嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

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映画『この世界の片隅に』の感想を書きました。

『この世界の片隅に』がとてつもなく素晴らしい映画であることなどは、もう僕のような映画オンチが語らなくても、国内のありとあらゆるクリエーターから映画評論家の方までありとあらゆる「うるさ方」が皆が激賞していることからもその凄さがわかるわけで、興行収入もだんだん「事件」と言えるくらいの伸びを見せていますし、改めてその紹介記事なんかこの受験も間近の忙しい時期に書くこともないかな、と思っていたのですが、そうは言っても塾の子や卒塾生に言葉の限りおすすめをしたところ、中には「そんなに言うほどいい映画?」という反応もあったため、「教え子の不明を鍛えるのが教師の役割!」「弟子の不始末は師匠の不始末!」とばかりに燃えてきてしまいました。なので、このとてつもなく忙しい時期に(本当にこんな記事を書いている場合ではないのですが)それでもその素晴らしさを紹介したいと思います。


とはいえ、「徹底した時代考証ゆえに、リアルさをつきつけられて実感してしまう!まるでタイムマシンみたいだ!」とか、「戦時下の普通の人の暮らしを丹念に描くことでかえって戦争の恐ろしさを実感させてくれる!」とか、「主演ののんちゃんの声と演技力が素晴らしい!」とか、巷で言われていることは言いません。もちろんそれらすべてに首を激しく振って同意したいところなのですが、そんなことはいろいろとネット上にある記事あるいはパンフレットやユリイカを読めばわかるでしょう。またクラウドファンディング云々、この素晴らしい映画を完成させるのに片淵監督を始めとして製作者の方々がどれほど「良い作品をこの世に出したい!」という思いでやってきたか、それが絶望的な状況からどのように奇跡を起こし続け、現在の大ヒットにまでつながったのか、あるいは主演ののん(能年玲奈)さんがテレビでの告知が事実上できない状態でそれでも彼女を主演に選んだということもまあ、いろいろ取材記事があるでしょう。それらも本当に激しく同意し、また心より感嘆と賞賛の声を上げたいのですが、それもここでは省きます。ここでは、そうした『この世界の片隅に』に対して起きる様々な賞賛以外の、僕の生徒たちに見てほしいと思う点のみに絞って書いていきたいと思います(なにせ、受験間近で時間がないですから!多少ネタバレもあります。ご容赦を。)。


僕が一番伝えたいことのいとぐちとして、容易に「感動した!」も「面白い!」も「泣ける!」も言えずに(事実として滂沱の涙を流しているお客さんはいるものの)皆、上映が終わったら無言で出て行く、というこの映画の凄さがあると思っています。アニメ映画というよりは、一人の人のドキュメンタリーを見せられたような、あるいは一人の人の半生をずっと聞かされたかのような重みをもって誰しもが映画館をあとにすることになります。そこでの捉え方はもちろんお客さん一人一人で違うのでしょう。しかし、その重みを抱えて、軽々しく「評価」をできない、という気持ちは恐らく見た人は誰でも抱えてしまうのではないでしょうか。


もちろん、映画は人の人生を描くものです。それは同じような時代を描いたアニメの『風立ちぬ』もそうでしたし、そもそもほとんどの映画は(英雄的であれ、喜劇的であれ、悲劇的であれ)一人の人の人生を描いた映画というものが圧倒的に多いでしょう。しかし、この映画ほどにその主人公の人生を感じさせられる映画というのは非常に少ないのだと思います。それが非実在の主人公であることを忘れて、私たちは自分の母親や祖母であるかのように主人公の人生を重く受け止めざるを得ません。それがアニメーションの技法によるのか、細かい日常の生活を描いていることによるのか、主義や主張ではない部分を描く時間が多いからなのか、何よりもそれらすべてを裏付ける徹底的な時代考証によるものなのか、そのどれもが原因であるのかはわかりません。しかし、主人公の人生を突き放して見ることのできないという印象を強く与えられることは間違いがありません。


