
今年、塾で四浪していた受験生が国立大の医学部に合格しました!多浪したあとに嚮心塾に来る、あるいは再受験のためにという形で塾に通ってくれる医学部受験生はこれまでも数多くいたのですが、その子は現役生の頃から塾に通ってくれており、かつここまで結果が出せずにいたのにも関わらず塾を見捨てずに通い続けてくれ、そして本当に悔しい結果が続く中でも腐らずに人一倍誰よりも努力してきた受験生であるので、本当に塾を開いてから一番と言えるくらい嬉しい合格でした!他の塾生たちもあまりにも悔しい不合格にもめげずに頑張り続ける彼の姿勢を目の当たりにして、自分の努力の足りなさ、考えの甘さを反省させられては努力の仕方を覚えていくという子たちばかりだったので、彼の合格の知らせには皆が飛び上がったり泣いたりするほどでした。本当に素晴らしかったです。
その努力家で温厚な彼が今年の受験生生活の中で一番声を荒げて憤慨していたのは、試し受験で受けた早稲田の先進理工学部の入試を受けた次の日でした。(物理もかなり難しかったですが)生物の問題はあまりにも難しく、かつ考察問題ばかりで時間が足りるわけもなく、生物が非常に得意な(名大オープンでは二回とも全国2番でした!)彼にとっても3割も取れないような入試でした。「生物受験者を取る気がないのか!」「こんなひどいのは、初めてです!」と珍しく憤慨する温厚な彼に、試験問題を見て僕ももちろん同意したのですが、その上で次のように言いました。
「確かにこの問題はひどい。率直に言って入試で出したら担当者を入試担当から外すべきレベルだと思う。しかし、だったらその試験時間を化学に充てて(比較的解きやすかった)化学の点数をもっと伸ばすことができたはず。つまり、(両方ともできますが生物がより得意である彼の)『得意な生物の点数はしっかり取らなきゃ!』という思い込みに妨げられて、このような理不尽な問題に対してベストパフォーマンスを出せなかったことが、国立入試に向けての反省材料じゃないかな。逆にいえば、それをこの早稲田の理工の入試は教えてくれたと考えれば、理不尽な難易度だとしてもそんなに腹も立たないのではないか。」というようにです。
それに対して彼は、なるほどと深くうなずき、そこからの国立大学に向けての練習の中で、得意な生物が難しくて困ったときに化学を解く時間を削って生物を解かないように、という練習をしっかりとしていました。
理不尽なことは人生の中でこれからも起こるでしょう。いや、人生とは理不尽さの連続であるとさえ言えるでしょう。しかし、その理不尽さに直面した時に、それを呪詛することで自分を向上させることを忘れる人間と、その理不尽さに接してなお、自分がまだまだ改善すべきことを見つけていこうとする人間とで大きく結果が変わってくるわけです。努力が報われずに何度も浪人をせざるを得ないという現実をつきつけられてなお、このような僕の厳しい「指導」に対して深く頷くことのできる彼の素晴らしい人間性を見たからこそ、彼のこの合格は、この社会にまた一つの素晴らしい魂をadaptできた、という喜びの深いものでした。
どのような理不尽さからも学ぶべきものを学ぶことはできます。それを阻害しているのはあくまで、その自らが見舞われた理不尽さを呪詛したくなる自分の弱い心、すなわち被害者意識です。しかし、私たちはどのような事態に対しても被害者であるだけでなく、加害者でもあるわけです。その加害者としての自分をどのようなときでも見つけ、そしてそこを改善できないかを苦慮する人間こそが、真に成長し続けることのできる人間であると言えるでしょう。今日はあの東日本大震災からちょうど5年ですが、私たちはあの理不尽さの極みとも言える自然の猛威による被害者であるだけでなく、たとえば避難の遅れ、津波に対する備え、原発事故の加害者でもあるわけです。それはもちろん被災地に住む人だけではありません。すべての日本人がたとえばあのようなずさんな原子力発電所の津波対策を、その原子力発電所の恩恵を享受することを通じては許してきたという意味で、あるいはたった5年経てば「経済のためには再稼働もやむをえない」「世界で一番厳しい安全規制です」などと平気で言えてしまう、あるいはそれを黙認してしまうという意味で、加害者でもあるわけです。それらの言明が正しいか正しくないかは別として、少なくとも理不尽さに直面してなお、自分の改善点を必死に探す彼のような受験生の態度とは対極にある、「まあ何とかなるんじゃない?」と楽観視するだらしない態度であることは間違いのないことであると思います。
