嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

愛とは何か。

この仕事をしていて、いつも痛切に感じられるのは親御さんが自分のお子さんのためにどれほど懸命に努力をされるか、ということです。自分の子供に対して本当に自分のことのように思い悩み、身を削ってなんとかしようとするその努力に対していつも心を打たれます。特に同じく2児の親でありながら、自分の子供を他人の子供よりもよけいに愛することの出来ない僕にとってはなおさら、ひとりひとりの親御さんの献身的・超人的な努力と愛が本当に眩しく見えます。

それとともにこの仕事をしていて痛切に思うのは、その愛情がいかにすれ違いしか引き起こさないか、という残酷な現実でもあります。どのように努力や思いを尽くそうとも、子供は親の思うとおりには育ちません。もちろん、方向性が親の望むそれでなかったとしても、その違う方向性へと向かう熱量が大きければそれはそれで子育ての「成功」であると僕は思いますが、それですらもなかなかに難しい、というのが現状であるのだと思います。その厳しい現実に傍目から傍観者として見るのではなく、そのすれ違う思いを何とか噛みあわせるためにこそ塾というのはあると思っていますし、その点で親御さんの協力者であるだけでも子どもたちの代弁者であるだけでもダメで、その両方をやりながら、何とかそのすれ違う思いを噛みあわせていきながら、子どもたちに自分たちの人生を自力で切り開く力をつけてもらいたいと思って日々やってはいるのですが、それがどのりょうに努力しようとも、本当に難しいことであると日々思い知らされています。こんなしんどい仕事だと最初からわかっていれば、絶対に選ばなかったのに!という思いで毎日全力でやっています(まあ、これは嘘ですね。初めから知っていて覚悟を決めて飛び込んだつもりでした。しかし、当初の僕の覚悟しかないのなら、とっくにやめているほどしんどいことだとは気づいていなかったというのが本当のところです)。

ただ、この仕事を続けていく中で、僕の中では「愛する」という言葉の定義がだんだんとわかってきているように思っています。自分が正しいと思うものを相手に伝えてそれを実行してもらおうとしても、相手がそれを正しいとは信じられない時にはそれは伝わり得ないわけです。それに対して「相手の考えがわけがわからない」とするのではなく、自分の中での「正しさ」の定義をそこでもう一度疑い直せるかどうかこそが、愛情の深さなのではないかな、と思うようになりました。その点でどのように懸命に相手を自分の理想とする「型」にはめようとしても、それが自分が相手にはめようとする「型」自体が本当に正しいのか、そのモデルが自分にはぴったりと合ったとして、違う人間である我が子にもピッタリ合うかどうかは実はわからない、という疑いをもてるかどうかこそがとても重要であるのだと思います。

もちろん、そもそも相手が何も頑張ろうとはしていない、あるいは頑張ろうとしていることのその密度が圧倒的に足りない、などということは批判をすべきでしょう。それをせずして「違う人間であるから何でも認める。」という姿勢をとるのは、単純に責任を放棄しているだけです。自分が必死に何らかの価値を追求し、そのために努力をしていることがそもそも必要です。しかし、それを必死に追求してきた自分の人生に一点の曇りがないとしてもなお、違う道へと同じかそれ以上の努力の密度で挑もうとする子どもたちを「選ぶルートが自分とは違うから」という理由で否定をしてはならないのだ、と思います。だからこそ、本当に子どもたちを愛する親や教師というのは、絶えず自分の価値観を疑うことを余儀なくされているのではないでしょうか。それが親や教師として鍛えられる、ということとも同義であると思います。一つの真理や正義に安住するわけにいかない、という悩みこそが人間性を深めるものであると思うからです。

だからこそ、自分が何かの方向へと懸命に自分の人生を懸けて努力をすることは、その方向を疑うためでなければあまり意味がないのだと思います。方法的懐疑が目的へと堕した瞬間に懐疑は自己目的化してしまい、検証を伴わない懐疑がすべての努力の足を引っ張るだけという情けない事態になってしまいます。しかし、人間というのはどうしても心の弱いものであるので、自分が懸命にそれこそ人生をかけてやってきたことについては、そこに価値があると信じたくなるものですし、逆に何かを頑張りたくない人間にとってはその自分が頑張りたくないと思うものに価値が無いと信じたくなるものです。しかし恐らく現実は、どのような学問もどのような技術もどのような社会貢献も、私達が人生をかけてそこに投資をするほどには価値の無いもの(必ずその限界を伴うもの)でありながら、しかし、私達がそれを全くしないよりは価値が有るものであるのだと思います。その残酷な現実を少しでも検証していくために、私たちは私達の信じるものがそれほど信じるに値しないことを知るためにこそ、必死に努力をしていかねばならないのだと思っています。それこそが、一つの中心へと「帰依」や「信仰」のように収斂していくものではない、本当の愛情なのではないかと思います。その意味で愛は拡散的であるがゆえに、打ち捨てられゆくものであると言えるのではないでしょうか。広がり、打ち捨てられ、踏みにじられることを恐れずに、様々な作業仮説を疑うための努力を今日もしていこうと思っています。

もちろん、このように偉そうに言う僕が生徒たちの思いを踏みにじっていないのかと言えば、失敗ばかりであるのでしょう。僕は生徒達に話を聞いてもらうために叱る、あるいは怒るという手段をほぼ使いませんが(よく怒る教師は自らその武器を奪うことになります。オオカミ少年になってしまいますよね)、それでも「ここでこそ怒らなければならない!」とかなり精密に計算をして叱ったつもりが、その真意が全く伝わらずにただ相手の感情を踏みにじるだけになってしまう、という失敗だってよくあることです(まあ他の先生方と比べれば少ないのかもしれませんが)。しかし、叱ること、叱らないこと、あるいは相手を型にはめようとすること、あるいは型にはめようとしないこと、そのすべてが相手に対しての暴力になっていないかどうかについては、絶えず自覚的にチェックしていかねばならないと思っています。何が暴力で何が愛情であるのかは時と状況と相手によってすべて変わっていきます。だからこそ、「これが愛情だ!」「これが暴力だ!」などという安直な決め付けを自分に許さずに、絶えず考えぬいて行きたいと思います。
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