嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

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めんどくさい要求にも、真摯に対応すべきであること。

ごぶさたをしております。あまりの忙しさに、肥満体にムチをうちながら必死に毎日過ごしております。

先月のNatureダイジェストを読んでいて、考えさせられる記事(ここの「輸血を減らして命も救う」という記事です。購読していないと読めないかもしれません。)がありました。
現在の医療における輸血は、実は輸血のしすぎであり、それを少なくすることで輸血費用を抑えられて病院経営面での利点があるほか、そもそも輸血というのはどうしても患者の体内に異物を入れることになり、体への負担がかかるものであるので、輸血の量を減らすことで回復して退院するまでの日数も改善する、というものでした。もちろん、医療現場ではその「ギリギリの量」というのを見極めて輸血するのは病状がどう急変するかわからないリスクを考えれば怖いため、つい過剰に輸血せざるを得ないわけですが、たとえばそのように必要量を超える輸血をするときには、本当に必要かどうか、医師にいちいち確認するシステムを開発すれば、輸血費用も抑えられ、患者の回復も早まるのではないか、という話でした。これ自体も目からウロコな話ですが、さらに考えさせられたのは以下の話です。

他人の血液を使わずにその患者の手術中にでた血液を回収し、本人の体内に戻すことで輸血をしないで治療をするという「術中回収式自己輸血」がその「制限的輸血戦略」には有効であるそうなのですが、その「術中回収式自己輸血」というやり方がどうして生まれたのかというと、エホバの証人という他者からの輸血を拒む宗教団体の信者たちを助けるために発達したそうなのです!これにはかなり驚きました。もちろん、エホバの証人の信者達が輸血を拒むという事実は知っていたのですが、それに対してそのような対応を医療者が必死にしてきたこと、さらにはそれがこのように医学の進展によって輸血に対する新たな見方が生まれた時に、(一部の人のコアな要求にだけでなく)誰にとっても役に立つような工夫に実はなっていた!ということにとても感銘を受けました。

もちろん、このような見直しを「だから他者の血液が汚いというエホバの証人の主張は正しかったのだ!」ということにしてはならないと思います。それは結果として合っていただけで、根拠がない状態でその主張を信じることは、やはり多くの人にとってはすべきではないことであると思います。そもそも最低限の輸血はやはり必要である以上、かたくなに他者の血液を拒むことは理性的な態度ではありません。ただ、社会の中でそのようなマイノリティが存在し、その主張は理解し難いものであったとしても、それに対して「輸血がいやならもうどうなっても知りません。」などと突き放すことなく、そのようなマイノリティが医療を受けられるように工夫していく、という姿勢が、医学の進展により医学自身のさらなる洗練を前もって準備することにつながっていた、といえるでしょう。

「クレームが次のビジネスチャンスになる!」という話はよくされるわけですが、それも同じことですね。そこにおいて、クレームをつける方が正しいわけではないのです。その中には正当なものもあるでしょうが、ほとんどはまったくの言いがかりに近いのではないでしょうか。しかし、そのような言いがかりに近いクレームも、今の商品やサービスの足りないところについて、考えるきっかけを作ってくれるという意味では、極めて重要な機会を与えてくれるわけです。そこでしっかりと考える人と、「あれは単なる言いがかりだから」で終わらせる人とで成長できるかどうかが大きく違ってしまいます。
そして、医学と同じように私たちの常識というものもまた、間違っていることが多々あります。その常識の間違いに気づいた時には、そのような一見理不尽に見えるクレームについてもしっかりと考えてきた社会と、そうでない社会とで大きく対応の速度が変わってくるのだと思います。

これはまた、これから参議院で審議の始まる安全保障関連法案についての抗議もまた同じであると思います。有識者ほどに、それを冷笑する雰囲気が強いようですが、「冷笑する」というのは真摯に対応することの真逆であると思います。
有識者が自らの「知識」という権力を有効に活用するための戦略がまさにこの「冷笑」なわけですが、このような有識者の傾向は一般に(どちらかに加担をしないことによって)政治権力の味方をすることにつながりがちです。抗議の声の稚拙さ、考えの足りなさをあげつらう前に、その抗議の声に対して真摯に考え抜くことを今(「それはもう既に考えた上での結論だ」のように)していないのだとしたら、それはやはりエホバの証人の患者さんを前にして、その患者さんたちが手術を受けられる方法を必死に考え抜いてきた真摯な医療者とは対極の、極めて怠惰な態度であると思います。そのような怠惰さが招くものは、今選び取ろうとしている道が将来(過剰な輸血のように)間違っている、あるいは修正すべきものだと気づいた時にも、それをなかなか修正できないままになってしまう、という失敗の上塗りなのではないでしょうか。
本当に恐ろしい社会とは、ものわかりのよすぎる社会、そのような「めんどくさい要求」が発せられない社会であるのではないか、と僕は思います。もちろん、「めんどくさい要求」をする側が常に正しいわけではないとしても、です。

このように、多様性とは「めんどくさい」ものです。しかし、だからこそ、多様性には失敗からも学ぶ粘り強さが生まれます。そして、人間の知性など限界があり、こうして最新の学説が今までの常識を覆すことがこれからも人類が滅びるまでずっと続いていくであろうからこそ、その粘り強さを保ち続けるために、めんどくさいことを日々しっかりやっていかねばなりません。

塾もまた同じです。どのような「めんどくさい」要求にも、真摯に考え抜いていこうと思っております。
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