世界は絶望に満ちているとしてもなお、絶望を希望とみなすことはできる。それをニーチェがキリスト教を揶揄したように「奴隷の道徳」とけなすことは簡単でしょう。服従が前提となる中での努力は抵抗への可能性を放棄しているがゆえの超人的な努力であればこそ、それは肯定されるべきものではなくむしろ否定されるべきである、というのもまた一つの聞くべき主張であると思います。しかし、この映画はその上でその批判に簡単には負けない強さがあります。戦争や革命など大きな歴史上の何かによっては決して変え得ない人間一人ひとりの中の何かを信じる強い気持ちが現れた生活が描かれています。だからこそ、そのようにすべてが茶番だと知りながら戦争に協力することも、そのために苦しい生活を強いられることも、すべて耐え抜けるのです。戦艦大和もまた茶番です。すべてが茶番だと知りながら、しかしその茶番の根底にはもっと深い何か、もっと譲れない何かがあることを信じていたわけです。しかし、それは生活者の茶番とは違い、国家の茶番の中には何もなかったと感じ、それに対して憤るあのシーンは、まさに一人の人間とそれが貢献すべきより大きな目的との齟齬を前にして、我々が常にぶつかる根本的な問題であると思います。一人の人間のために世界があるわけではない、ということの例証として導入されるあらゆる主義主張ですら(それは社会契約説のようにこの社会の成り立ちを正当性の観点から問いなおすことを始まりとして、民主主義や人権のような我々が最終的な答えとして今のところ受け入れているものですら)、一人の人間の懸命な生活と実感を超えるものではない、というこの知的生命体としての人間に課せられた矛盾。自身の存在を超える何かに恋い焦がれ、身悶えし、自分をも他人をもすべてを犠牲にして、それに対してこの身を捧げながらもまた、しかし、そこでどのように洗練された主義主張ですら一人の人間の懸命に生きる生活実感とくらべてどちらが重いのかが、実はかなり怪しいというこの「正義」を求めざるを得ない人間の原理的な限界と悲しさというものを、生活に心血を注ぎ、生活によってこの上のない破壊をも乗り越えようとしていく市井の人の姿としての主人公の人生は見せてくれます。その意味で、この映画は「地に足をつけさせてくれる」映画であると言えるのです。頭でっかちに「何が正しい」「何が間違っている」「何が良い」「何が悪い」というすべての議論を肉体としての一人の人間、生活者としての一人の人間へと引き戻す(恐ろしいほどの)力を持った映画であると言えるでしょう。その意味で、あらゆる批評を拒絶する力を持っていて、だからこそ皆「素晴らしい」しか言えなくなるのだと思います。


しかし、一方でこの映画は生活の中にこそ、また希望があることも最後に見せてくれます。失ったものがあるからこそ、得られる関係性もあるのだということにもまた。率直に言って僕は希望を持たせる映画というのは嫌いでした。以前に『風立ちぬ』をデイビッド・リーンの『ドクトル・ジバゴ』と比べて書いた時にも、『ドクトル・ジバゴ』くらいの絶望の中に最後わずか光る希望、あのバラライカ(これは是非『ドクトル・ジバゴ』の映画を見てください!)くらいが僕にとっては人生の定義として精密であるように思いました。どんなに必死に生きてもどんなに努力しても、報われずに死んでいく中で、しかし、それが無駄死に、犬死にでも少しは伝わるものがあると信じることはできるのではないか、それがここまで40年生きてきた中での僕の実感にも近いところであると思っています。ただ、その違いは大した違いではありません。この『この世界の片隅に』という映画は生き続けることがどれだけ残酷であるとしても、生活とは生きるための手段ではなく、生きることそのものであるのだ、ということを私たちに見せてくれます。(「登場人物の死」を用いて「人生」を描くのか、「登場人物の生」を用いて「人生」を描くのか、という違いでしかないように思います。)


その意味で、『この世界の片隅に』は先に書いたようにあらゆる批評を拒絶します。どのようなこの映画の解釈もまた、一つの解釈であるとともに一つの解釈にすぎず、だからこそその文脈で語れば批判や不満を語ることができるものの、それではこの映画を語りきれないことになります。それはまるで多様な側面を持ち様々な功罪を持つ一人の人の人生を、ある側面から批判するかのような物足りなさを私たちに残します。先に挙げた卒業生の反応もまた、そのような一つの文脈から見て「このような映画あるよね〜」というものに過ぎません。それは部分的には正しいのですが、それだけにとどまらずにもっと様々な側面とそれを私たちに問いかける切実さを持つがゆえに、そのように一つの感想、一つの批評で片付けることのできない余韻を私達の中に残すのであると思います。


もちろん、どのような作品も完全ではありません。原作からの改変についての批判はまた別として、最も有効である批判としてはそもそも「一次資料に基づいた徹底的な時代考証によってリアルさを追求した」『この世界の片隅に』はあの時代の「正史(正しい歴史として認定されるもの)」になりえてしまうという恐ろしさがある、ということです。どのような切り口も、どのような徹底的な調査も、それによって描けていない部分、埋もれている事実に対して免れ得るものではありません。もちろんそれを作り手の方々はよく自覚して作られていると思います。ただし、あれだけのインパクトをもった名作になってしまうとどうしてもそれが「正史」になってしまい、それ以外の事実に関しては見落としてよいものだと肯定されてしまうところがあるかもしれません。それはこの作品が本当に素晴らしい作品であるからこそ、引き起こしてしまう問題です。


