしているのではないか、と思います。別に数学者だけを槍玉に挙げなくても、ですね。すべての人間の科学は「仮説」を立てては、それと現実や既存の理論とのズレを見て、さらに修正をしていく、という発展の仕方をとっています。その中で「2本が5人分あるから」という考え方は、明白な限界を備えているとはいえ、一つの仮説を立てることによって現実と演算の世界との結びつけ方を学ぶ一つの理解の仕方であると思います。だからこそ、それが「我々が自明としている理論体系と矛盾する!」とめくじらを立てる前に、それが誰のためには有益で、誰のためには有害であるのか、ということをもっと考えるべきであるのだと思います。
つまり、問題は一人一人の理解の発達段階に沿った教育がなされているかが極めて怪しいこと、理解が進んでいる子と理解が遅れている子のどちらを優先するか、という際には必ず理解が遅れている子に合わせるように学校教育が制度設計をされていること、そしてそのような制度設計のもつ危険性に現場の教員が自覚的でなかったり、弾力的な運用をできるだけの力量もない小学校の先生が多いことにあるのではないでしょうか。
まあ、それにしても思うのは教育の難しさですよね。ある時期に有益な教育は、同じ子に対しても発達段階が変われば有害になります。一人一人が現時点で発達段階が違うだけでなく、時々刻々とその子にとって必要な教育が変化していくわけです。こんな難しいことを学校の先生に任せようと思えるのが僕はちょっと無理があるように思えます。
もちろん、このような議論が起こることも学校制度の内部にいる先生たちにとっては「そういう議論がある」ということを知るだけでも不正解のバツをつける前にためらわせるという意味では有益なことです。しかし、そもそも丁寧に採点したとしても、自分の担当するクラス全員の掛け算への理解が「この子は掛け算の立式の意味がわかった上で可換なので逆にしている!」とか「この子は掛け算の立式の意味がわかっていないから、何となく書いている!」とか把握できているものなのでしょうか。。そんな奇跡のような先生は(いないとは言いませんが)ほぼいないのではないかと僕は思います。大切なのは、このような議論が盛り上がることで、「順序の違う掛け算に「バツをつけない」ように採点方針を変える」ことではなく、ひとりひとりの生徒の理解の仕方を教師が真剣に探求していく姿勢がないこと、このようにレベルの違う子たちを集団教育によって一律に教育することの功罪を考えること、なのではないでしょうか。それがないままに今の採点方針だけ変わってもまた他の弊害が生まれるだけであるように思います。(まあ、可換な演算が順番を変えられてバツになる、という「文明国にあるまじき教育水準の低さ」を体裁だけ整えることにはつながるのかもしれませんが、それはまあ枝葉のことです。)
最後に、この議論で僕が改めて思い知らされたのは、勉強が苦手な子と接する機会自体が勉強ができる人にとっては本当に少ないのだな、という事実です。社会の分断はこのようにして、互いへの共感を欠いた制度設計を生み出してしまう危険があると思っています。「できない」側からは「お前のように勉強のできるやつに何がわかる!」と排斥されながらも、それでも僕は「できない」側に果敢に(!)立ち続けたいとは思っています。
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