嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

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テキストメッセージングの時代に可能な論理について

ご無沙汰をしています。受験が近づいてきて、塾の空気もだんだんと痛いほど緊張感を増しています。
ブログの露払いに教育のことを書いては、本当に書きたいことを書くだけの気力と時間がなく、そのまま教育についてだけの記事がたまに続く、という失敗を重ねているので、今日は別のことを書きたいと思います。

テキストメッセージング(text-messaging)とは、まあ、電子メール、携帯メールや今の主流でいうとLINEやカカオトークfacebookメッセンジャー、twitterとかですね。いわゆる日常会話を視覚的なメッセージでやりとりするものです。このような文化は20年前くらいからまずは電子メールという形で本格化し、特にここ10年くらいで(携帯電話でメールその他を使えるようになってから)日常会話でも使われるほどに急速に普及し、今では当たり前のものとされています。もちろん、こうした変化は今更変えようのないものですし、このような変化に好意的であれ否定的であれ、この趨勢自体を変えようと思うことはもはや無理でしょう。ただ、一つの変化はまた新たな変化を引き起こすからこそ、このような「日常会話をテキストメッセージでやりとりする」という変化がどのように私たちに影響するのかを考えてみたいと思います。

僕がまず初めに違和感を感じたものとして、話のとっかかりにしたいのは、いわゆる「!」(エクスクラメーション)マークについてです。日本語の散文ではこの「!」や「?」を基本的につけませんでした。しかし、この10年で、ブログその他のネットで読める記事はもちろんのこと、印刷物でも散文に「!」や「?」をつけた文章が極めて多くなってきているように思います。僕はこれをテキストメッセージングの影響であると考えています。これは、たとえば携帯メールの絵文字、LINEのスタンプを考えてもわかるでしょう。そういった感情を表す記号をつけなければ、そのメッセージは感情を込めたいと思えるほど相手に興味がない、あるいは感情を込める余裕がないほどに激昂しているのどちらかに解釈されてしまいます(誰もが絵文字やスタンプを使わないメッセージを送って、「怒ってる?」と返された経験があるのではないでしょうか)。

ここで重要なのは、日常会話でのテキストでのやりとりは(面と向かっての会話でのやりとりと比べて)圧倒的に相手の感情に対する情報が少なすぎるがゆえに、顔文字やスタンプ、あるいはその原初的形態としての「!」マークを話し手に要請する、ということです。これは聞き手が直接要請するのではありません。視覚的なテキストでのやりとりにおいて、そのような話し手の感情という情報をテキストメッセージに添えない、ということ自体がそもそもテキストメッセージングを成立させる共通の文法を破ることになる、ということです。

この圧力が極めて強いことから、書かれたものとしての文字に感情を読み取ろうとする傾向、あるいは書き手が書く文章に感情を込めようとする傾向、というのがこのようなテキストメッセージングの急速な普及によって急速に広がった傾向であると思います。その傾向が冷静な議論をすることができずにいわゆる「炎上」へとつながりがちである、ということはわかりやすいのではないでしょうか。LINEやtwitterほどではなくても、例えばこのブログも含めたすべてのウェブメディアはそのような影響を多かれ少なかれ受けているように思えます。

ただ、ブログやtwitterが「炎上」するだけにこの影響は止まっていないのではないか、と僕は考えています。例えばある意見に対して賛成か反対かのどちらかにコミットすることを問われること、つまりは外側に表出するステイトメント(言葉)の背後にある感情やコミットメント(結局どちらの立場をとるのか)までを問われるような圧力が、実はこのテキストメッセージング全盛の時代において、その影響で強くなってきているのではないか、と考えています。テキストメッセージの他の感情などの情報を「!」や顔文字、さらにはLINEのスタンプで表さざるをえないように、です。

そのような時代においては、敵か味方か、という一点において全てが判断され、「敵」の中の考慮すべき部分や「味方」の中の批判すべき部分については考えることがしにくくなります。なぜなら、双方の言葉のやり取りが、共感しているか、反感を覚えているかを確認することを目的としてなされ、そこではそれ以外の内容は伝わりにくくなっていきます。また、「双方にどのような感情があれ、表出されたものが全てだ。」という妥協点を取りにくい以上は、政治や外交における妥協点の選択肢が極端に狭まってきます(これは例えば、外山恒一さんの指摘する『しばき隊の在特会化』などもその一つであると思います)。

双方の感情や立場を見えるようにしなければならない世界、というのは、端的に言えば違う立場の人間とは衝突をせざるをえない社会、ということです。違う立場の人間との衝突を繰り返す歴史の中で、カール・ポパーの言うように「人間は殺しあう代わりに議論を作り出した。」ということがなされていたはずです。しかし、このテキストメッセージングの時代には、話し合うことすらもはや「感情」(これは本当には感情ではなく、「感情」という名目の記号でしかありません)を伴うステートメントを通じて行わなければならない以上、論理や内容についてのコミュニケーションというのが極めて難しくなってしまっています。

もちろん、このような「発言者の立場を決めることを迫らないままに可能な議論」がなくなる環境、というのは戦時下やファシズムの台頭など、政治状況の緊迫化によっても起こりうるわけで、昨今の「まず立ち位置が問われる論争(そして立ち位置以外の内容はあまり興味を持たれない論争)」をそうした政治状況の悪化によるもの、と見ることもできるでしょう。しかし、自分たちが制約がないと思っていたツール(この場合はテクストメッセージングその他、このようなブログも含めたウェブメディアですね)にそのような技術的な傾向や限界があるせいで、議論が二極化しやすいという可能性があるのだとしたら、そしてそれが極めて新しい事態でありまだ分析が追いついていないからこそ(そういう研究ももちろん探せばあるとは思うのですが)、そのような技術の元でなされる「議論」自体が新たな問題を生み出すことに無自覚であるのだとしたら、そのような制約下であることを自覚しないままに議論を積み重ねること自体が、危険であると思います。

それらを踏まえた上で、このような時代に必要なのは、「(写真入りではなく)読まれない可能性があっても長い文章を書こう。」あるいは「長い文章を読もう。」ということであるのではないかと思います。そのようなトレーニングを日々積むことこそが、テキストの内容よりは立場や感情のコミットメントしか見ていないテキストメッセージングやその他ウェブメディアの中から生まれる「議論」の狭さを打開する、地道な取り組みになるのではないかと思っています。結論や相手の感情、立場を類推するためだけに、文章を読んだり書いたりしないトレーニングですね。

その意味でブログやウェブメディアの「進化」とは真逆の方向、文字だけの長くてつまらない文章の論理を追うトレーニングを皆さんもこの嚮心塾日記でしていただければ、と思っております(!)。
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耳が痛いですTT

ミユウ | URL | 2015-10-17(Sat)15:01 [編集]


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