それとともに、もう一つ問題であるのは生活は人間の手段ではなく目的である、という主張と実践がどのように説得力を持とうとも、思想を持たざるをえない存在としての人間に対しての答えにはなり得ない、ということです。思えばディビッド・リーンの『ドクトル・ジバゴ』は思想と生活との分裂(をラーラの元カレと今カレ(ジバゴ)の二人の登場人物を通じて対比させる)という悲劇を描いた作品でもありました。『この世界の片隅に』は原作のもつ思想性を削ってしまっている部分が、見方を変えれば「生活からの反撃」としてとても強力な作品になってしまったとも言えるでしょう。空疎な理想や言葉によって多くの人が犠牲になるということのバカバカしさを描けたとしてもなお、そのような失敗を踏まえてもなお、理想や言葉を持つことで人類史が進んできたこと、その中で我々は多少なりとも自由になってきたことは否定できません。あまりにも呆気ない敗戦を目の前にして、「そんなことのために戦ってきたわけではない」のが全く正しいとしても、「では何のために戦うべきなのか」という問いを放棄して「何のためにも戦わない」ことが正解になるわけではありません。それこそがアーレントの言うような「労働する動物の勝利」になってしまうでしょう。人間は知性を持て余し、その知性によって様々な暴力を生み出してはもっと大切なもの(生活、ひいては命)を踏みにじることは愚かしいことだし、許されることではない。しかし、だからといって考えないこと、正しいものとは何かを求めないことは人間にはできません。そのような「蓋(ふた)」の仕方からは、必ずいびつな形での表出を求める運動が始まってしまうでしょう。『この世界の片隅に』は地に足のついていないすべての言葉を破壊するという意味で、本当に素晴らしい映画です。しかし、そこから私たちはそれでもなお、どのような言葉を語りうるのかを模索していかなければならないし、その「それでも語りうる言葉」があの映画がもつ生活と人生の重みへと拮抗しうるものへまで鍛えていかねばならないと思います。戦後70年の日本の歩みというものは「生活」の再建のためにすべての正しいものを求める気持ちを捨ててきた歴史であると僕は捉えていますが、「生活できることが幸せ」という思考停止が暴力に加担しないわけではないこともまた、この70年の歴史の歩みからもまた明白なのではないでしょうか。その反動として日本会議、右翼、あるいは左翼などの浅薄な「正義」がその歪みや限界を認識される前に「そもそも正義を追求している!」というだけで一定の支持を得るというおかしな状況になってしまっているようにも思います。『この世界の片隅に』が描いた「ささやかな一人のささやかな生活を蹂躙することを正当化できるほどの正義などない。」という事実は、一方で「だから生活することだけが大切なのだ。」という主張にはなりません。知性の発祥(「発症」と最初誤変換で出ましたがそれも正しいかもしれません)から、人類史の終焉まで、私たちは曲りなりとも少しは賢くなって滅びていかねばなりません。なぜなら、その賢くなることだけが、「こんなもののために戦っていたわけではない」という悲劇を避けるための唯一の方法であるからです。その中で私たちは、どのように正義がその母体としての一人一人の人間を蹂躙してきた歴史に恐れおののこうとも、この正義ではないとしたらどの正義が正しいのかについて少しでも賢くなっていかねばならないのだと思います。生活を蹂躙する正義はもちろんのこと、生活から切り離された正義もまた無意味であることは確かであるとしてもなお、それは正義の探求、真理の探求をしなくて良いことにはなりません。その探求は知性を持つ人間にとってはかなり根源的な欲求である以上、そこでの考えの足りなさが粗悪な代替品の採用へとつながってしまうからです。そのような取り組みを怠れば、また「こんなもののために戦ってたわけではない」という悲劇が忘れられた頃に繰り返されてしまうことになります。それを防ぐためにも、この素晴らしい作品は「究極的な議論の終わり」ではなく、「議論の始まり」にしていかなければならないと思います。


ともあれ、まだ見てない人は絶対に見るべきです!僕も(既に4回見ましたが)またあと何回か見に行きたいと思います。
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コメント