理不尽な事態に対してと同様に、素晴らしい人間は、どんなにダメな人間からも学ぶところを見つけ、学ぶことが出来ます。それとは逆に、ダメな人間ほどに自分が他の人から学ぶべきことがたくさんあるとしても「でも、あいつのこういうところはダメだから。」と難癖をつけては、自分にはない彼や彼女の長所を学び取ろうという努力を怠ります。ある意味で自分のダメなところを克服し少しでも「良い先生」になろうとする教師の努力は、そのように他の人の欠点を見つけては難癖をつけることでさぼることを覚えてしまった生徒たちに逃げ場をなくすための努力でしかありません。それは教育の導入としては必要なことではあるのですが、そのような教師に接して初めて努力をする人間など、他の教師になった途端に当然サボることが目に見えている以上、それだけでは全く教育としては不十分であるのです。むしろ教育の出口としては、教師がどんなにダメであっても生徒たちはそのような教師からもしっかりと学ぶべきところは学び、見習うべきではないところは反面教師として教訓を得る、という姿勢を生徒自身が身につけていけるように取り計らっていくことであると思います。この後者の点に関しては、教育に携わる人々は教師もそれ以外も含め、かなり意識が低いところではないかと僕は思っています。つまり、まだ理想を失っていない先生方も「良い先生になる」という個人的な目標にすぎないものが教育の効果についても最大の成果を上げる、と信じがちであるけれども、実際はそうでもないことも多いということです。一人一人の人生をふりかえってみても、「あの教師みたいな人間にはなりたくない。」「あの先輩みたいにはなりたくない。」という反面教師のほうが、子供心にmotivateする力が強いことって結構ありますよね。もちろん、「良い先生」になるための努力をしたくないがために「自ら学び取る生徒の自主性を育てているのだ!」という振りをしては怠惰を決め込んでいるのも、同様にダメな教師であることもまた事実です。圧政に耐えては自由を求めることがその国の民主主義を鍛えるとしてもそれは圧政自体が正当化されるわけではないからです。教師はその子にとって今何が必要かを絶えず感知しては、そのどちらの役割をもflexibleに担えるようになっていかねばならないと思います。
alpha goに苦しい勝負を強いられている囲碁界のスーパースター、天才の中の天才でありながら、幼少期からすべてを囲碁に捧げてきたものの、その囲碁においてdeep learningの前に屈せざるを得ないというイ・セドルさんの感じるその理不尽さもまた、その理不尽さからイ・セドルさんが何を学ぼうとするかによって意味のあるものになるのだと思います。それは文字通り岡目八目で好き勝手なことを言う我々よりも、はるかに深い意味をもつはずです。何かに真剣に打ち込んだ末にそれが理不尽なものによって蹂躙されてなお、そこから何らかの意味を汲んでは再び努力をするためにこそ、我々は努力すべきなのです。誤解を恐れずに言えば、理不尽さと直面するためにこそ、私たちは努力すべきであるのです。「人物を入試で見る」などという下らない話が主流になりつつありますが、何かの技術や知識の習得に徹底的に打ち込み、打ち込んでもなお様々な要因から来る理不尽さに打ちのめされ、そこで打ちのめされてなお、その理不尽さの意味を考え自分がもっと改善すべきところを見つけていくというそのプロセスを経て初めて「人格」や「人物」がそこに立ち上がってくる、などという当たり前のことは、別にマックス・ウェーバーの『職業としての政治』の「Sache(事物)への専念を通じて個性が立ち上がる」などという言葉を借りなくても、私達が普段スポーツ選手や芸術家、プロ棋士、あるいは職人の方々の高い精神性を見るたびに思い知らされるものではないでしょうか。
人間は生まれながらに死ぬことが運命づけられています。他の動物はどうかはわかりませんが、少なくとも人間は自らの死が存在することを自覚できる以上、どのような努力もいずれ「死」という理不尽さによって奪われるということを知った上で我々はどう生きるかを考えていかねばなりません。その意味では、理不尽さからもまた何かを学ぼうとする姿勢、というのは実はソクラテスが「哲学は死ぬための準備である。」というときの「哲学」と同じものであるのかな、と僕は思っています。
