
書きたい長い文章を書こうとすれば、時間が足りなくて書けないということが続いている間に、気がついたら受験も間近に迫ってきました。ここからは1日1日がさらに忙しくなっていくわけですが、それを理由に書かないことを続けてしまうと、この先書けなくなってしまうので、復活の狼煙として短い文章をあげたいと思います。
言葉というものは、他者に向かって発せられる以上、衒(てら)いにしかなりえないものです。
だからこそ、我々の魂を震わせる言葉というのは、結局そのように自意識という不純な物から生まれたはずの言葉であるはずなのに、何らかの真理をついているものであるのでしょう。なぜなら、真理とはたいていの人にとっては衒いの対象にはなりえないどころか、できれば語りたくないものであるからです。
しかし、ここから先が難しいですよね。「誰もが語りたくない真理について、私は敢えて語っている!」という自らが正義を体現するかのような瞬間の高揚感もまた、次の衒いのための動機となってしまいます。あらゆる告発、内実の暴露、「王様は裸だ!」という叫びは、叫んだ瞬間の正しさを2回目以降に繰り返されていくときには失っていきます。言葉はどのような自己犠牲の精神をも、自己の衒いへと引き戻してしまう、その恐ろしさを常にもっていると言えるでしょう。ベルクソンの言う「言葉は運動を捉えるのにふさわしくない」とはまさにその通りであるのですが、我々が言葉によってコミュニケーションをとるというだけでなく、言葉を武器として、何らかの価値観を覆そうとせざるをえない以上、このような固着はずっと続かざるをえません。マルクスが「私はマルクス主義者ではない。」と言ったように、固着をふせごうとすれば逆説を繰り返し、自身が何らかの言葉に絡め取られるのを防ぐように言葉を発し続けていかなければならなくなります。
僕の卒業した高校の校是は「ペンは剣よりも強し」でしたが、たしかにペンは長い目で見れば剣よりも強いことが多いと思います。しかし、ペンが剣よりも強くなるためには、「ペンが剣になる」ことが必要となってしまいます。そのとき、ペンはペンのままでいられているのでしょうか。ペンが剣に勝つことを、私達は肯定さえしていればいいのでしょうか。硬直的なスローガン、敵か味方に二分する言説、何が正しい立場かを一方的に決めつける言説、プロパガンダと化していく表現など、言葉は(それこそ司馬遷の頃から)どのような兵器よりも恐ろしい武器になるわけで、私たちは言葉の力を信じるのと同じぐらい、言葉の恐ろしさを恐れなければなりません。
暴力に対し、非暴力的手段で立ち向かうことは、手段であって目的ではありませんし、とりわけ、すべての手段を正当化するほどの目的にはなりえないものです。その厳しい事実を踏まえながら、言葉にできること、言葉にさせてはいけないことの両方を考えていくことが大切なのではないでしょうか。
塾のブログも言葉を自分の衒いのためや武器として使うのではなく、少しでもだれかのために発するべき言葉を紡いで行けるように、頑張って書いていきたいと思います。
言葉というものは、他者に向かって発せられる以上、衒(てら)いにしかなりえないものです。
だからこそ、我々の魂を震わせる言葉というのは、結局そのように自意識という不純な物から生まれたはずの言葉であるはずなのに、何らかの真理をついているものであるのでしょう。なぜなら、真理とはたいていの人にとっては衒いの対象にはなりえないどころか、できれば語りたくないものであるからです。
しかし、ここから先が難しいですよね。「誰もが語りたくない真理について、私は敢えて語っている!」という自らが正義を体現するかのような瞬間の高揚感もまた、次の衒いのための動機となってしまいます。あらゆる告発、内実の暴露、「王様は裸だ!」という叫びは、叫んだ瞬間の正しさを2回目以降に繰り返されていくときには失っていきます。言葉はどのような自己犠牲の精神をも、自己の衒いへと引き戻してしまう、その恐ろしさを常にもっていると言えるでしょう。ベルクソンの言う「言葉は運動を捉えるのにふさわしくない」とはまさにその通りであるのですが、我々が言葉によってコミュニケーションをとるというだけでなく、言葉を武器として、何らかの価値観を覆そうとせざるをえない以上、このような固着はずっと続かざるをえません。マルクスが「私はマルクス主義者ではない。」と言ったように、固着をふせごうとすれば逆説を繰り返し、自身が何らかの言葉に絡め取られるのを防ぐように言葉を発し続けていかなければならなくなります。
僕の卒業した高校の校是は「ペンは剣よりも強し」でしたが、たしかにペンは長い目で見れば剣よりも強いことが多いと思います。しかし、ペンが剣よりも強くなるためには、「ペンが剣になる」ことが必要となってしまいます。そのとき、ペンはペンのままでいられているのでしょうか。ペンが剣に勝つことを、私達は肯定さえしていればいいのでしょうか。硬直的なスローガン、敵か味方に二分する言説、何が正しい立場かを一方的に決めつける言説、プロパガンダと化していく表現など、言葉は(それこそ司馬遷の頃から)どのような兵器よりも恐ろしい武器になるわけで、私たちは言葉の力を信じるのと同じぐらい、言葉の恐ろしさを恐れなければなりません。
暴力に対し、非暴力的手段で立ち向かうことは、手段であって目的ではありませんし、とりわけ、すべての手段を正当化するほどの目的にはなりえないものです。その厳しい事実を踏まえながら、言葉にできること、言葉にさせてはいけないことの両方を考えていくことが大切なのではないでしょうか。
塾のブログも言葉を自分の衒いのためや武器として使うのではなく、少しでもだれかのために発するべき言葉を紡いで行けるように、頑張って書いていきたいと思います。