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ご無沙汰しています。野村です。

『この世界の片隅に』は僕も気になっていたので観ようと思ったのですが、その時は字幕上映が既に終了しているという…

そのため原作であるマンガを購入して読みました。
最初はほのぼのした話かと思ったのですが、話が進むにつれ戦争の残酷さ(正確には"生きる"ことそのものの残酷さ)が露わになり、最後はどんな感想を述べたら良いか判らなくなってしまいました。どのような言葉を紡いでも読後に湧き上がった様々な思いを表現しきれず陳腐なものになってしまいそうです。
映画の鑑賞後に観客が無言で映画館を出て行く様子が想像できます。


"生きとろうが死んどろうがもう会えん人が居ってものがあって
うちしか持っとらんそれの記憶がある
うちはその記憶の器としてこの世界に在り続けるしかないんですよね"

という作中のすずの言葉は、この作品の在り方を表しているように思えました。
私たちの生きるこの世界は先人たちの「記憶」を継承・発展させていくことでつくられている訳ですが、『この世界の片隅に』もまた誰とも知れぬ市井の人々の「記憶の器」として在り、これを観た・読んだ私たちも更にその「記憶の器」として在り続けなければならないのだと思います。たとえその記憶が残酷なものであろうと。

ただし、裏を返せばこの作品はあくまでも数ある記憶の一つに過ぎないのであって、やはり先生のおっしゃるようにこれのみを観て正史だと思い込むのは危ういと感じますし、『この世界の片隅に』以外の多様な「記憶」を見ていく努力は一生継続していかねばならないと思います。

DVDが出たら是非映画も観てみます。


受験がピークを迎える怒涛の3ヶ月、お身体に気を付けて下さい。

野村 大智 | URL | 2017-01-03(Tue)01:30 [編集]


Re: タイトルなし

コメントありがとう。あまりに忙殺されていて、君のコメントにも承認した際に返事をしたつもりですっかり返事をしないまま
時間が経ってしまっていました。本当にすみません。

若い時というのはどうしても生きる意味に飢えているからこそ、「生活」というものには何の意味もないかのようにふるまいがちだし、事実僕自身もそのように生きてきたという恥を抱えているわけですが、人間のほとんどは生活から成り立っていて、言葉とか思想とかというところは本当にごく一部分でしかない、ということを伝えてくれる作品であると僕は何回か見て感じました。もちろん、それはここにも書いたように、「生活」の実感を伴わない表現には意味がない!とか、「生活」の実感を伴っていさえすればよい!というのは知性を持たざるを得ない我々の単なる後退であるにせよ、です。

たやすく言葉にできるものを言葉にするのではなく、言葉にしえないと頭を垂れるしかないものを何とか言葉にしていこうとするということが大切(だということは僕も若い時からわかっていたつもり)なのですが、それが当初の想像を超えて、どれほど難しいことであるのかを改めて思い知らされ続ける毎日です。まあ、お互いに諦めずに頑張りましょう。

> ご無沙汰しています。野村です。
>
> 『この世界の片隅に』は僕も気になっていたので観ようと思ったのですが、その時は字幕上映が既に終了しているという…
>
> そのため原作であるマンガを購入して読みました。
> 最初はほのぼのした話かと思ったのですが、話が進むにつれ戦争の残酷さ(正確には"生きる"ことそのものの残酷さ)が露わになり、最後はどんな感想を述べたら良いか判らなくなってしまいました。どのような言葉を紡いでも読後に湧き上がった様々な思いを表現しきれず陳腐なものになってしまいそうです。
> 映画の鑑賞後に観客が無言で映画館を出て行く様子が想像できます。
>
>
> "生きとろうが死んどろうがもう会えん人が居ってものがあって
> うちしか持っとらんそれの記憶がある
> うちはその記憶の器としてこの世界に在り続けるしかないんですよね"
>
> という作中のすずの言葉は、この作品の在り方を表しているように思えました。
> 私たちの生きるこの世界は先人たちの「記憶」を継承・発展させていくことでつくられている訳ですが、『この世界の片隅に』もまた誰とも知れぬ市井の人々の「記憶の器」として在り、これを観た・読んだ私たちも更にその「記憶の器」として在り続けなければならないのだと思います。たとえその記憶が残酷なものであろうと。
>
> ただし、裏を返せばこの作品はあくまでも数ある記憶の一つに過ぎないのであって、やはり先生のおっしゃるようにこれのみを観て正史だと思い込むのは危ういと感じますし、『この世界の片隅に』以外の多様な「記憶」を見ていく努力は一生継続していかねばならないと思います。
>
> DVDが出たら是非映画も観てみます。
>
>
> 受験がピークを迎える怒涛の3ヶ月、お身体に気を付けて下さい。

柳原浩紀 | URL | 2017-01-26(Thu)13:38 [編集]


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