そのような姿勢を受験勉強の最後の最後まで貫いた彼には、大学に入ってからも是非その姿勢で努力を続けて欲しいですし、もちろん僕もその姿勢を最期まで貫き通していけるように頑張りたいと思っています。
その努力家で温厚な彼が今年の受験生生活の中で一番声を荒げて憤慨していたのは、試し受験で受けた早稲田の先進理工学部の入試を受けた次の日でした。(物理もかなり難しかったですが)生物の問題はあまりにも難しく、かつ考察問題ばかりで時間が足りるわけもなく、生物が非常に得意な(名大オープンでは二回とも全国2番でした!)彼にとっても3割も取れないような入試でした。「生物受験者を取る気がないのか!」「こんなひどいのは、初めてです!」と珍しく憤慨する温厚な彼に、試験問題を見て僕ももちろん同意したのですが、その上で次のように言いました。
「確かにこの問題はひどい。率直に言って入試で出したら担当者を入試担当から外すべきレベルだと思う。しかし、だったらその試験時間を化学に充てて(比較的解きやすかった)化学の点数をもっと伸ばすことができたはず。つまり、(両方ともできますが生物がより得意である彼の)『得意な生物の点数はしっかり取らなきゃ!』という思い込みに妨げられて、このような理不尽な問題に対してベストパフォーマンスを出せなかったことが、国立入試に向けての反省材料じゃないかな。逆にいえば、それをこの早稲田の理工の入試は教えてくれたと考えれば、理不尽な難易度だとしてもそんなに腹も立たないのではないか。」というようにです。
それに対して彼は、なるほどと深くうなずき、そこからの国立大学に向けての練習の中で、得意な生物が難しくて困ったときに化学を解く時間を削って生物を解かないように、という練習をしっかりとしていました。
理不尽なことは人生の中でこれからも起こるでしょう。いや、人生とは理不尽さの連続であるとさえ言えるでしょう。しかし、その理不尽さに直面した時に、それを呪詛することで自分を向上させることを忘れる人間と、その理不尽さに接してなお、自分がまだまだ改善すべきことを見つけていこうとする人間とで大きく結果が変わってくるわけです。努力が報われずに何度も浪人をせざるを得ないという現実をつきつけられてなお、このような僕の厳しい「指導」に対して深く頷くことのできる彼の素晴らしい人間性を見たからこそ、彼のこの合格は、この社会にまた一つの素晴らしい魂をadaptできた、という喜びの深いものでした。
どのような理不尽さからも学ぶべきものを学ぶことはできます。それを阻害しているのはあくまで、その自らが見舞われた理不尽さを呪詛したくなる自分の弱い心、すなわち被害者意識です。しかし、私たちはどのような事態に対しても被害者であるだけでなく、加害者でもあるわけです。その加害者としての自分をどのようなときでも見つけ、そしてそこを改善できないかを苦慮する人間こそが、真に成長し続けることのできる人間であると言えるでしょう。今日はあの東日本大震災からちょうど5年ですが、私たちはあの理不尽さの極みとも言える自然の猛威による被害者であるだけでなく、たとえば避難の遅れ、津波に対する備え、原発事故の加害者でもあるわけです。それはもちろん被災地に住む人だけではありません。すべての日本人がたとえばあのようなずさんな原子力発電所の津波対策を、その原子力発電所の恩恵を享受することを通じては許してきたという意味で、あるいはたった5年経てば「経済のためには再稼働もやむをえない」「世界で一番厳しい安全規制です」などと平気で言えてしまう、あるいはそれを黙認してしまうという意味で、加害者でもあるわけです。それらの言明が正しいか正しくないかは別として、少なくとも理不尽さに直面してなお、自分の改善点を必死に探す彼のような受験生の態度とは対極にある、「まあ何とかなるんじゃない?」と楽観視するだらしない態度であることは間違いのないことであると思います。
理不尽な事態に対してと同様に、素晴らしい人間は、どんなにダメな人間からも学ぶところを見つけ、学ぶことが出来ます。それとは逆に、ダメな人間ほどに自分が他の人から学ぶべきことがたくさんあるとしても「でも、あいつのこういうところはダメだから。」と難癖をつけては、自分にはない彼や彼女の長所を学び取ろうという努力を怠ります。ある意味で自分のダメなところを克服し少しでも「良い先生」になろうとする教師の努力は、そのように他の人の欠点を見つけては難癖をつけることでさぼることを覚えてしまった生徒たちに逃げ場をなくすための努力でしかありません。それは教育の導入としては必要なことではあるのですが、そのような教師に接して初めて努力をする人間など、他の教師になった途端に当然サボることが目に見えている以上、それだけでは全く教育としては不十分であるのです。むしろ教育の出口としては、教師がどんなにダメであっても生徒たちはそのような教師からもしっかりと学ぶべきところは学び、見習うべきではないところは反面教師として教訓を得る、という姿勢を生徒自身が身につけていけるように取り計らっていくことであると思います。この後者の点に関しては、教育に携わる人々は教師もそれ以外も含め、かなり意識が低いところではないかと僕は思っています。つまり、まだ理想を失っていない先生方も「良い先生になる」という個人的な目標にすぎないものが教育の効果についても最大の成果を上げる、と信じがちであるけれども、実際はそうでもないことも多いということです。一人一人の人生をふりかえってみても、「あの教師みたいな人間にはなりたくない。」「あの先輩みたいにはなりたくない。」という反面教師のほうが、子供心にmotivateする力が強いことって結構ありますよね。もちろん、「良い先生」になるための努力をしたくないがために「自ら学び取る生徒の自主性を育てているのだ!」という振りをしては怠惰を決め込んでいるのも、同様にダメな教師であることもまた事実です。圧政に耐えては自由を求めることがその国の民主主義を鍛えるとしてもそれは圧政自体が正当化されるわけではないからです。教師はその子にとって今何が必要かを絶えず感知しては、そのどちらの役割をもflexibleに担えるようになっていかねばならないと思います。
alpha goに苦しい勝負を強いられている囲碁界のスーパースター、天才の中の天才でありながら、幼少期からすべてを囲碁に捧げてきたものの、その囲碁においてdeep learningの前に屈せざるを得ないというイ・セドルさんの感じるその理不尽さもまた、その理不尽さからイ・セドルさんが何を学ぼうとするかによって意味のあるものになるのだと思います。それは文字通り岡目八目で好き勝手なことを言う我々よりも、はるかに深い意味をもつはずです。何かに真剣に打ち込んだ末にそれが理不尽なものによって蹂躙されてなお、そこから何らかの意味を汲んでは再び努力をするためにこそ、我々は努力すべきなのです。誤解を恐れずに言えば、理不尽さと直面するためにこそ、私たちは努力すべきであるのです。「人物を入試で見る」などという下らない話が主流になりつつありますが、何かの技術や知識の習得に徹底的に打ち込み、打ち込んでもなお様々な要因から来る理不尽さに打ちのめされ、そこで打ちのめされてなお、その理不尽さの意味を考え自分がもっと改善すべきところを見つけていくというそのプロセスを経て初めて「人格」や「人物」がそこに立ち上がってくる、などという当たり前のことは、別にマックス・ウェーバーの『職業としての政治』の「Sache(事物)への専念を通じて個性が立ち上がる」などという言葉を借りなくても、私達が普段スポーツ選手や芸術家、プロ棋士、あるいは職人の方々の高い精神性を見るたびに思い知らされるものではないでしょうか。
人間は生まれながらに死ぬことが運命づけられています。他の動物はどうかはわかりませんが、少なくとも人間は自らの死が存在することを自覚できる以上、どのような努力もいずれ「死」という理不尽さによって奪われるということを知った上で我々はどう生きるかを考えていかねばなりません。その意味では、理不尽さからもまた何かを学ぼうとする姿勢、というのは実はソクラテスが「哲学は死ぬための準備である。」というときの「哲学」と同じものであるのかな、と僕は思っています。
そのような姿勢を受験勉強の最後の最後まで貫いた彼には、大学に入ってからも是非その姿勢で努力を続けて欲しいですし、もちろん僕もその姿勢を最期まで貫き通していけるように頑張りたいと思っています。
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